祈り持たぬ者

「おれァな……知ってるんだ……元は海軍にいたからな……」


瀕死の痩せ男が息も絶え絶えになって嘲るように言った。
戦況が不利だとみるや否や味方の船はこいつを残してとっとと逃げちまったってのに、随分と強気な態度だった。


「何を知ってるって?これから死にゆくだけの価値のねェ人間が、おれに何を言いてェんだ?」
「ははは……魚人風情が、人間様に対して粋がるんじゃねェよ……」
「こいつ……っ」


吐き捨てるような言葉にクロオビが顔に怒りを湛えて一歩前に出る。それを手で制すると、手に持った武器の刃を男の首に添えてもう一度問いかけた。


「それで?言いてェことがあるなら言ってみろ。てめェの最期の言葉だ、仲間にも伝えてやるよ。……ああ、その前にそっちに送っちまう方が先かもしれねェが……」
「ああ……おれは知っている……三年前のあの日、おれもあそこにいたんだ……」
「……何だと……?」


男は楽しいことを堪えきれないという顔でニヤニヤと笑う。
この話の先を聞いてはならねェと頭の中で警鐘が鳴るのに、その良く回る口を止めるための腕は凍りついたように動かない。


「おれは新兵だったが、当時の少将に付いて任務へ出た。とある島にノコノコ現れた、間抜けな海賊をぶっ殺す簡単なお仕事だよ……」
「ッ、てめェ……!!」


男が何を言いたいのか……それに思い至った途端、全身の毛が逆立つような激しい怒りが湧き上がってくる。そいつはもう命など惜しくはないのか、口からスラスラと罵倒の言葉を吐き出し続けた。


「なにが英雄だ!!なにが奴隷解放だ!!フィッシャー・タイガー!!やつもただの哀れな奴隷だったに過ぎない!!!!人間様に這いつくばって媚びへつらい、命乞いをする哀れな奴隷だ!!お前ら魚人なんてのは、全員そうだ!!!!惨めな半魚ども、全員が奴隷として……ぐぎゅ、」


手を振ると男の言葉は止まり、腕がだらりと床に垂れる。
だがおれの腕は止まらない。何度も、何度も、何度も、その醜い肉塊が原型を無くすまで腕を振り下ろし続けた。


「アーロンさん……!!も、もうやめろ!」
「離せハチ……!!この汚ェ蛆虫を地獄に送るまでおれは……!!!!」
「もう死んでる!もう死んでるよ!!ッ……これ以上は必要ねェ!」


腕に縋って止めるハチを振り払い、甲板に広がるゴミを踏み付ける。
――このクソ野郎が傷付けたのはおれじゃねェ、魚人族の誇りそのものだ。


「人間が……!下等種族が……!!おれ達にふざけたクチ聞きやがって……!!!!蛆虫どもが!!数が多いだけの劣等種が……!!」
「ア、アーロンさん……」


ハチ以外はおれを止めることなくただ様子を窺っている。
怒り狂うおれを恐れているのか、それともおれと同じように怒っているのかはわからねェが、ただ、今この甲板には人間に対しての憎しみが渦巻いているのは全員が感じていた。


「どうしたの……?」
「げっ、なまえ!?」
「部屋にいろと言われたろ!」
「おい、今はまずい……早く戻れ」
「でも何かすごく大きな声が……」


不意に耳に入ってきたのは、不安そうなか細い女の声。
――そうだ……そうだ、そうだ、まだここには人間がいる。徹底的に痛めつけて、二度と生意気なクチをきけねェように恐怖で支配しなくちゃならねェ。
ぐるりと背後を振り返ると、ハチが焦ったような大声を出す。


「アーロンさん!ダメだ!」
「うるせェ!!おれに構うな!!」


大股で歩を進めると人垣がサッと割れ、立ちすくむ女の目の前へたったの数歩でたどり着いた。つついただけで吹っ飛びそうなその小さな体を見下ろす。


「アー……ロン……」


こちらの目を見返す女は身を縮こまらせ、ゴクリと喉を鳴らした。
――そうだ、怯えろ、畏れろ、恐怖しろ。おれがお前達人間にとっての災厄だと理解しろ。
震える細い腕を掴むと小さな悲鳴が漏れるが、それには構わず部屋へ向かう。


「アーロンさん、やめてくれ!なまえは関係無い!!」
「黙ってろと言ったろうが!!」
「ッ……ハチ!」
「ダメだ……アーロンさん……なまえに酷いことしないでくれ……」


しつこく追い縋るハチを殴って突き放すと、後ろから懇願するような声が追いかける。それに聞こえないふりをして、黙ったまま大股で廊下を進む。


「あんた、絶対後悔する……アーロンさん、やめてくれ……」


聞こえねェ、聞こえねェ、聞こえねェよ。










「なか、ないで、なかないで……」


……涙を流しながら耐えていた女の言葉はあろうことか、おれに泣くなと言った。
誰が泣いてるだと?おれが?なぜおれが泣く?
必死に腕を伸ばしておれの顔に触れると、切なげに顔を歪めて泣きながら言う。


「わ、たし、にんげんで、ごめ、うう…」


身を捩りながらも必死にこちらを見返すその視線に、腹の中の怒りが急激に萎んでいくのを感じた。
今目の前にいるのは憎い人間なんかじゃねェ。いつもおれの腕の中で安心しきった顔をする、温かくて柔らかい女だった。


「きずつけて、ご、ごめ、ごめんね……」
「やめろ……」


やめろ、謝るな。お前じゃない、お前は違う、お前だけは違うのに。
おれに向けるその目は何だ。身勝手に傷付けたおれを許すかのようなその視線に、途轍も無い痛みが胸を焼く。


「そんな目でおれを見るな……」


視線から逃れるように目を覆うと、手のひらに熱い涙が触れた。何度も名前を呼ぶその声を、今日は聞きたくねェ。
体を離した後、泣きじゃくるその姿に後悔の念が襲ってくる。目の前で震えるこの小さな、脆弱な生き物をこんなに手酷く扱ったのは初めてだった。


「……部屋に戻れ」


立ち上がったその細い体のあった場所を見やると、シーツには鮮血が広がっている。ぐっと胸の奥を掴まれるような鈍い痛みが走り思わずそこから目を背ける。


「明日の朝は起きて来なくていい……」


その言葉に返事はなく、静かに扉は閉められた。










冷たいベッドでひとりで目を覚ますと、やけにシーツが広い。あの小さい体が手元に無いだけで、こんなにも落ち着かねェ気分になる。


「アーロンさん……」


部屋を出て船内を進むと、向こうから歩いてきたチュウが沈んだ声色でおそるおそる問いかけた。その顔色は悪く、いつもの陽気な様子は全く無かった。


「……殺しちゃいねェよ」
「……そうか……」


それだけ言うと俯くチュウを残して甲板へ足を向けた。掃除は昨日のうちにされたようで、足元にはシミ一つ無い。
背後から近付いてきたハチが静かに声をかけた。


「ア、アーロンさんよお……」
「……なんだ」
「なまえは違ェよ……他のやつらとは違う……。おれ達を蔑んだことなんていっぺんもねェ……ちらりとも恐れたことはねェ……」
「……わかってるよ」
「なら……!おれも一緒に行くからよ……謝ろう、アーロンさん……!!こんなんでなまえが船を降りたらつまらねェ……」
「……」
「あんただって、なまえのこと……」


途端、船がどんと大きく揺れる。
船縁へ手を付いたところへ頭上から見張りの警告が聞こえた。


「潜水艦だ!下にいるぞ!!」


海面を覗き込むと、浮上した船から人間どもが不遜にも踊りかかってくるところだった。
船の外壁を這って蛆虫どもが次々と甲板へたどり着く。


「クソ虫どもが……殺しても殺しても湧いてきやがる……!!」
「アーロンさん!」


同胞のひとりが武器を抱えて駆けてくる。それを受け取ると、片手で大きくひとつ振り回した。
昨日萎んだはずの怒りがまた腹の底から込み上げてくる。


「思い知らせてやるよ……お前らが誰を恐れるべきなのかをな……!!」










「なまえ!!!!」


誰かが金切声で叫ぶ。
その小せェ体がまるで吸い込まれるかのように海へ真っ直ぐ落ちていくのを見て、一瞬足が動かなかった。


「ああちくしょう、やる前に殺しちまった!」


男が悔しそうに叫んだことで意識が引き戻され、気付けばおれの体は船縁を乗り越えて海へ飛び込んでいた。
――なぜお前がそんなところにいる、なぜ大人しくしていられない、なぜお前がそこで泣くんだ……!


「クソ!!クソ、クソ!!」


そう違わず海へ飛び込んだはずなのになかなか姿が見つからない。気持ちばかりが焦って深く深く潜るとようやく、遠くに小さく姿が見えた。曇天の海中は暗く、近付いても近付いてもなかなかその輪郭がハッキリ見えない。


(なぜ浮かんでこない?能力者でもあるまいに……!)


まるで海底に引きずり込まれるかのようにその姿はどんどん沈んでいく。ゾッとするほど暗い闇が、纏わりつくように周りを漂っているのが見えた。


「なまえ……!!」


ようやく追いついて沈む腕を強く引き寄せて名前を呼ぶと、周囲に漂う闇が揺らいで消える。思わず息を吐くと、小さな体を腕の中に抱き込む。


『あらまあ……』
「!!」


不意に背後で聞こえた声に振り返るも、何の姿も無い。
背中を冷たいものが一筋流れていった。


「おい……!」


血の気の失せた顔に触れるが、いつもの温かさは無い。刺された腹から大量の血が流れ出て周りに霞のように漂っている。おれの心臓を、氷のように冷たい手がぎゅっと握るような感覚が差し込んだ。
――これじゃあまるで、まるで……


「アーロンさん!」
「!!」
「生きてるか!?」
「……ああ、」


追いかけて来た同胞達が腕の中のなまえを見て顔を歪める。


「……早く、海上へ!」
「人間は急激な水圧の変化に耐えられねェ……ゆっくり上がってください……!」


ぐったりと力の抜けた小さな体を運ぶおれの周りを同胞達が心配そうに付いてくる。ようやく水面へたどり着くと、血の気の失せた頬を叩いて呼びかけた。


「おい、なまえ、おい!!」


やはり息をする様子は無く、胸の中にじわじわと暗くて底の見えない穴が広がっていく。
人形のように力の抜けた体は、先程まで確かに動いていたのに。


「とにかく船医のところへ!」


焦ったような声に背中を押され急いで船へ上がる。船上での戦いは既に終わっており、怪我をした同胞達も心配そうに集まってきた。船医が駆け寄ってきて床に横たわるなまえの姿を見て一瞬動きを止め、迷うような素振りをしてから心臓を圧迫する。
誰も言葉を発さず、ただ波が船に当たって砕ける音だけがしばらく響いた。


「……っ、げほ!かは、……」
「!」
「息を吹き返した……!」


小さく咳き込んで水を吐き出したなまえは、ヒューヒューと音を立てて弱々しく呼吸し始めた。周囲に安堵したような空気が流れ、おれもいつの間にか詰めていた息を吐いた。


「……いや、そう喜んでもいられませんよ」
「何だ?」
「この傷は多分、ナノカソウの毒だ……傷が自然治癒しなくなる。うちには解毒剤がねェ」
「おい、そんなのありかよ!!」


ハチが涙声で船医に詰め寄る。おれも同じように掴みかかって叫び出したいのをぐっと堪え、ならどうすりゃいいのかと静かに船医に問いかけた。


「確かここから二、三時間で島に着くはず……陸の病院なら、解毒剤は置いているはずです」
「ならそこへ行く。針路をとれ」
「アーロンさん……なまえはそこまでもちません」


船医の言葉に再び甲板に静けさが訪れる。誰も言葉を発しないせいか、いつも聞いているはずの波の音がやけに大きくおどろおどろしく聞こえた。


「……なぜだ」
「……血が……流れ過ぎています…………輸血が必要だ」


輸血。その言葉に、全員がハッと息を呑む音がする。
それは魚人族と人間の間では絶対にタブーとされていることで、あの人を死に至らしめた原因でもある。


「ニュウ……!!おれが、おれが血をやる……!」
「ハチさん、あんたとじゃ型が違う。なまえはF型だ」
「でも……でも……!!」
「ハチ、落ち着け!」
「……おれ、Fだ……」
「……おれも……」


泣きながら暴れるハチをクロオビが押さえ付ける。周囲からは小さく声が上がるが、前へ進み出る者はいない。


「アーロンさん……」


船医の沈んだ声を聞きながら、なまえの伏せられたまつ毛に触れる。冷え切った頬に、雨がポツポツと降り注いだ。


「……おれがやる」


おれの声に同胞達の動揺したようなざわめきが聞こえる。あの人の名前を囁くやつもいた。
――だからだよ。あの人の二の舞にはさせねェ。


「……いいんですね?」
「ああ、構わねェ……早く準備しろ」
「わかりました」


船医が周囲に担架を持って来るよう声をかける。慌てて数人が駆け出して行く気配を感じながら、血の気の失せた顔にかかった髪を払ってやった。


「アーロンさん……やつら、昨日みたいに海底へ逃げましたよ……」
「……そうか……」


背後からかけられたチュウの声に、喉から低い声が出た。腹の奥底から唸るように湧き上がる感情とは裏腹に、頭の中はいやに冴え渡っている。


「海底か……。めでたいやつらだ、それで逃げ切ったつもりなんだろうな……。おれ達魚人を相手に、どこまでも舐め腐ったやつらだぜ……」
「……どうしますか?」
「……船の欠片ひとつ、やつらの肉片ひとつ残すな。全部沈めろ」
「了解、船長」


おれの言葉を聞いてチュウも静かに答える。周りのいくつもの足音が海へ消えていった。
冷たい頬をいつものように撫でてやりながら手を握る。流れ出た血は今や、なまえの白い服を真っ赤に染めていた。
海中で聞こえたあの声が、耳に残って離れない。


「どこへもやるもんかよ……お前はおれのモンだと言ったろうが……」


口から溢れた言葉は存外小さかった。

[ 40/59 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -