これに名前を付けるなら

おれには、この二年でわかったことがある。
初めはあまりにも小さくて勘違いかと思ったほどだ。それは気付いたら意識の底にポツンと座り込んでいて、これまで見たことのないものだった。これが何かと考えているうちにいつの間にかそこに根を張り、水もねェのにどんどん大きくなっていくそれをしばらくは放っておいたものの、あまりにも順調に育つのが不安になって何度か摘み取ってやろうとしたこともある。だが、その度に手のひらから溢れるほどに枝を伸ばして葉を茂らせた。
そのうちそれを取り除くことを諦めて、一体どこまでデカくなるのか観察してみることにした。それは毎日少しずつ、だが確実に、色付きながら膨らんで、遂には花まで咲かせやがる。勝手に入り込んでここまで育った図々しいものに呆れるやら感心するやらで、もはやおれの一部となったそれを愛でてみようと手を伸ばした。
手のひらで触れて、形を確かめて、柔らかさを確認し、温かさを感じ取った。
おれが見つめるとそれもまたこちらを見つめ返した。おれが声をかけるとそれは笑い返した。おれが手に取るとそれはこちらの体に手を回した。
そこで気付いた。これはもしかして、いわゆる……。


「なまえ」
「なに?」


軽い足取りで廊下を歩く背中に声をかければ、振り向いたなまえは嬉しそうに目を細める。その肩を捕まえて腕の中に閉じ込めると、焦ったようにキョロキョロ周りを見回しながらも、おずおずとこちらの体に腕を回す。


「……どうしたの?こんなところで突然甘えてくるなんて……」


「珍しいね」と続けるその声は気恥ずかしさと、おれが弱みを見せることを喜ぶような含み笑いを湛えて弾んでいた。
……こいつだ。水も無い場所ですくすくと育つあれにせっせと栄養を与え続けたのは。

おれが一歩歩くところを二歩で歩くところ。
おれの腰程度までしか無い頭に手を近付けると、甘えるように頬を擦り寄せてくるところ。
肩を抱くと嬉しそうな顔をしながら近寄って来るところ。
何か上手くいった時、褒めて欲しそうな顔で報告しに来るところ。
からかうと子供のように拗ねた顔をするところ。
その後すぐ機嫌が直ってニコニコ話しかけてくるところ。
集中している時に唇を噛む癖。
柔らかな、水仕事で少し荒れた手。
肌や髪からいつも甘い匂いがするところ。
飯を何でも美味そうに食うところ。
腹をくすぐると堪えきれず絶対に笑ってしまうところ。
甘えたい時に脚を絡めて抱き付いてくるところ。
背中にひとつある小さなほくろ。
抱き締めると早く脈打つ小さな心臓。
濡れた目に、ただひたすらに愛おしさを湛えてこちらを見つめてくるところ。
腕の中で慈しむように何度もおれの名前を呼ぶところ。
髪を梳くと嬉しそうな顔で目を閉じるところ。
寝ている時に気の抜けた顔で笑っているところ。

そのひとつひとつが、ただひたすらにあれを大きくし続けた。それを自覚するともう止まらなかった。見たことのないスピードでぐんぐん大きくなり、まだ伸びるのか、まだ育つのかと見上げるこちらを置いて今もなお枝を伸ばし続けている。もはや体の隅々まで根を張り、切り離すことはできないほど奥深くまで食い込んでいる。


「……お前は悪い女だな」


腕の中の柔らかな体を確かめるようにぎゅっと抱き締め、静かに咎めるように呟いた。おれの中に勝手にこれを植え付けて、知らぬ間にここまでデカくして、隙間を埋めて微笑んでいる。
小さくて柔らかくて温かい生き物。脆くて弱い、どうしようもない生き物。指先ひとつで殺せるようなこの矮小な生き物。だがこの生き物だけが、手を下さずにおれを殺すことのできる存在になった。このちっぽけな命が手元を離れることを想像するだけで、枝が震えて隅々までざわめく。体の内側に食い込んだ根がたわんで痛みが走る。葉が落ちて足元を見えなくする。
こいつをどうしてもそばに置いておきたい。害するもの全てを払い除けて、その目を曇らせたくない。戦いを知らない小さな手のひらごと胸に閉じ込めて、その甘い匂いを嗅いでいたい。


「私は悪い女なの?」
「そうだ。世界一不幸で、図々しくて、悪い女だ」
「ふふ……アーロンてば私のこと何にも知らないんだね」


小さく肩を揺らしておかしそうに笑いながら見上げた目が、愛おしそうに細められる。その視線がおれの中の角ばったところをまたひとつ、さらりと撫でて通り過ぎた。
 

「私は世界で一番幸せな、とってもとってもいい子でしょ?」


内緒話でもするように耳元で囁かれたその言葉におれの口元は思わず緩む。目の前で弧を描いたその唇に噛み付くため、片手で小さな体を抱き上げた。
最初からそうだった。こいつの目には恐怖も蔑みも嘲りもなく、ただ戸惑いと不安だけがあった。おれ達を知らねェだけだからと思っていたが、その後もその目に暗い色が差すことはついぞなかった。その目がおれに依存して、警戒心の欠片も無く安心して身を寄せる様が堪らなかった。
一度零しそうになったこれを、おれは二度と離さないし誰にも触らせない。これはおれのモンだ、おれだけのモンだ。ガキのように強い独占欲が胸の奥を焼いて舐めていく。抱き締めた髪に頬を寄せながら、脈打つ心臓の音に思いを馳せた。
――こいつは死んだらどこへ行くんだろうか。おれは同じところへ行けるんだろうか。
死んだ後のことなんて普段はとんと信じちゃいねェが、こいつが行くところがあるとすればそれはきっと天国ってやつだろう。だがそうなるとおれが行けるところは地獄ということになる。おれはこれまで好き勝手に生きてきたし、それは後悔しちゃいねェ。
だがそうするときっと、同じところへ一緒には行けない。だからこいつを引き摺り下ろして、腕の中に閉じ込めて地獄の果てまで連れて行く。擦り切れて、朽ち果てて、最後のひとかけらが消えて無くなるまで一緒に連れて行く。


「なまえ、やっぱりお前ェは不幸な女だよ」


こんなところに放り出されて、おれに見つかっちまったばっかりに。家族や友人もいて、平和な世界で生きられたのに、全部捨ててこんなところに来る羽目になっちまった。
こいつ本人は自分で選んだと言っていたが、それでも、そう選ばざるを得ないようにしたのはおれだ。挙げ句の果てには死んだ後までおれに囚われて地獄へ行くんだ。これを不幸と呼ばずして何と呼ぶ?


「……そんなに不安がらなくてもいいのに」


困ったような声が笑い、首に回された腕がおれがいつもそうしてやるように髪を梳いた。


「私はアーロンに見つけてもらえただけで、この世界に来られて良かったと思ってるよ……。どこまでもずっと、一緒に付いて行ってあげるからね。……アーロンが望むなら、海の底でも、地獄でも……」


愛しげに囁く声がおれの鼓膜を揺らす。


「だから、大丈夫……アーロン…………愛してるよ」


柔らかく見つめる視線にジッと目を合わせ、その唇に噛み付こうとしたその時、廊下の向こうから話し声が近付いてきた。途端に真っ赤になって縮こまるなまえに込み上げてきた笑いが堪えきれず漏れると、むくれたように唇が引き結ばれる。……その顔は他の誰にも見せたくねェ。
なまえを抱き抱えたまま部屋へ足を向けた。甘えるように額を寄せる小さな体の、顔にかかる髪を指で払ってやる。

おれには、この二年でわかったことがある。
いつの間にかおれの中に根を張って、図々しくも枝を伸ばし、終わりが見えないほど葉を茂らせ、穏やかに花まで咲かせたこれを、なんと呼ぶのか。これは一体、世間ではなんと呼ばれているのか。
これに、名前を付けるなら。

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