本を開くと、そこにはいろんな世界がある。
映像の中には、見たこともない世界が広がっている。


いつも歩いている世界にさえも、知らない世界へつながる扉があちこちに点在している。






見知らぬ世界に行くことも、見たことない世界を探すのも簡単なのに、自分が生きる世界を変えることはとてもつもなく難しい。








でも、それでいいと心に決めた。

守るべき世界も、
自分がいるべき世界も決まっているから。





世界にいつまでもどこまでも溢れる負の感情から生まれる忌み嫌われたものたちから、見知らぬ誰かの日常を守る為に。









呪術師は、世界を変えたりしない。
ただ目の前の日常を、守るだけなのだから。














何も変えられない無力さに、絶望する暇なんてない。その無力さを全部抱き抱えて、明日を生きていくしかないのだから。
















左京家の朝は、至って普通だ。
使用人たちはいるものの、ダイニングテーブルに家族三人だけで朝食は必ず取ることになっている。





まだ着物に着替えていない可憐の父である、宗滴の向かいに座った娘の可憐もまた部屋着のワンピースのままでまだ眠そうな表情だ。

宗滴の隣にいる母、香耶乃は綺麗に身だしなみを整え早朝から美しい着物姿でお櫃に入ったご飯を盛り付ける。




焼き魚と小鉢に入った副菜が二つ並び、味噌汁とご飯が添えられたら自然と同じ頃合いで手を合わせて食事の挨拶をした。











「昨日だったね、美術館に行ったのは。楽しかったかい?」
「うん、あの絵ね、抽象画じゃなくて風景画だったの!びっくりした」
「チケットにも印刷されている絵が?それはすごいわね。そうは思わなかったわ」
「でしょ?すごく細かく書き込まれてたし、青とオレンジ色でも微妙に違う色で塗られたりして。楽しかったよ」




綺麗な所作で食事を進めながら、可憐は両親に昨日のことを楽しげに話す。一通り話せば話題は今日の任務の事や呪術に関する話に自然と流れていく。まさか昨日、五条に告白された事を伝える事はしないようだが話も食事もひと段落したタイミングで、可憐は少し改まった様子で「ちょっと聞いてもいい?」と両親に尋ねた。








「どうした?」
「当主とかそういうのなしで、今は家族の時間ってことでいい?」
「ああ、勿論。」
「じゃあ、これは娘が両親の二人に質問してるってことで答えてね」
「あら、なに?気になる言い方して」




どこか楽しげな母の言葉に可憐は肩をすくめてから「あのね、」と言葉を続ける。









「五条家の当主といっしょに出かけるのを許してくれているのは、小さい子がいたずらしているのをわかっててもあえて気が付かないふりしているのと同じ?」


箸を置いて、姿勢を整えてから。
でもいつも通りの口調でなんでも無いことの様に可憐は二人に尋ねる。







「いつも一緒にいる漣は、お父さん達の許可は降りてるって言ってくれてるけどお父さん達に直接何かを言われたことはなかったから。

術式のこともあるし、なるべく出歩かない様にって言うのはわかってるの。自分で選んだことだから不満もない。でも、五条家の当主と出かけるのならいいのは、なんでだろうって。


やっぱり、彼が強いから?」




可憐から目を背けるでもなく、何かを隠すような様子はなかったが少しだけ両親は困ったように顔を見合わせた。しかしすぐに小さく微笑むと娘の方を真っ直ぐに見る。







「..うーん、そうだね。確かに彼は文句無しの現代最強の呪術師だ。だから、必要以上に出歩く事にリスクがある可憐を、安心して出掛けさせるとしたら一緒に行ってくれる相手に彼以上に適任はいないだろうね」

「小さな子のいたずらのように気が付かないふりをしていた訳じゃないわ。

若い二人が出かけていくのにわざわざ大人が口を出すこともないでしょう?」






きっと、可憐が思っていたよりも穏やかに彼女の両親は娘からの問いに答えた。









「..当主として生きるのが最優先なのは当たり前として、これからも彼となら出かけたりしてもいいってこと?」



遠慮している様な問いに、前当主である宗滴は優しく微笑み特別でもなんでもないことの様に答えた。






「勿論だよ。それに私たちは可憐が当主として立派に役目を果たしている事を知っているからね。

大丈夫、気にせず出かけておいで。」







たった一人の女の子が、人と違う能力を持ち産まれただけで想像もできない様な生き方を求められる。



漠然と、この世界のためになんて言葉で片付けられてしまうけれど、この世界のために彼女は自分の世界を狭くするのだ。誰にも知られず、誰とも関わらない生き方を自ら選ぶ彼女にとって、自分で望む場所に足を運べることは奇跡に等しい。










「ありがとう、お父さん、お母さん」






ふわりと微笑む可憐は、嬉しそうに箸を取り残っていた朝食を口へと運んだ。

























「告白したって、えっ、本当に?」
「だーから、そうだって言ってんじゃん」
「案外すぐにしたんだね」
「そ?まぁ、僕が可憐の事をすきなのは昔から変わらないし。でも自分の中で確信が持てたらすぐ言いたかったから」








昼休み。
高専の裏庭のベンチに腰掛け少し前から吸うようになった煙草を咥えていた夏油を見つけ、棒付きのチョコレートをどこからか出して隣に腰を下ろした五条はしれっと「そーいえば、告白した」と挨拶でもするかのように報告したのだ。





もう目元をいつものようにアイマスクで隠したままの五条の口調はいつも通りで、夏油はなにを言おうか少し悩んでいる様子だった。



卒業式の日に別れ、そのまま三年間一度も会わず、その間に可憐は五条の事を忘れてしまっている。それでも五条は彼女を大切に思い続け、自分が当主に就任した事をきっかけにまた会いに行く事を選んだ。






記憶がないという事は、五条が覚えている思い出を可憐は覚えていないという事。
それは五条だけでなく夏油や家入、彼女と関わりのある人間みなに当て嵌まる。

けれど、友人や同級生、後輩と恋人は関係性の重さが違う。ましてや五条と可憐は幼馴染で二人しか知らない思い出も数えきれない程あるのだ。 




可憐が全てを忘れても、それでも彼女を大切に思い続ける前例のない事を成し遂げようと水面下で動いている五条にこれまで、可憐を好きという確信が無かったはずがないのに。







「確信、そんなの今更かい?」
「この前硝子に怒られたじゃん?

昔の可憐と今の可憐が同じはず無いだろって。それを一番わかってるのは僕だろってさ。」

「ああ、あったね」
「どっかで自惚れてたんだよ。

僕の事はもしかしたら覚えてるんじゃないとか、高専で一緒に過ごした僕達の事だけは薄らとでも記憶に残ってるんじゃないかって」

「..でも、残ってなかっただろう?」

「うん。これっぽっちも。もうね、笑っちゃうくらいこれっぽっちもなかった」






ベンチに寄りかかり、空を見上げる。
長い脚を投げ出して、まるで子供のように五条は笑いながらそう言った。








「産まれた時から一緒に育って、親より一緒にいる時間も長いのにさ。全然覚えてないの。


知ってるけど、知らない。
今の可憐は幼馴染じゃなくて、ひとりの呪術師。名家の当主の、呪術師。

それでも僕は彼女が好きか確信が欲しかった。幼馴染の彼女が好きなんじゃなくて、ただ可憐を好きかの確信が欲しかったんだよね。」










夏油が知る親友の五条は、周りに見せないだけで努力家で情に熱い。けれど冷静な判断力で時に残酷な決断も下す事が出来る。


自分の実力をもってしても驕らず研鑽を積み重ねているのが最強たる所以だ。



そんな五条が唯一、私情を挟み無茶を選ぶとすればそこには必ず可憐がいる。
でもそれが、彼の人間らしさを保証するようでもあった。



それなのに、何処までも五条悟という男は現実をきちんと見ようとする。記憶が消えて行くかつての恋人の事さえも、自分の彼女に対する感情さえも、冷静に観察し何かを判断しようとしているのだ。












「可憐の事、やっぱり大切なんだ。

幼馴染として出会ってなくても、きっと僕は好きになっていたと思う。

記憶がない可憐と会って、不安にならなかったって言えば嘘になるけど今はもう平気。

僕は、何度だって彼女を好きになる。その確信が持てたから、もう迷ったりしない」









真っ直ぐな決意表明なんて、何処か気恥ずかしいものなのに五条の言葉があまりに真摯で夏油はそれを揶揄ったりはしない。

「そうか」とだけ答えると「いつかまた、四人で集まりたいね」と五条は笑った。








「そうだね。そうだ、悟」
「なに?」
「ちなみに、可憐に振られたらどうするんだい?」

「...えっ?!」








ガバッと想像の何倍も勢いよく身体を起こして、自分の方を見た五条に夏油は思わず吹き出して笑ってしまう。






「冗談だよ、冗談」
「..うっわ、マジでやめて」
「振られる事を想定してなさそうだったから、一応ね」
「...振られるって、あり得ると思う?」
「さぁ、それはどうだろうね。」









世界の全てが見える蒼い眼をもってしても、たった一人の心を見るのは難しい。

最強の男が、ただの男になる瞬間を知る人は殆どいないだろう。夏油は昔のように五条を揶揄うと煙草を持っていた携帯式の灰皿に押し付けて、ベンチから立ち上がる。










「ほら、そろそろ仕事に戻るよ」
「..はーいはい、って不穏なこと言うのマジでやめてくれる?」
「ははっ、ごめんごめん。」













―――――――大丈夫。

君達は昔から、大丈夫だと知っているさ。



(誰よりも、知っているよ)

















どうか、大切なものを大切だと言える世界をふたりに。




















五条が当主に就任した頃の秋の心地よい気温が懐かしくなる程に、季節は冬へと着実に進んでいた。一年の暮れが近くなれば呪術師にとっても忙しい時期となる。





五条は可憐に想いを告げたのは繁忙期に入るほんの少し前で、冬とは思えない程に暖かく二人で飲んだアイスココアを思い出すだけで今は寒さを感じてしまう。




あの日から二人は多忙を極め、たまにメールのやり取りはするものの会えてはいない。


五条は繁忙期の中で自分の誕生日を迎え、記憶を失っている以上当たり前だが可憐から祝福の連絡が来ることはなかった。




可憐は二人でアイスココアを飲んだ数日後から九州へ父親と共に長期の任務に出ていて、たまに五条に写真付きのメールが届く。東京より少しだけ暖かいという報告や、食べて美味しかったものの写真など他愛の無い連絡さえも五条にとっては嬉しいものだった。








街のクリスマス仕様にもすっかり慣れた頃。
ここ数日東京の気温ががくっと下がり、明日のクリスマスには雪が降るかもしれないなんて天気予報が出されたのは今日の夕方のニュースだった。



朝から数件の任務を終えた五条が一人で暮らすマンションに帰宅したのはあと少しで日付が変わる頃。

最近は高専やホテルに泊まる事も多かった為、自宅に戻るのは久しぶりだ。殆ど何も入っていない冷蔵庫を開けて炭酸水を取り出すとソファに腰掛け用も無いのにテレビをつける。




ドラマにバラエティ、音楽番組、ニュース。
呪術師の彼と普段殆ど交わる事の無い情報がテレビには溢れていた。プシュという音を立てて炭酸水の蓋を開ければとりあえず口に運ぶ。


当たり前の連勤で意識せずとも疲れていた身体にすぐそれは染み渡って、五条はソファに深く寄りかかるとアイマスクを外し天井を見上げた。






クリスマスイブ、今日は可憐の誕生日だ。
小さな時からクリスマスに届くプレゼントよりも彼女の誕生日を祝った事の方が記憶に鮮明に残っている。

最後に祝った誕生日は、彼女が今でも右手の中指に付けている指輪を贈った。あの時は、次の年に当たり前に誕生日を共に祝えなくなるなんて思ってもいなかっただろう。



打ちっぱなしの無機質なコンクリートの天井は、外の煌びやかさとは正反対で何処か非現実的だった。


意味もなくテレビから流れる音声をそのままに、暫くそうしていると五条のポケットの中でスマホが振動する。任務を終えたばかりだというのにまた日々胃に穴が開きそうな顔をして奔走している後輩からの電話かと舌打ちをしながら、スマホを取り出した。









【着信  左京 可憐】

想像もしなかったであろう画面に表示された文字に、身体をガバッと起こしてから暫く五条はそのまま画面を見入ってしまう。





暫く会えてさえいない可憐からの着信は五条を驚かすのには充分だったようで何処かぎこちなく、慣れているはずの操作で電話に出た。










『もしもし、』
『あっ!もしもし!』
『ん、どした?』




動揺なんて微塵も感じさせないいつも通りの口調で電話に出た五条が聞いたのは、心なし弾んでいる可憐の声だ。






『いま、もう家?』
『そうだよ。そっちはまだ九州でしょ?』
『さっきホテルに戻ってきたところで。
明日明後日の任務がうまくいけば、もうちょっとで東京に戻れそう』
『じゃあ、年越しはこっち戻れるね』
『うん、そうなるといいな。悟は、連勤いつまで?』
『えー僕はどうだろ。休みたいな、そろそろ』
『少し、声も疲れてるね』





ごめんね、電話して
と申し訳なさそうな可憐に五条は『全然いいよ』と優しく答える。それから少しの間、二人の間に沈黙が流れた。










『なにか用があった訳じゃないんだ、』

少しだけ小さい声で紡がれたその言葉に五条は『いいじゃん、用事ない電話』と笑って返す。すると可憐は電話の奥で小さく笑ってから『あのね』と言葉を続けた。








『声、聞きたいって思ったの。』

『....えっ?』

『今日、誕生日なの、わたし。

でもずっと任務だったし、なんか特別なことがある訳もなくて。

一緒にこっちきてるからお父さんにはおめでとうって言ってもらったし、お母さんからも電話きたけど、なんか、んー..』




言葉がうまくまとまらないようで困った様子の彼女に五条は『うん、ゆっくりでいいよ』と急かす様子もなく伝える。









『..誕生日だから、このまま終わっちゃうのが嫌だったの。何かちょっとだけ、なにかあったら嬉しくて。だから声、聞きたくて電話かけた。

出てくれて、ありがとう』




きっと、電話口の向こうで恥ずかしそうに話しているはずなのに真っ直ぐに真摯に伝わるその言葉を聞いて五条は口元を隠して微かに緩む自分の表情を抑えた。








『可憐』

『ん?』
『僕もさ、この前誕生日だったんだよね』
『えっ?!いつ?』
『七日』
『えっ、美術館行った日の少し後だったの?言ってくれたらよかったのに!』
『忘れてた、誕生日。忙しかったし』
『えー...でも、誕生日近いの、なんか嬉しい』
『あー、いい事思いついた』
『うん?』

『可憐がこっちに戻ってきたら一緒に誕生日のお祝いしよ。だから、今日はおめでとうは無しね』












誕生日を祝う約束なんて、そんなのしなくても当たり前に叶うものであった筈なのに。
誕生日は当たり前に来年もまたその先も来るものなのに。臆病な心に、大丈夫だというちっぽけな保証が欲しくなる。












『..うん!じゃあ、気に入ってもらえるものを選べるかわからないけどプレゼントも買ってもいい?』

『僕も用意するよ』
『ほんと?楽しみ』



『その時、少しだけ聞いてほしい話があるんだけどいい?』








可憐のその問いに、五条は軽く息を吸い込んでからいつも通りの口調で答えた。








『いい話なら、勿論大歓迎!』
『あははっ、うん、きっと大丈夫。』
『そ?ならよかった』
『ごめんね、遅くに。また明日も任務でしょ?』
『んーでも別に平気。可憐は?』
『そこそこ早いからそろそろ寝ようかなって思ってる』
『ん、了解』
『また連絡するね』
『うん、僕も連絡する』









おやすみ、という可憐の言葉を聞いてそれをくり返そうとした五条が思い出したように言葉を変える。












『メリークリスマス、可憐』


リビングの壁にある数字も何も書かれていないシンプルな時計は、十二時を回っていた。










『メリークリスマス、悟。

素敵な日になりますように』










電話を切り、五条が窓の外に目を向けた彼の笑顔はとても柔らかく幸せそうだったのは誰も知らない。













また明日、明後日と積み重ねた先にしか僕たちの未来はやって来ないのだから、今日また僕はあしたを必死に生き抜くよ。

















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