陽だまりの君

生クリームの乗った黄金色の生地にフォークを通せば、隙間からはふわりと甘い湯気が飛び出してくる。熱々のうちにバターと生クリームをたっぷり絡ませて大きく頬張ると、口の中は幸せの味でいっぱいに満たされた。
――これこれ、今日も最高に美味しい!
物心ついた時からほとんど毎朝食べているパンケーキだけれど、不思議なことに一向に飽きる気配が無い。これが家庭の味ってやつなのかな?あたしの体は半分くらいパンケーキでできていると言っても過言ではないだろう。いや、半分と言わずもっとかもしれない。毎朝パンケーキを食べるこの瞬間に、今日も頑張るぞって元気と幸せが湧いてくる。
では、そんな幸せなパンケーキを焼いたシェフはというと。


「今日という今日はぜーったいに謝ってもらうから!」


生地をフライパンに流し入れる小気味良い音と一緒に不機嫌さを滲ませた声を上げていた。ここ数日その言葉はお決まりの文句となっていて、本日は既に三度目になる。チラリとキッチンに目線を送れば昔からお決まりの、口をへの字に曲げていかにも「怒ってます!」という表情のままキッチンに立つ人物はフライパンを睨み付けていた。もちろん、謝って欲しい対象はその目の前で綺麗な焼き色を付けるクラシックパンケーキではない。


「ねえ、もういいじゃん。そんなに怒らなくてもさ」
「いーや!一言悪かったって言ってもらわないと絶対絶対気が済まない!」
「頑固だなぁ……」


返ってきた言葉に思わず肩をすくめる……こうなった時のママは頑固だ。とはいえ長年繰り返してきた手元の動作に乱れは一切無く、怒っていつつも相変わらず見事な手捌きでパンケーキを焼き上げていく。最後にお皿にパンケーキを移してずいっと突き出すと、受け取った船員もほどほどにしとけよと呆れ顔を見せた。
ことの始まりは数日前、ママが大事にしていたマグカップをパパがうっかり落っことして割ってしまったこと。どこにでもありそうなありふれたデザインのものだったから、予想以上の落ち込みようにすごくビックリしたのを覚えている。そして落ち込みから回復した後はこの調子でずっと怒っているのだ。わざとじゃないんだからパパも一言謝ってさっさと終わりにすれば良いのにとは思うものの……まあ、あの人が謝っているところは生まれてこの方一度も見たことが無い。一度もだ。


「今日は島に着くんだよ。そんなに怒ってたらせっかくのお出かけも楽しくないじゃん」


ムスッとしたままの顔に声をかけるもその表情は晴れない。言葉の通り今日はひと月ぶりに島へ上陸する予定で、いつも通りなら両親は二人で出かけるつもりだろう。あたしが小さな頃からそれが二人の恒例となっていた。我が両親ながらなかなか仲が良い夫婦だと思う。……なのに。


「……行かない」
「え?」
「今回はアーロンとはお出かけしない!」
「えー!?」


半ばヤケクソのように言われたそのセリフにこちらが驚いてしまう。大勢での共同生活である船上ではなかなか二人きりの時間が取れないからとデートを欠かさなかったあの両親が……!?これは思った以上におおごとかもしれない。どう返そうか言葉に詰まるこちらを不満そうな顔が振り返り、名前を呼ばれる。


「ね、今回は一緒にお出かけしよう」
「あたし?いいけど……」


――それって後でパパが拗ねたりしないよね?
言いたいことは色々あるがとりあえず今は黙っておく。仕方ない、気が済むまでなんとかご機嫌を取るしかないか。ため息はパンケーキの最後のひとかけらと一緒に飲み込むことにした。









「夏島の秋はまだまだ暑いねぇ……って、これは雨上がりのせいも大きいか」


ぱたぱたと手で扇ぐ動作をしながら小さな頭が辺りを見回す。その言葉通り、昼間降っていた雨が止んだばかりのせいか湿気が多くてむわっと蒸し暑い。
島で一番大きなこの街には海域でも一、二を争う大型の市場があり、今回はここを訪れるのをとても楽しみにしていた。しかし島に着いたのが夕方前ということもあり、今日は軽く歩き回りながら何か面白いものが無いか散策する程度だ。明日以降、改めて本格的に買い物に来る事になっている。
隣を歩いている人物は今はご機嫌に鼻歌なんか歌っているが、はてさてどうやって機嫌を取ろうか。手っ取り早いのはやはり、以前使っていたものと同様のマグカップを見つけて購入することだろう。幸いこの市場には雑貨や食器を取り扱っている店も数多く存在し、お目当てのものを見つけるのにそう時間はからないだろうと思われた。
ところどころにできた水たまりを避けながらきょろきょろと視線を彷徨わせて進んでいく先に、ちょうど食器を取り扱うお店が目に留まる。


「あっ、ねえあれ見てよ!」
「どれ?」
「これこれ!ほらっ、前使ってたカップと似たような……あれ?」


割れてしまったカップと同じようなデザインが視界に入り店先へ歩いて行って覗き込んだ。うん、色といい形といい、先日まで食堂でよく見ていたものとそっくりだ。任務完了は予想よりだいぶ早そうだと胸を撫で下ろしながら、カップを手に取り後ろを振り返るとママの姿が無い。
慌てて目線を動かせば、人混みの向こうに小走りのママが小さく見えた。ギョッとして来た道を引き返す。


「ごめん!ついいつもの感覚で……」
「だっ、大丈夫、気にしないで」


ふうふうと息を切らせる顔にお腹の底から申し訳なさが込み上げた。
あたしは他の船員の泳ぎに置いていかれず付いて行けるようになった頃ぐらいから背がぐんぐん伸び始めて、今ではこうしてママの頭をずうっと下に見下ろしている。もちろんコンパスの長さも段違いで、いつもは船員のみんなと出かけることが多いあたしはこうやって、二人でのお出かけの時にうっかり置いていってしまうことがままあった。パパとは大違い……二人が並んで歩いているときに置いていかれてしまうママを見たことが無い。
息を整えたママが改めて何を見ていたのか問いかける。気持ちを切り替えてそれに答えようと口を開きかけた時、背後から声をかけられた。


「オネーサン達、二人だけ?」
「おれらと遊びに行かない?」
「……はあ」


開いた口からはそのまま落胆のため息が零れる。どうしてこう、ナンパ野郎ってのはどこにでもいるんだか。振り返ると街のチンピラだろう軽薄な笑みを浮かべた男が数人、こちらを値踏みするようにじろじろと無遠慮な視線をくれた。
ママは実年齢より異様に若く見えるせいか、二人でいるとこういうこともよくある。非戦闘員のママはともかく、あたしだってそれなりに戦えるのに……まだ若いせいなのかいつもこうやってナメられて良い気はしない。こちとら海賊、そう気が長くないことは育ってきた環境でおわかりいただけるだろう。


「いいねえ……姉妹?そっちの君は半魚人かな?おれ、背の高い女の子好きなんだよね」
「ウルッセーぞボケナス!!そのよく回る口閉じてとっとと失せやがれ!こちとら手前らみてェな雑魚に用はねェんだよ!!」
「ちょっと、口が悪いよ……!」
「あ?女が一丁前に生意気こいてんじゃ……」
「おっ、おい、あいつの刺青……!」


カチンときたようにこちらを睨み付けた男の言葉を遮って、連れの男があたしの刺青を指差す。どうやらうちの手配書はこの辺でもしっかりと出回っているようだ。


「こいつらアーロン一味の……」
「海賊かよ、クソッ」


海賊だとわかり気が変わったのか、男達はそそくさとその場を後にする。その後ろ姿に向けて舌を出していると服の裾をキュッと引っ張られる感覚があり、そろりと視線を下げると……また「怒ってます!」の顔がこちらを見上げていた。


「口が悪い」
「だあって、ママ!海賊はナメられたら終わりだよ!」
「言い訳しない!そんなことばっかりじゃ余計なトラブルになるかもしれないでしょ?ダメったらダメ!」
「あー!もう!」


背がママより一メートル近くも伸びたってまだ子供扱いだ。こちとらもう一人前なのに。しぶしぶ口先だけで反省を呟くと、ニコリと笑みを作った顔が頷いて店先を覗き込むのだった。










すっかり陽も傾きそろそろ夜が主役に取って代わろうとし始める頃、市場の端を抜け港に向けて足を進めていた。鼻歌を歌っていた先ほどとは違い静かに歩く隣の人物を見やる。
ママは店先をいくつか覗き込んではいたが結局何も買うことは無く、あとはこのまま船へ戻るだけだ。手に取って見ていたのはそのどれもがマグカップで、割れてしまったものの代わりを探していたのだとは予想がついたが、同じようなデザインのものを見かけてもため息をついて棚に戻すのみだったのが気にかかる。


「カップ、買わなくて良かったの?前のと似たようなのもいくつかあったと思ったけど」
「うーん……」


くるくると髪の毛先を弄びながら曖昧な返事をするママに思わず首を傾げる。てっきりデザインが気に入っていたんだと思っていたけど、この様子だとどうやら違うようだ。ともかくまた明日以降、宥める別の方法を探さなければならない。そうだ、早起きして朝市を覗いてみるのも面白いかも。さっそく明日のお出かけの予定を立ててしまおうかと口を開きかけた時、背後から近付く複数の足音を耳が拾い上げた。


「よお、オネーサン。さっきはドーモ」


振り向くと、先ほど声をかけてきた男達が道を塞ぐように立っている。その背後にはゾロゾロと仲間を引き連れていて……チラリと周囲へ視線をやるも、いつの間にか人通りの少ない道へ来てしまっていたようだ。
小さく名前を呼ばれて見下ろすと不安そうな瞳と視線がぶつかる。安心させるように、それにはニコリと笑ってみせた。頷いたママはあたしから離れて路地の端へ寄る。


「何か用?あたし達暇じゃないんだけど?」
「何か用じゃねェんだよ……余所者にナメられたままじゃカッコつかねェだろっつってんだよ!!」
「フン、見た目どおり器の小さい男」
「……何だと?」


男の眉がピクリと吊り上がった。自分より背の高い女に言われたことで、身長を揶揄されたとプライドが傷付いたんだろう。一丁前に腰に佩いていた大きな剣を威嚇するように音を立てながら鞘から引き抜き、それを見た周りの男達もそれぞれ武器を持つ手に力を込めるのが見えた。応戦するためにこちらも低く腰を落として構えながら、サッと視線を走らせて相手を確認する。……やはりあたしより強そうなやつはいないみたいだ。全員、普段から武器は威嚇の道具としてしか使っていないんだろう、構え方がメチャクチャで見れたもんじゃない。
こちらの余裕そうな表情に気が付いたのか、額に青筋を浮かべた男が雄叫びを上げながら切り掛かってくる。予想通りまるで使い慣れていなそうな大きな剣の切っ先はブレブレで、半身を反らせてそれをかわすと鉄と地面のぶつかるキーンと固い音が間抜けに響き渡った。自分の得物に振り回されて寸止めすらできないようでは高が知れている。


「ねえ、ダンスのつもりならよそ当たってくれない?」
「ッ……やっちまえ!!」


その言葉に周りの男達が一斉に飛びかかってくる。そこから後はもうただの作業だ。頭の中でリズムを取りながら相手をいなしていく。
――右、右、左、後ろによけて、ジャンプ。もう一回左。
ママの前だからあんまりやりすぎないように。向こうの動きに合わせて拳を置いておけば、そこに突っ込んで来た相手は勝手に吹っ飛んで気絶する。普段からマッチョに囲まれて鍛錬しているあたしのフィジカルは伊達じゃない。
最後の一人をデコピンで吹っ飛ばすとパンパンと手を叩く。魚人空手を使うまでもなかったな……と思いながら辺りを見回すと、あの大剣男がいない。あれ?と背後を振り返った時にはもう、その切っ先が立ちすくむママに向かって大上段から振り下ろされるところだった。
――ダメだ、距離が離れすぎてて間に合わない!!


「マ……!!」


咄嗟に手を伸ばした目の前で突然、剣を構えたままの男が勢い良く横に吹っ飛んだ。バクバクと高鳴る心臓を抱えたまま、壁に激突して気絶した男を呆然と眺めている背後から、聞き慣れた声が呆れたように投げかけられる。


「お前は詰めが甘ェんだよ」
「パパ……」


片手を振って水を切りながら現れたパパの様子にもう一度男を振り返る。今のは撃水≠セ。思わず大きなため息を吐きながら全身の力を抜く――完全に油断していた。あたしが使うまでもないと思っていた魚人空手の技で助けられたことに、自分の慢心を思い知らされた恥ずかしさと、ママを失っていたかもしれないという恐怖で拳を握りしめる。


「ごめんなさい……怪我は?」
「大丈夫。なんともないよ」


パパに支えられて立つママは近付いたあたしの顔を両手で挟んで覗き込んだ。不思議に思っていると「うん、怪我してないね」と小さく笑う。……怖い思いをしたのはママの方なのに。危険な目に遭わせてしまったことが申し訳なくて眉尻を下げると目の前の顔が明るい声を出した。


「そんな顔してたら海賊らしくないよ?ナメられたら終わり、なんでしょ?」
「そうだけどぉ……もう!」


ぶんぶんと頭を振って気持ちを切り替える。反省終わり!次こそは絶対に気を緩めず最後までやり切ること!よし、と気を取り直して改めて隣に立つ人物に向き直った。


「それよりパパ、どうしてここに?」
「シャハハ……喧嘩っ早いチビ≠セけじゃァな」
「うっ……」


ニヤリと口角を持ち上げた意地悪な顔が、笑いを滲ませた声でからかう時の呼び方をする。くそう、今は何も言い返せない……!!無言のままそろりと目を逸らしたあたしをよそに、ママはばつが悪そうに言った。


「勝手に出てきてごめんなさい。……意地張らずに一緒に来てもらえば良かった」


しょんぼり項垂れる小さな頭を大きな手がガシガシと撫で回す。ボサボサになってしまった髪を直しながら顔を上げたママは、パパの顔を見て笑顔になった。あたしの角度からじゃ大きな背中しか見えなくて見返すその表情は想像するしかなかったけれど、二人が今、仲直りしたのは傍から見ていてもわかった。


「明日はそうするんだろう。……前のは割れちまったからな、また選べばいい。前の時みてェに」
「え?……アーロン、覚えてたんだ」


――あ、そうか。
驚いたように目を見開いた顔が続いて嬉しそうにはにかんだのを見て、いつか聞かせてもらった話が不意に思い出される。恥ずかしそうに顔を綻ばせながら、あのカップは二人で初めて一緒に出かけた時に買った思い出のものだと教えてくれたことを。だから割れちゃってあんなに落ち込んでいたし、パパが覚えてないと思って怒ってたんだ。
ママはまたパパと選びたかったんだ、前回と同じように。そりゃあたしと出かけてもカップは買わないわけだ。結局蓋を開けてみればなんてことは無い、ただの痴話喧嘩だったというわけである。


(なあんだ、全然おおごとじゃなかったんだ……取り越し苦労だったな)


やれやれと肩をすくめたあたしの前で、歩き出したパパの隣にママが並ぶ。大きな歩幅は小さな歩幅に合わせてゆっくりだ。その光景に自然と綻ぶ口元をなんとか抑えながら、その後に続いて船まで歩いたのだった。

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