瞼の裏にきみを見た

翌日はシーツから起き上がらずに過ごした。
昨日の夜と今日の朝、当番が部屋の前へ食事を置いてくれたが食べる気にならず、お腹も空かないのでそれには手を付けなかった。普段お残しはしない主義だが、今日ばかりは何も食べたくない。


「…………シャワー浴びたい……」


ゆっくり起き上がってみると体がどんよりと痛い。またじわりと涙が滲むがそれを堪えて立ち上がる。
部屋を出てシャワールームへ向かうと、廊下の向こうから歩いてきたタケとシオヤキが驚いたような顔で近寄ってきた。


「おい……大丈夫か?」
「動いて平気なのか?」
「大丈夫……心配かけてごめんね、ありがとう……」


顔を見られたくなくて逃げるようにその場を立ち去る私に、二人は何も言えないようで黙って見送った。
シャワールームへたどり着き、鏡で見た顔はそれはもう酷かった。泣きすぎて痛い瞼をシャワーで洗い流し頬をぎゅっと抓る。


「……みんなに心配かけないようにしなきゃ……」


鏡に向かって笑顔の練習をするが、上手く笑えなかった。
部屋へ戻ってワンピースに着替えると、いつもより丁寧に髪を整えた。顔色が悪いのでメイクも普段よりしっかりめにする。鏡台へ向かう私は、ちゃんといつもの私に見えるだろうか……。
と、その時、船が大きく揺れた。


「……!!」


慌てて壁に寄りかかると、何事かと耳を澄ます。


「敵襲ー!敵襲ー!!」


見張りがカンカンと警報を鳴らす音が聞こえる。昨日に引き続き今日も敵襲があるなんて珍しいことだった。
甲板の方角がにわかに騒がしくなる。私は大人しく部屋で蹲っていた。


「何だあの野郎、女なんて囲ってやがるのか」
「!!」


背後から突然聞こえた声に息が止まりそうになる。
冷や汗をかきながら振り返ると、全身黒尽くめの覆面の男が音も無く窓から入ってくるところだった。


「あァ?オイオイオイ、お前人間かァ?マジかよ、滑稽だな!!」
「あ……」


グイッと肩を掴まれてひゅ、と喉が鳴る。
叫ばなければ、と思うのに悲鳴は喉にへばり付いて出てこない。


「半魚にしてはまあまあの趣味だな。おい、大人しくしてろよ」
「や、だ……離して……」


腕を強く掴んで連れて行こうとする男に僅かに抵抗すると、平手で頬を殴られた。返す手で反対の頬も打たれ、口の中にじわりと血の味が滲む。


「抵抗すんな、殺すぞ」


低い声で凄まれ、すっかり萎縮した私はなす術なく男に抱えられて窓から外へ出た。
男は私の手首に拘束具を巻き付けると、窓の外にかけられたアンカーを外しするすると片手でロープを伝って隣の船へ移動する。見慣れない形の船はなるほど潜水艦のようで、攻撃されるまで気付かなかったことにも納得できた。


「船長、土産だ」
「おお!おお!!帰ってきたなァ〜、おい!!」


船内の大きな部屋へ連れて行かれると、大勢の男達がこちらへ視線をよこす。
船長と呼ばれた、その中でもひときわガタイの良い男が椅子からグワッと立ち上がって近寄って来る。見上げるほどの大男が品定めするように視線を動かした。


「女だな?女だ……人間か?人間だな……おかしいな、あいつは人間嫌いだったはずだよな?ああそうだ……」


ブツブツと一人で問答するその異様な様子に私は声も上げられず、荒く呼吸を繰り返す。得体の知れない恐ろしさに背筋をつうっと冷や汗が滑り落ちた。


「……ということは、相当なお気に入りなんだろう?ああきっとそうだ……おい、こいつはどこへいた?座敷牢か?」
「まさか。船長室の隣の部屋だ」
「ああ〜、やっぱりな。そう思ったよ。可哀想に、魚の慰み者だ」


腕にかけられた拘束具を強い力でグイッと引っ張られ、船長室のデスクへ引き倒される。背中の下で海図がいくつかバラバラと音を立てて床へ落ちた。


「いっ、」
「ならおれが使ってもいいよな?ああ、ホントに可哀想に……」
「や、やめ、やだ!」
「おいおい船長、まだ戦闘中だぞ」


私を連れて来た黒尽くめが呆れたように肩をすくめる。その言葉に、目の前にある男の双眸がにいっと三日月を描く。舌なめずりでもしそうな声色で楽しげに言葉を続けた。


「いやあ何、人質として価値があるかは確かめにゃァ……そうだよな?ああそうだ……」
「やめて!離して、はな、う゛っ」


これから何をされるのかは想像に難くない。必死に抵抗していると、軽く握った拳で顔を殴られる。鼻から熱い血が流れ出て白いワンピースの胸元に飛び散った。


「何か言ったか?おい、誰か何か聞こえたか?」
「ッ……、」
「あ〜、何も聞こえねェな?ハハハ、誰も何も聞こえなかったとよ!!」


周りの男達がゲラゲラ笑う中、ワンピースの胸元を両手で無理矢理開かれボタンが弾け飛ぶ。
絶望感に押しつぶされそうになった時、部屋の扉が音を立てて開いた。


「船長!!お楽しみのとこ悪いが、押されてるぞ!!」


慌てた様子で駆け込んで来た男の声に、のしかかっていた男は舌打ちして顔を上げる。震えながら小さくほっと息をついた私の視界は涙で霞んでいた。


「あーあー、お前ェらでなんとかしろ……」
「ダメだ、あいつらとんでもなくタフだ!!それにあの、アーロンてやつがめちゃくちゃに怒り狂ってて……」
「アーロンだと?そうだ……やつには昨日、おれの弟を連れて行かれた。ふざけんなよ、魚どもが……思い知らせてやる……!!!!」


男は怒りを露わにした顔で立ち上がり、私の腕を掴んで引っ立てるようにして歩かせた。
廊下の終わりへたどり着くとハンドルを回して甲板へ出る。外は小雨が降っていて、曝け出された肌に雨が当たって寒気がした。


「アーーーーーロン!!!!」


男が大きな声で呼びかけると、うちの船の甲板で戦っていた男達が船縁へ寄ってきてこちらの船を見下ろした。いくつもの見慣れた顔に涙腺がまた緩みそうになる。……泣くな、泣くな。


「あっ、なまえ!」
「何であんなところへ……」
「殴られたのか!?」


うちの船員達が私の姿を認めて驚いたように声を上げる。しばらくして、キリバチを携えたアーロンが片手に瀕死の男を引きずって船縁へ姿を現した。


「おれを呼んだか?下等種族」
「ああ呼んだ!!昨日哀れにもお前の船へ取り残された、おれの弟を返せ!!」
「取り残された?……とっとと尻尾巻いて逃げ出したのはてめェらだったろうが」
「そんなことはどうでもいい!!弟はどこだ!?」
「あァ、あの口の悪い痩せ男か…………殺したよ……こんな風にな」


そう言うと片手に引きずっていた男を甲板へ投げ捨てた。男はか細い呻き声を上げて動かなくなる。すると、私を掴んでいた男が大きな声で慟哭した。


「ウオオ!!ウオオオオ……!!!!可哀想に、可哀想に!!おれの可愛い弟を……!!よくも!!!!」


滝のように涙を流しながら取り乱す男はしかし、その数秒後には何事もなかったかのようにぴたりと泣き止んだ。その情緒不安定な姿にゾッと背筋が凍る。


「ああ……ならいいさ、これはもういらねェ。弟が生きていねェんじゃ人質に価値はねェ……」
「やめろ!!」


拘束具を強く引っ張られて思わずよろめいてたたらを踏む。それを見て船から身を乗り出したハチが焦ったように大声で叫んでいるのが見えた。


「やめてほしけりゃ全員そこで土下座しろ!!お前ら薄汚ェ魚野郎ども、全員が這いつくばっておれに媚びろ!!!!」


目を爛々と輝かせて嘲る男の言葉に、腹の底から怒りが込み上げてくる。
――どうしてこの人に、こんなやつに……こんな風に言われないといけないの……!!


「やめ、て……私にそんな価値は無い……みんなはそんなことしない……!」
「口を開くんじゃねェ!!半魚野郎に飼われてた奴隷の分際で!!ああ滑稽だ、魚人なんてのはな、奴隷の身分でいるのが相応しい!!!!」


絞り出した震え声に怒鳴り返した男は私の顔に唾を吐きかけると、口角に泡を飛ばしながら興奮したように叫んだ。こちらを睨み付ける瞳は、他人をいたぶる仄暗い悦びに満ちている。


「奴隷が奴隷を飼うなんて哀れだ!!家畜以下の海底を這う惨めな魚ども!!情の無い、野蛮で、原始的で、」
「やめて!」


男の言葉を遮って唯一自由な足で向こう脛を蹴り付けると、男はうっと呻いてよろめいた。震える唇をなんとか抑え込むと、腹の底から言葉を叫ぶ。


「私の大事な人達に酷いこと言うな!!あんた、あんたみたいな……残酷なやつらがいるから……!!」


我慢していた涙が勝手に溢れてきて頬を濡らす。
――こいつらが、こういうやつらが、魚人島の人達を、みんなを……アーロンを傷付けた。


「あんたの方が……!冷血で、恥知らずのレイシスト……怪物……あっ」


トン、と衝撃が走って今度は私がよろめいた。うちの船からあっと声が上がる。
立ち上がった男は据わった目で私のお腹からナイフを引き抜くと、躊躇なくもう一度刺した。


「お前、うるせェよ。死んどけ」


またナイフが引き抜かれて私は二、三歩後退り、男にどんと強く肩を押されて後ろ向きに船縁を乗り越えた。
遠くから私の名前を呼ぶ声がいくつも聞こえたが、あっという間に海に落ちて音が無くなる。


(……これ、ホントに死んじゃうかも)


腕は縛られてるし二回も刺されたし、なぜか体は浮かんでいかず、暗い海底へ引き寄せられるように落ちて行く。
どこまでも、どこまでも、どこまでも、


(……アーロン)


最後にもう一回抱き締めてほしかった。
私が落ちる時、どんな顔してた?
……力になってあげられなくてごめん。

水面と体の間に流れ出た血が赤く帯を引くのが最後に見えて、それから静かに目を閉じた。

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