育むものと知ってから

夜中にふと、目が覚める。
暗闇の中で、自分以外の静かな呼吸音に聞き耳を立てた。規則的に聞こえるその音に、大きな安心できる存在があることを再確認してホッと小さく息をつく。これはこちらの世界に戻ってきてから毎日のことで、もう慣れっこだ。毎日、毎日、夜中に必ず目が覚めて不安な気持ちで押しつぶされそうになる。
私は今どこにいるのか?体に回されたひやりとした大きな優しい腕があるのか?抱き締めてくれるその広い胸があるのか?……ある日目が覚めたら元の自分の部屋にいて、こちらでの生活は全部夢だった、なんてことになるのではないかと怯えている。
怖い。
怖い。
怖い。
愛してしまった、愛されてしまったこの瞬間を失うのが怖い。
目頭が熱くなり、涙が零れないようにぎゅっと目を瞑った。大きな体にそっと擦り寄って、その肌の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
眠ったままのアーロンの手が私を探すようにそっと動き、髪を撫でた。それだけで途端に安心して、また眠気が襲ってくる。
アーロンに出会えた。見つけてもらえた。この世界に来られて良かった。
私は幸せ者だ。










夜中にふと、目が覚める。
無意識に伸ばした手がシーツをたどり、ぼんやりと意識が覚醒した。体に静かに力を入れて、腕の中の小さくて温かいものがきちんと息をしているか確かめる。胸が静かに上下しているのを感じて、小さく安堵のため息が漏れた。こいつが死にかけてから、夜中に必ず目が覚めるようになった。眠っているとどこからか、あの暗い海の中で感じた血の凍るような恐怖が喉元を這い上がってくる。
おれの腕の中にちゃんといるのか?その心臓は今も動いているのか?おれの脚に絡められたその小さな脚は冷たくなってやしないか?おれが眠っている間にその灯火が消えてしまいやしねェかと不安で仕方ねェ。病室で過ごした暗い夜のように、シーツに広がる髪を掬い上げる。
失いたくない。
手のひらから零したくない。
絶対に離したくない。
満たされることを知ったこの心は二度と、知らなかったあの頃には戻れない。
いくぶんかは小さくなったがそれでもやはり、底の見えねェ穴が心臓の奥にぽっかり口を開けて居座っている。おれがそこを覗き込むのを、今か今かと待ち侘びている。柔らかい体を潰さないよう慎重に抱き寄せて、心臓の鼓動を確かめようと耳を澄ます。
寝ぼけたように小さく唸ったなまえが額を擦り寄せてぎゅっと抱きついた。胸に何かが込み上げて、そっと頬を撫でる。
こんなところに放り出されて、おれに見つかっちまったばっかりに。家族や友人もいて、平和な世界で生きられたのに、全部捨ててこんなところに来る羽目になっちまった。こいつは世界で一番不幸だ。
そして、おれの幸せはこいつのそんな不幸の上に成り立っている。










頬に冷たいものが伝わる感覚で目が覚める。
身じろぎしてそっと顔を触れば、涙が止めどなく溢れて顔はびしょびしょだった。隣で寝ているところを起こさないようにベッドから抜け出し、ソファに蹲って膝を抱える。
さっきまで見ていた夢に両親や友人が出てきた。思い出をたどるように、かつて行ったことのある場所に行き、過ごした日々を追体験した。その表情は思い出せるのに、無声映画のように声は全く聞こえなかった。私の中のかつての世界が、徐々に、徐々に、無くなっていく。
――あの時行ったお店の名前、何だったっけ?
――流行っていたあの歌、どんな歌詞だったっけ?
――旅行先で食べたご飯、どんな味だったっけ?
思い出せないことが少しずつ増えていき、喪失感が胸を鷲掴みにして激しく揺さぶった。
声を押し殺して泣いていると、ベッドから名前を呼ぶ声が聞こえる。慌てて顔を拭って息を整えた。


「ご、ごめ……起こしちゃった……?」
「……泣いてるのか」


静かな声が問いかけて、私はひとつ鼻を鳴らした。


「夢に……懐かしい人達が出てきて……」
「……」
「もう少ししたら寝るね、ごめん……」


すると少しの沈黙の後、立ち上がってこちらへ近付いてくる気配がする。泣いている顔を見られたくなくて顔を俯かせると、ソファの隣へドカッと座った大きな体が私の肩を引いて転がした。


「ぎゃ、」
「間抜けな声出すな」


仰向けにひっくり返されてアーロンに膝枕してもらう形になり、下からその顔を見上げている。


「……アーロンの膝硬い……」


不満げに漏らした声にアーロンが、ふ、と小さく笑った。少しかさつくひやりとした指先が私の目の下をそっと擦り涙を拭ったかと思えば、頬を摘む。


「いひゃい……」
「……おれの見えねェところで泣くな」
「……慰めてくれてるの?」
「ああ……お前ェは不幸な女だからな、なまえ」
「不幸?」
「そうだ……お前は全てを持っていたが、その全てを捨ててここへ来る羽目になった。……最初から何も持たなかったおれ達より、ずっと不幸だよ」


すりすりと頬を撫でる手に自分の手を添えてぎゅっと握る。問いかけに返ってきた言葉は優しく、慈しむようでいて、その奥に後悔のようなものが滲んでいた。アーロンは、私に全てを捨てさせたと思っているらしい。
……でもそれは違う。覗き込む目を見つめて静かに反論した。


「違うよ、捨てたんじゃない。選んだの。……私が、他の何よりも……私が欲しいもの、ひとつだけのために」
「……選んだ、か」
「そうだよ。アーロンのせいじゃないし、アーロンのためじゃない。全部私が、私のためにしたことなの。だから、寂しくは思っても後悔はしてないよ……」


それを聞いたアーロンはニヤリと笑った。会ってすぐの頃のように、からかうような意地悪な笑顔だ。「随分なクチきくようになったじゃねェか」と楽しげな声が降ってくる。


「海賊らしくなってきた?」
「シャハハハハ!ああそうだな」
「ふふ、やったあ」
「こんなモンまで入れちまって、もうカタギには戻れねェな……」


片方の手が頬を離れて左脚の内腿を撫でた。そこには私がアーロンのものだと証明するためのしるしが刻まれている。私がこの二年、いつか欲しいと心の奥で願っていたものだ。


「そうだよ。責任取ってよね」
「……ああ、そうだな」


肌に触れる指先の少しのくすぐったさにからかうように言葉を返せば、するすると登ってきた指が首にかかるネックレスの細いチェーンをなぞる。


「二度とどっかに行かねェよう、縛るモンは多い方がいい」
「?」


目を細めて言われた言葉の意味は良くわからないが、その顔は悪戯を思い付いた子供のように楽しげだ。
その時ふとあることを思い出し、そうだ、と小さく声を上げる。


「そういえばまだ等価交換の対価をもらってなかった」
「あ?」
「思い出を何かひとつ、話してくれるって言ったでしょ」
「ああ……」


青い目が朧げな記憶を掘り起こすようにゆらゆらと視線を動かした。子守唄の思い出のお返しに、アーロンはどんな思い出をわけてくれるのだろうか。


「ねえ何か話して。そうしたら眠れる気がする」
「シャハハ……さて、お前が聞いて面白ェような話がおれにあったかなァ……」
「何でもいいよ。どんなことでも、アーロンのこと知りたい」


アーロンが自分自身のことを語って聞かせてくれたことはほとんど無い。だけどこれからは、少しずつお互いの思い出をわけ合ってパズルのピースを埋めていきたい。
そんな気持ちを込めて言えば、大きな手が私の頭を撫でながら静かに言った。


「そうだな……それじゃあ……おれには一人、妹がいる」
「……え!?」
「年は確か……十二くれェ下だったかな。名前はシャーリー、アオザメの人魚だ」
「ちょちょちょ、待って……それって結構大きめの情報じゃない!?」


いきなりの衝撃情報に涙も引っ込む。確かに何でも知りたいとは言ったがそれはあまりにも想定外の事実だ。ビックリし過ぎてこの話の後全然眠れる気がしない。


「しかも十二歳下って……私より年下じゃん……」
「ああ……だがお前ェよりしっかりしてるぜ。しばらく会ってねェが」
「何歳の時と比べて下に見られてるの私は……」
「おれが魚人島を出たのは二十六の時だから……最後に会った時は十四だったな」
「ね〜え〜」
「シャハハハ!さあ話したぞ、寝ろ」
「こんなにビックリした後眠れないよ」


少しむくれてそう言ってみせれば、アーロンはまた笑いながら私を抱き上げてベッドへ移動する。そのままシーツに押し込むと、隣に横たわっていつものように手で髪を触った。


「妹さんに私もいつか会えるかな?」
「さァどうだろうな……魚人島は遠いからな……」
「魚人島かあ……いつか行ってみたいな……。アーロンから見て魚人島はどんなところ?妹さんとはどんな風に過ごしたの?子供の頃は何が好きだった?」
「おいおい、対価はひとつだけだったろ?」


笑いを含んだ声で嗜めるように言われた言葉につられて思わず笑ってしまう。髪を梳いていた手を捕まえて、その大きな手のひらに頬を擦り寄せながら顔を見上げた。


「そうだったね。わかった、じゃあ次は私が話すね。何にしようかな……そうだ、ミサンガにしてたお願い事、教えるって約束してたよね……」


私はこれから一生かけて自分の思い出話をたくさんたくさん、アーロンに話して聞かせる。アーロンからも思い出をわけてもらいながら、いつしか私達の話は合流するんだろう。そしてその後は、二人で作った思い出をお互いに話して確かめ合うんだ。
――この間行ったお店の名前、何だったっけ?
――流行っているあの歌、どんな歌詞だったっけ?
――あの時寄った島で食べたご飯、どんな味だったっけ?
私の中の世界が、どんどん、どんどん、広がっていく。思い出せないことがあってもアーロンが教えてくれる。温かいものがゆっくりと胸を満たしていった。
私は世界一幸せだ。

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