青は藍より出でて藍より青し

※「朱に交われば赤くなる」の続編、先にそちらを読んでいただくことをおすすめします
※タイガー生存IF


朝の静寂の中を音を立てぬようそっと歩く。甲板へ出るとまだ日は登る前で、眠たげな顔をした不寝番がおれの顔を見て慌てて居住まいを正した。


「タイガーさん!こんな早くに」
「構わねェ。楽にしてろ」


少しの肌寒さを感じる気温に、僅かに酒の残る頭が冴えていく。取り出したタバコに火を点けて大きく吸った。青く霞む空気の中、吐き出した煙が風に乗って流れて行くのを眺めながら、昨日の夜に語らったあれこれを思い出す。
数年前に袂を分かった弟分が立派になっていて驚いた。そしてそれ以上に、あんなに憎んでいたはずの人間を娶っていて天地がひっくり返るかと思うほどの衝撃を受けた……ジンベエにはああ言ったが、おれも昨日は信じられねェ思いでいたもんだ。頭でも打ったかと言ったジンベエの言葉に思わず頷きそうになったのは致し方ないだろう。
男女のことをあまり根掘り葉掘り聞くのも野暮だと思って昨日は触れずにいたが、一体何がどうなって今に至るのか、何がアーロンをそうさせたのか、どうやって人間を愛せるようになったのか……聞きたいことは山ほどあった。


「……少し冷えたな」


呟いた言葉が白い息になって周囲へ溶けていく。不寝番以外はまだ誰も起きていないだろう、水でも飲んでまた寝ちまうか。そう思って足を食堂へ向けた。食堂へ近付いていくと、扉の隙間から僅かに光が漏れている。
――こんな時間に誰だ?おれと同じく目が覚めちまったやつか……。それならちょうど良い、話し相手がいるなら朝まで起きちまっていた方が良い時間帯だ。
そんな風に考えていた耳に小さく鼻歌が聞こえる。それは聞いたことの無い不思議な旋律で、世界中を旅して回ったおれでさえ一体どこの海で歌われているものか全く見当もつかない。足を止めて耳を澄ませていたが、しばらくしてそっと扉を開けると驚いたような顔がこちらを見た。


「タイガーさん?随分早起きですね」
「ああ、目が覚めちまってな……。あんたは何だってこんな時間に?」


エプロンを着けてキッチンに立つなまえは、眠れなくて……といった様子ではない。ニッコリと柔らかく笑い、手元のボウルをよく見えるよう傾けてこちらへ向けた。


「私、毎朝全員のパンケーキを焼くのが仕事なんです」
「パンケーキ?アーロンがパンケーキを食うのか」
「ええ、アーロンがパンケーキを食べるんです」


自分の顔が、鳩が豆鉄砲を食ったような表情になるのがわかった。おかしそうにくすくす笑ったなまえがキッチンの前のテーブルを勧めたので大人しく座る。ヤカンを火にかけたその手が再び材料をかき混ぜた。


「タイガーさん、何がいいですか?クラシック?それともスフレ?ハワイアンもできますよ」
「……おれァパンケーキに詳しくねェ。あんたに任せるよ」


名前は知っているが食ったことの無い甘い食い物、というのがパンケーキに対する感想だった。魚人街で育ったおれ達には甘いものに触れる機会なぞとんと無く、冒険家になってからは世界中で色んなものを食ったが、パンケーキを食う機会にはついぞ恵まれなかった。


「そうですか?じゃあ……一番シンプルなクラシックパンケーキにしますね」
「頼むよ」


女の細い手が腕に抱えていたボウルから大きなフライパンにそっと生地を流し込む。その手つきは繊細で、とても海賊船に乗っているやつの仕事とは思えねェ。
ゆっくり膨らむ生地を眺めているうちに、表面がふつふつと泡立つ。静かな食堂に甘い匂いがたっぷりと満ちていき、薄黄色の生地がつやつや輝いた。なぜだか胸をワクワクさせるその光景をつい食い入るように覗き込む。しばらくしてフライ返しが差し込まれ、ポンとひっくり返ったそれはうっとりするほどキレイな狐色だった。思わず子供のようにおおっと声が出る。


「上手いもんだ」
「ふふ……ありがとうございます」


数分して焼き上がったそれが綺麗に皿に盛り付けられると、大きく切ったバターの欠片が天辺に落とされて溶け出した――パンケーキとバターの香りが鼻腔をくすぐる――どうぞと目の前に出された皿に、知らずに唾を飲み下していた。おれはカトラリーを手に取り人生初のパンケーキのその分厚い生地にナイフを通す。すっと切れた生地の間から湯気が漏れ出し、それすら勿体無くて急いで切り分けた。フォークの先に収まった黄金色を、ゆっくり口へ運ぶ。


「……美味い」
「お口に合ったようで良かった」


余韻だけを残してあっという間に消えちまったそれが惜しくて、続け様に二口、三口と幸せの塊を口へ運ぶおれの目の前へコーヒーの入ったカップが差し出される。


「ん、すまねェな」
「おかわりできますから、ゆっくり食べてくださいね」
「……ハハハ、年甲斐もなくガッついちまったな」


少しの照れ臭さを覚えながら頬をかく。穏やかに微笑んだなまえはまた次の生地を用意し始めた。今度はゆっくり味わいながら、女が仕事をする様子を観察する。


「それにしても……何だってあんたが飯の支度なんかするんだ?アーロンの嫁さんなのに」
「よ、嫁さん……」


おれの言葉に頬をかーっと赤くしたなまえは両手を頬に当てて、照れたように小さくはにかむ。……おいおい、そんな初心な関係なのか?冗談だろ。


「初めに船に乗せてもらった時からの仕事なんです。私、これ以外何もできなくて……」
「この船に乗ってどのくらいになるんだ?」
「もう三年になります」
「……なぜ魚人ばかりの海賊船に乗ることになったんだ?アーロンは人間嫌いだったのに……あんたはなぜ乗せてもらおうと思った?」
「そうですね……その時の私には他に、行く当てがなかったので……」


過去を思い出すように遠くを見つめる様子に続きを促せば、なまえはゆっくり言った。


「その時は……突然帰るところが無くなってしまって……行くところも無くて、頼れる人もいなくて、途方に暮れてたんです。そこを拾ってもらって、仕事をもらえて……こうして今日まで生き延びられたのも、アーロンのおかげなんです。アーロンが、私を見つけてくれたおかげ」


そう言って目を細めて笑ったその顔は……今まで見たことの無い人間の表情だった。不思議に思って首を傾げたおれの口から、意図せずポロリと言葉が零れる。


「あんた、どこから来た?」


――……何を言ってるんだ、おれは。
どうやらまだ酒が残ってるみてェだ。変なことを言ったなと言葉を取り消す前に、なまえが顔を驚きに染める。


「どこから……どうしてそんなこと聞くんです?」
「いや……それは……そうだな」


そう問われ、一度は喉の奥に引っ込めた疑問を結局引っ張り出した。その質問の答えを聞くことで特段何かが変わると思ったわけじゃあねェが。


「……おれは以前、冒険家として世界中色んなところを旅して、そこでたくさんの人間を見てきた。老若男女色んなやつを。……だがそのどれとも、あんたの表情は違う。他の人間とはなんというか……根本が違う気がする」
「そうですか……そっか、そう……見えるんですね」


独り言のように呟かれた言葉の意味を計りかねているうち、なまえはぽつりぽつりと自分のことを話し始めた。内容は驚くことばかりでにわかには信じられなかったが、なるほど、平和な異世界から来たということであれば確かにその表情も頷ける。


「なるほど、どうりで……」
「え?信じてくれるんですか?」
「少なくともアーロンはそれを信じてるんだろ。……それにその話が本当だとすれば、あんたの目に納得がいく」
「目……ですか」
「ああ。その目は、他の誰とも違う」


この世の醜い争いを知らず、おれ達への差別を知らず、暴力を知らず、貧困を知らず、空腹を知らず、おれ達を恐れず、そして知らないことを覗き込んできらきらと輝く目だった。ただただ愛されて、満たされて、平和に生きてきた女の目だった。その穏やかに凪いだ、澄んだ目がこちらを優しく見つめている。


(……なるほど、これがあいつをあんなに丸くしちまったのか)


これはきっとアーロンの宝物なんだろう。あいつは、人間から向けられる恐怖や侮蔑の目をことさらに恐れ、嫌っていた。この何も知らない無垢な目が自分だけに向けられて、自分だけに微笑むことのなんと幸福なことだろうか。


「アーロンが羨ましいよ」
「……でも私は、アーロンの心の一番深いところには触れませんから……」


困ったようにゆっくりと目を伏せたなまえが落ち込んだように言う。


「私はみんながどんな目に遭ってきたのか知らないし、どんな思いで生きてきたのか知らないし、それを知る機会もありません。……私では、隣に立って同じ景色を見ることはできません……」
「それでいいんだよ、なまえ。……それがいいんだ」


この無垢な女は、余りにも色んなものを見過ぎてきたおれ達にとって自分がどんなに価値のある存在かわかっていないらしい。その目が曇るようなことだけは、この先もあって欲しくないと切に思った。
カトラリーを皿に置き、背筋を伸ばしてなまえと視線を合わせる。


「アーロンを、よろしく頼む。あいつァ未熟なところもあるが、あんたのことを本気で愛している。……あんたもそれに応えてやって欲しい」
「……はい」


頭を下げたおれに、穏やかな返事が降ってくる。上げた顔の前で女が優しく微笑んだ。薬指に指輪の嵌った白い手が、その膨らんだ腹をそっと撫でる。


「いつ産まれるんだ?」
「半月後の予定です。この島の病院で産もうと思ってて」
「ああ、この島は医療がしっかりしてる。いい判断だよ」


ゆったりとした服を着て微笑む姿はいっそ神々しささえ感じる。……女というのは本当にすごい。こればかりは男には一生出せない雰囲気だ。ジッと見つめるおれへ、気恥ずかしそうにはにかんだ顔が言った。


「パンケーキ、おかわりしますか?」










「それじゃ。元気でやれよ、アーロン」
「ああ。会えて嬉しかったぜ、タイのアニキ、ジンベエのアニキ」
「……まあ、わしも昔の話ができたのは……悪くなかった」
「ジンベエも会えて嬉しかったとよ!」
「…………そういう言い方はしとらんじゃろう」


船を降りる前に甲板で挨拶するおれ達に他の船員達も次々に声をかけた。次はいつ会えるかわからねェが、この様子ならこいつらは心配無いだろう。船員達の後ろでニコニコしているなまえへ手を振れば、小さく手を振り返して頭を下げるのが見えた。次に会う時はその隣にもう一つ小さな姿があることだろう。


「アーロン、お前ェは幸せもんだ……良かったな、本当に……」


袂を分かった時とは全く違う穏やかな眼差しをした弟分の肩を叩くと、呟くような声が控えめに言った。


「……おれはアニキにもそうなって欲しい」
「ダッハッハ!!お前に心配されるようなこたァ何もねえよ!一丁前に言うな!!」


昔のように頭を撫で回してやれば、「ガキ扱いすんな」と不満げな声が聞こえた。それを聞いてジンベエと甲板を降りる。タラップを降り切っても甲板からかけられるたくさんの挨拶の声はなかなか止まない。おれ達は何度も振り返って手を振りながらその場を離れた。


「……相変わらず騒がしいやつらじゃった」
「なんだァ?ジンベエ、お前寂しいのか」
「な、なにを言うとる。わしゃアーロンが丸くなっとってちと驚いただけじゃ」
「照れなくてもいいだろうが。お前が一番アーロンを気にかけてたもんなァ?手のかかる可愛い末っ子が立派になってて安心したろう」
「……勘弁してくれ、アニキ」
「なァに、お前もおれの可愛い弟分だよ」


ジンベエの唸る声とおれの笑い声が港に響く。さァて、それじゃまた海へ出るかね。次の島に想いを馳せて大股で足を踏み出した。

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