空はいつしか春めいて

「ニュ〜、なまえ、おはよう」
「おはよ!ハチ。今日もクラシック?」


食堂に入ると顔を上げたなまえが笑顔で挨拶する。全員の好きな種類のパンケーキを覚えているなまえは手元の生地を混ぜながらそう問いかけた。


「ああ、そうする」
「りょうかーい」


今日は食堂に来るのが少し遅かった。周りのやつらはほとんどが食べ終わる頃で、まだ朝食を済ませていないのは……おれの他には、これから起きてくるであろうアーロンさんくらいだ。


「はい、どうぞ」
「ありがとな。今日も美味そうだ」


狐色に輝くパンケーキの上に乗せられたバターがじわりと溶け出している。毎朝これが食べられるのは本当に幸せだ。
治安が良いとは到底言えない魚人街で育ったおれ達は、ほとんどのやつらが親の顔を知らない。毎日毎日、ただその日を生き延びるのに必死でチクチクとした日々を過ごしていた。だから、家庭の味や甘いもの、穏やかな日常ってやつに触れたことはなかった。
それが今ではどうだ……海賊船の上にいるのに毎朝こうして甘い幸せの塊を食っている。週に一度は黄金色のオムライスが食える。時々、練習中の色んな料理が出てくる。
人生ってやつは不思議なもんだ。何が起こるかわかりゃしねェ。美味いもんがたらふく食えて、家庭の味を知って、戦いを知らねェ穏やかな女の顔を見て過ごしている。


「不思議なもんだなあ」
「何が?」
「人生ってやつは先が見えねェからよォ、楽しみでもあるし、恐ろしくもあると思うんだ」
「え……朝からどうしたの……」


「急に悟り開いちゃった……?」と呟くなまえが首を傾げていると、アーロンさんが食堂へ入ってきた。残っていた船員達が立ち上がって挨拶する。


「おはようございます」
「おはようアーロンさん」
「ああ、ハチ、同胞達」


慌てて皿を片付けて食堂を出て行く他の船員達を見て、おれも残りのパンケーキを口に押し込む。アーロンさんがなまえを見る目があんまりにも優しいんで、みんな気を遣って二人きりにしてやるんだ。


「おはよう。何にする?」
「何でもいい」
「はーい」


フライパンへ視線を落とした横顔をじっと見るアーロンさんの視線はやっぱりものすごく優しかった。本当に、人生ってやつは何が起こるかわからねェ。
フライパンに蓋をしたなまえは明日の分の材料を用意し始める。背の高い戸棚へ踏み台を使ってなお背伸びする姿は危なっかしい。手伝ってやろうと腰を浮かすより早く、アーロンさんがキッチンへ入って後ろから手を伸ばした。


「あ!ありがとう」


嬉しそうに声を上げたなまえが振り返ろうとするのを後ろから抱き込むように阻んで、その左耳に口を寄せたアーロンさんは小声で何か囁いた。


「……意地悪しないで」


くすぐったそうに笑うなまえは身を捩って腕から逃れようとする。それをアーロンさんの腕が追いかけてまた閉じ込める。
いけねえいけねえ、朝からこんなのに充てられたらたまったもんじゃねェ。


「ごちそうさん」


皿をシンクへ持って行くとなまえがハッ!!とした顔で振り返る。それはおれのこと忘れてた顔だな。
瞬く間に耳まで真っ赤になりながら「……お粗末様」と消え入りそうな声で言うのが聞こえる。食堂を出るおれの背後で、アーロンさんの笑い声が響いていた。
さーて、今日も働くか。










「……ったく、何でおれがこんなこと……チュッ」
「文句言わないでよ。いいじゃんどうせ暇だったんだから」


生意気なことを言いながら「ん」と手のひらが差し出される。マジで生意気だ。その手のひらに次のピンチとシーツを渡してやりながら、カゴの中身の残りを確認する。


「暇じゃねェよ。おれだってなあ……」
「航海が順調で戦闘もなければやること無いんでしょ〜?」
「……チュッ」


……よく覚えてたな。普段は適当なところもあるくせに、そういうところは妙に細かいやつだ。冬の冷たい風が吹くが、なまえは袂を合わせながらも嬉しそうに笑った。


「あ〜いい天気。冬の航路に入ってから、こんなに晴れるの本当に久しぶりだね」


「こんな日が続かないかな」なんて呑気な顔でにこにこしながら脚立の上で大きく伸びをする。……と、風に煽られたシーツがはためいてその顔にバシッと当たった。


「ぷわ、」
「プッ!……おい、落ちるぞ」
「……見たなあ……」


恨めしそうな顔でじろりとこちらを見るなまえにまた次のシーツを渡してやる。おれの口元に浮かぶニヤニヤ笑いに不満げな顔が向けられた。


「ああ、傑作だったな」
「チュウ酷い……たまには私のこと褒めてみてよ」


軽口を言いながらも手はテキパキとシーツを干している。いつの間にかこいつの手際も良くなって、今では食堂以外のことも色々とやるようになった。


「褒めるとこなんてねェだろ。どん臭くて、世間知らずで、能天気……」
「あ〜そんなこと言っちゃう〜?明日の朝のトッピング無しにするからね」
「ああ、悪かった、悪かった」


むくれたような声色で言いながらもその顔は楽しげに笑っていた。幹部の中でも一番歳の近いおれに、こいつは随分と気を許しているように感じる。


「よし!終わり!」


パンパンと手を叩いて満足げに息を吐くなまえ。船長の女なのにこうして雑用ばかりしているのは、やっぱり変なやつだと思う。大抵の女は船長のご機嫌を取ることにばかり執心するが、こいつはこうして思い付いたように突然船中のシーツを洗濯したりする。変なやつだが、だからこそこの海賊らしからぬ女は、他に人間がいないこの船に乗っていられるんだろうと改めて思った。


「うぅ……かじかむ……」


冷たい洗濯物を触ったせいで赤くなった指先にハーッと息を吹きかけながら、なまえは脚立を降りようとしている。おれはそこへ手を差し出した。


「ほら」
「ありが……」
「お手」
「……」


一瞬固まった後、目を細めた顔がこちらを睨み付けた。全然怖くねェっての。肩を震わせて笑いを堪えるおれの手を冷えた手がぎゅっと掴んだ。そのままポンと脚立から降り、カゴを拾って下から見上げる。


「……わん!」


悪戯っぽく笑ってひとつ鳴くと、驚くおれをそこに残してさっさと立ち去った。後に残されたおれは遠くなっていく後ろ姿が笑いを堪えるように揺れているのを見る。


「…………クソ、」


通り過ぎた冷たい風が、少しばかり体温の上がった頬を撫でて行った。










「あっ、クロオビいいところに!」
「おれは今忙しい」
「これ運ぶの手伝って!」


午後の鍛錬中、何やら大荷物を抱えて通りかかったなまえが有無を言わさず手に持っていた木箱を押し付ける。どうやらその耳は飾りらしい。


「食糧庫片付けてたら熱が入っちゃってさ……。奥から古いの出てきたの、先に消費しなきゃ」
「おい……一体何箱あるんだ」


「助かったー」と言いながら廊下の奥から次々と箱を持ってくる様子に呆れてため息が漏れる。おれと会わなければ一人で運ぶつもりだったのだろうか。


「誰か使えば良かったろう」
「今お願いしてるじゃん?」
「……確かに」


頭に埃をつけた顔がくすくすと笑う。一体毎日何がそんなに楽しいんだ、こいつは。髪に付いた埃を摘んで取ってやればありがとうと二回返ってきた。


「二回目は何だ」
「食堂まで運んでくれるお礼!」
「先払いするな」


小さな手がよいしょと箱を一つ持ち上げるが、それだけでもうフラフラしている。人間は脆弱な生き物だと思ってはいたが、こいつはその中でも輪をかけてひ弱だ。


「貸せ」
「わ、わあー!力持ち……」
「お前はそれを持ってこい」


取り上げたものの他に四つ程持ち上げるおれへ、大きな目を丸く見開いて驚いた顔を向ける。それから大人しく、おれが指さした小さな袋を持ち上げた。


「優しい〜!紳士〜!ヒューヒュー!」
「やめねェか」
「ヨッ!日本一!」
「どこの国だよ」


聞き慣れねェ国の名前に思わず聞き返せばなまえはまた口角を上げてにやける。その顔があんまりにも気が抜けていて、ついおれもつられて笑った。


「クロオビ笑った!」
「おれだって笑うことぐれェあるさ」


ふふふ、と手で口を押さえたなまえは鼻歌を歌いながら食堂へスキップしていった。忙しねェやつだ。
少し遅れて食堂へ着くと指示された場所に箱を置く。やれやれと立ち去ろうとすると声をかけられ、キッチン前の椅子を勧められた。なんだと思いながら近付けば、小さな手がコンロからヤカンを取り上げる――どうやら湯が沸いているらしい――まあ茶くらい飲んでいくかと席に着いてキッチンを覗き込むと、予想に反していつものコーヒーではない。おや、と思った気持ちを見透かしたように「ココアだよ」と楽しげな声が言う。
手際よくココアを淹れる手元を見るとはなしに眺めているうち、次第に甘い匂いが空気に溶け始めた。カップに注がれたチョコレート色にさあ終わりかと思いきや、悪戯っぽく笑ったなまえが最後に戸棚から取り出したマシュマロをその上に乗せる。


「ジャーン!本日のお礼です。どうぞお納めください」
「……まあ、悪くない」
「クロオビ甘いの好きだもんね。いつもハワイアンパンケーキに生クリーム多めだし」


――バレていたのか。なんだか気恥ずかしくなってココアに口を付けると、ほんのりラム酒の味がする。……美味い。
思わず無言で二口目を喉に流し込むのを見て、目の前で頬杖をついてニコニコと笑う顔が口を開く。


「気に入ってもらえたみたいでよかった。それね、ルムンバって言うんだって。私は酔っちゃうけど、クロオビなら平気でしょ?この方があったまるかと思って」


「これからまた外出るなら体調気を付けてね、ありがと!」と言葉を残し、忙しなく木箱を開封しに行ってしまった。おれは熱いカップを見下ろし、ぷかぷか浮かんでいるマシュマロを指で掬って口に入れる。
……まあ、悪くない。

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