水月泡沫
- ナノ -

01

家が、親が定めた道を歩く人生。
それもまた正しくあり、一つの生き方に違いないだろう。

幼い頃からそうなるべく経営学を学んでいた少女は、その道を歩むことが周囲にとっての幸福に繋がることを理解していた。
だが、少女故にか――ある一つの願望の灯を胸に抱くことをやめられなかったのだ。
もし、その道以外の人生を歩むことになったら?もし、自由に外に出られなかった景色以外の物を見ることが出来たら?

待っているのは困難に違いない。不自由なく暮らしていた現実を実感するだけかもしれない。
それでも、少女は今ある物を、周囲の為を優先にするのではなく他でもない自分の為に。投げ捨ててしまいたかったのだ。


港に吹いた風は冷たく頬を撫でる。
少女の視線の先はこの街にある大きな屋敷の方角だった。きっと今頃屋敷は大騒動だろうし、すぐにここにも人が来てしまうに違いない。
少女は帽子を深く、顔が見えなくなるくらいに被り直した。最低限の資金を持ち、一着の替えの服を入れた旅袋を肩に下げて、腰には屋敷に昔からあるとされていた、今では自分の愛剣である一本の銀色の刀身の剣だ。
自ら自分勝手に決心したと言うのに、この剣と共に今から生まれてから出たことのなかった故郷を離れ、旅に出るのかと思うと、哀愁にも似た感情が沸々と沸いて来る。

「間もなくダリルシェイド行きの船が出航致します」

船の入り口に立っている男性の声が響き、少女は一歩船に向かって踏み出したのだ。


――長い時間、船に揺られていた少女が降りたのは王都であるダリルシェイドだった。
自分が住んでいた所とは天候も、気温も大きく異なる。王都ということもあって、船を出入りする人の数も実に多い。
船から降りて目的地である場所へと向かうが、ダリルシェイドの綺麗な街並みに感動を隠せなかった。煉瓦造りの建物に、石造りの舗道。街全体が華やかな雰囲気さえあるこの街並みはあまりに美しかった。

「さ、ヒューゴ様の屋敷に向かわないと」

少女はこの街に在るヒューゴ・ジルクリストという、オベロン社の総帥の屋敷へと向かっていった。
ヒューゴ邸は市民街とはまた違う場所にあり、一般家庭の家よりも大きい屋敷だった。アポイントもなく訪ねても、そもそもヒューゴは自宅に居ないかもしれないし、居たとしても無礼だと追い返されるかもしれない。
扉の前で止まり、一つ大きく深呼吸をする。

怖じけずいてなんていられないのだ。何のためにここに来たのかと自ら心の中で唱え、弱い気持ちを押し殺し、決意を固めてノックしようとした時だった。

「おい」

ふいに後ろから声が聞こえてきて、ノックしようとした手を止めてびくりと肩を揺らした。おそらく、自分に声を掛けたのだろう。
振り向くと、紺色の髪に整った顔立ちの少年がこちらを見据えて不愉快そうに眉を顰めていた。同じ歳くらいだろうが、その威圧感に余計に縮みあがる思いだった。


「だ、誰でしょうか?」
「こっちが聞きたい。お前こそ人の家の前で何をしている」


人の家の前。その言葉に一瞬思考が止まってしまう。
ということは、この少年は、もしかして。

その少年に声をかけられたことに困惑して、どう説明しようかと思いあぐねていると、まるで計ったかのように扉が急に開いた。
驚いて再び扉の方を振り返ると、そこに立っていたのは居たのは会う事を求めていた人物、ヒューゴ本人だった。本人が居たことにも驚いたというのに、自分から尋ねる前に会ってしまうと、何と説明したものかと困惑してしまう。しかし、挨拶はしなければならないと気を取り直し、丁寧に頭を下げた。


「ヒューゴ様、ご無沙汰しております」
「わざわざよく来たな、ユウナ君」


薄く笑みを浮かべて笑うヒューゴに、心臓を鷲掴みされたような気分になる。
ヒューゴに会ったのは初めてではなく、家を通して長い付き合いがあることは分かっていたのだが――ユウナは苦手としていた。人を印象で毛嫌いしてはいけないことなど分かっている筈のに、彼だけはどうも昔から苦手だったのだ。その笑顔も何処か胡散臭く見えてしまって、何かを含んでいるのではないかと勘繰ってしまう。
何故そんな印象を受けるのかは自分でも分からなかったが、背筋が一瞬凍るような気さえもするのだ。

「ヒューゴ様、誰なんですか」

突然自宅を訪ねてきた同年代の少女がヒューゴの顔見知りであることに気付いた少年は、怪訝そうな顔でヒューゴに尋ねる。
それよりもユウナが引っ掛かったのは少年のヒューゴに対する距離感だ。自分の家と言っていたのだから確実にヒューゴの息子だと思ったのだが、少年は他人行儀のようにヒューゴ様と呼んでいる。
何処かよそよそしく、公私を分けているにしても親子とは思えない冷え切った関係性を感じ取ったのだ。


「リオン、この娘はな……」
「ヒュ、ヒューゴ様!」


ヒューゴが自分のことを答えようとした所を慌てて遮ると、少年は不思議そうにユウナに視線を向ける。
名字で呼ばれることに酷く抵抗感があったとはいえ、こうもあからさまに遮ってしまうと分かりやす過ぎるだろう。何せ、家を勝手に飛び出している以上、下手に名字が出回ってしまうのは不都合だった。
どう誤魔化そうかと慌てていると、ヒューゴは何かを察したのか、その瞳を細める。


「えっと……私は……」
「彼女は昔、私を護衛してくれた剣士だ。今日は彼女に話があって呼んだのだよ」
「剣士……?」


ヒューゴが助け船を出してくれたことに驚いているユウナをよそに、リオン・マグナスという名の少年は怪しみながらもユウナの腰にある剣を見る。
剣自体は業物だろう、と一目で分かるような剣である。だが、その顔は何処か納得していないようだった。
――私のような小さな女が剣を振るえないと思っているのだろう。実戦を行ったことが無いという意味では、あくまで剣術に違いないし、剣士ではないことは確かだ。
あの屋敷で暇を潰せる唯一の趣味であった剣は、人並み以上に使えるのだが、彼が疑うのも無理はないだろう。

ヒューゴに案内をされて屋敷に入ると、彼の私室へと案内される。二人きりになるとその威圧感を正面から感じるもので、思わずごくりと生唾を呑む。
そして彼は重たい口を開いて本題を切り出した。


「君が自分でここに来たには何か重要な事があったのだろう。何だ?」 
「……ヒューゴ様、私は辞任するためにここへ参りました」


ユウナは、懐に忍ばせていた辞任表を取り出し、ヒューゴへそっと差し出す。
まさかこのタイミングで突然辞表を出しに飛び込んでくるその行動力や――計画の無さと、若さ故の決断にヒューゴは瞬いたが、くつくつと喉を鳴らして笑った。


「それは困るな。ユウナ・バレンタインよ」
「何故……!父は他界しましたし、他にもこの役職をやりたい人だって……」
「君は若くして優秀だ、父を超えるやり手になるだろう……そんな貴重な人材を野放しには出来ないのだよ」


それはまさに呪縛だった。
オベロン社の支社長を務めていた父の跡継ぎをしなければいけなくなった時点で、逃れられない呪縛を受けてしまったのだ。

どうして?だって自分は未だ若干十四歳の小娘で、まだまだ世間知らずの子供に違いない。
そんな少女に任せる位ならば、もっと優秀な社員は数多く居ることだろう。確かに我が家は支社を任されてはいたが、親子で務めなければいけないという決まりはない筈だ。
だからこそどうしてヒューゴが引き留めるのか、分からなかったのだ。だが、当のヒューゴは真剣な表情に何かを思いついたのか、ある一つの案を出した。


「ならば……役職は暫く休みという事でセインガルドの客員剣士補佐にはならないか?」
「客員剣士補佐……ですか?」
「君は本当に剣の腕がいいことは生前の父上から耳にしている。客員剣士……つまり我が息子、リオンの補佐だ。君なら勤まるだろう」


客員剣士といえば王国に仕える特別な役職である。
自分と同じ位の歳であの少年がセインガルドの客員剣士であるという事は、先程のリオンという少年の腰に剣が収まっていたことには気付いたが、剣の腕は相当な物なのだろう。

――客員剣士補佐。
悪く無い、かもしれない。任務で色々な国へ行けることに違いない。今まで、自分の住んでいる街でさえそれ程自由に歩けなかったのだから上等ではないか。


「……お願いします」
「分かった、すぐに手配をしよう。リオンに挨拶でもするといい」
「はい、ありがとうございます」


丁寧に頭を下げたユウナが去った後、部屋に残っていたヒューゴは一人、天井を仰いで笑っていた。
先程までの会話、今思い出しても笑えてくる。
ユウナの突然の家出は予見していなかったが、辞任する為に連絡を入れずに突然このダリルシェイドまでやって来たことを考えると、オベロン社の支社長を継ぐ未来しかなかった現実に抗おうとしたのだろう。


「君に自由などあるものか」


――ユウナは年齢の割には頭が切れるし、剣筋が良いことは確かだ。だが、それ以上に彼女を手元に置くのは、彼女が腰に携えている剣だ。こんな貴重な人物を利用する他無かった。自分の息子、リオンの補佐にして、機が熟す時を待つのだ。
どれだけ聡い娘と言えども十四歳の少女ゆえ甘さがあるからこそ、彼女はどんな形であれ、大事な局面を動かす駒となるに違いなかった。


「お帰りになられるのですか?」

ヒューゴの私室を出た後に、これからのことを考えて先ほどのリオンという少年に改めて挨拶をしようと考えていたのだが、彼がどの部屋にいるか分かる訳もなく、右往左往しているととある一人のメイドに声を掛けられる。
綺麗な、人。
漆黒の艶やかで真っすぐとした髪は清廉さを映し出しているようで、思わず見とれてしまうような柔らかい物腰と雰囲気を持っている人だった。オベロン社の社長であるヒューゴの屋敷ともなると、やはり屋敷に居る人も気品に溢れているのだろうかと感心してしまう程だ。


「い、いえ!この度リオン様の補佐になるそうで、挨拶をしようと……」
「まぁ、リオン様の補佐に?女性でまだお若いのに……ふふ、ご案内致します」
「有り難うございます、私はユウナ……と申します」
「ユウナさん……ですね、私はメイド長のマリアンと申します。こちらです」


わざわざ案内させてしまったことを申し訳なく思いながらも、親切に案内してくれた彼女に頭を下げた。
マリアンに案内された部屋の前に立ち、一度大きく深呼吸をしてから、リオンの部屋の扉をとんとんとノックする。「リオン様、客人をお連れ致しました」というマリアンの声に、リオンの返事は直ぐに返って来る。


「失礼します」
「……お前か……」


マリアンの声に少々警戒心を緩めていたリオンは、ユウナの顔を見た途端に物憂げに溜め息を吐く。先ほど出会った、ヒューゴを訪ねに来たと言う少女。それだけで、リオンにとっては警戒すべき、信頼してはいけない人間であることには変わりなかった。
マリアンはごゆっくり、と礼をしてその場から立ち去り、この場に残されたのはリオンとユウナのみだった。ヒューゴと直に話した時とはまた違う空気の重さに、これから彼の補佐になるとしても大丈夫なのだろうかという不安が襲う。


「何の用だ」
「本日より、ヒューゴ様からリオン様の補佐になるよう命されました」
「何……?」


補佐、という言葉に顔を顰めたリオンは機嫌悪そうにユウナを睨んだ。
補佐が欲しいなんて誰も頼んではいないし、寧ろ邪魔になる存在だ。ヒューゴが自分につけた補佐――つまりそれは監視役という意味ではないだろうか。そう考えると、猶更この少女が気に食わなかった。


「僕にこんなか弱い補佐などいらない!」
「ヒューゴ様の命です。お気に召さないのは分かりますが……決まってしまった事ですので……」


自分でも客員剣士の適性があるかどうかは分からない。ヒューゴに言われるがままに頷いてしまったけれど、リオンが憤慨するのも当然のことだろう。
もし彼がセインガルドの客員剣士という称号に誇りを持っているのなら、中途半端に家を飛び出してきてそれになりたいという強い願望も持たずに流されるまま務めようとしている人間が腹立たしくもなるだろう。勿論、やるからには真剣に取り組む姿勢はある。
だが、やはり動機が失礼に値する。
自分に補佐が就いた事が気に入らないのか顔は依然厳しいリオンに、どうしたものかと焦っていると、ふいに聞こえてきたこの場には居ないはずの第三者の声が響いた。


「坊っちゃん、見た目で強さを判断するのはいけませんよ」
「……」
「え?」


この場には、自分とリオンしか居ない筈である。はっきりと、鮮明に聞こえてしまった声に、つい呆けた声を出してしまう。振り返るけれど、扉は閉まっていて、当然誰も居ない。
困惑しているユウナとは別に、まさかここで反応がある筈が無いと思っていたリオンは驚きの混じった顔でユウナの顔を見る。


「お前……まさか……」
「ぼ、僕の声が聞こえるんですか!?」
「ま、また!?」


声の反響からして扉越しに誰かが喋っている訳でもないし、まさか幽霊でもこの部屋に居るのだろうか。辺りを見渡してもやはり自分とリオン以外の姿は無い。
あまりに気を張り詰め過ぎてとうとう幻聴まで聞こえるようになってしまったのだろうかと青ざめていると、その声の主は再び部屋に響く声で話しかけてきた。


「僕は坊っちゃんの腰にある剣です」
「……、う、うそ」
「嘘じゃないですよ」
「シャル、お喋りが過ぎるぞ」


シャル、と呼ばれた若い青年らしき声の主は、リオンに制される。腰にある剣が、喋る?
そんなまさか。そんなことがある訳がないと頭を押さえるユウナをよそに、リオン以外に自分の声を拾ってくれる人が現れたことに興奮している青年はリオンとの会話を続ける。


「いいじゃないですか坊っちゃん!僕だって話し相手が全然居なくて寂しかったんですから!それにしても僕も驚きましたよ。まさか聞こえてるなんて」
「……、うそだ……」
「それに坊ちゃん、そこまで警戒しなくても彼女は良い人ですよ。僕の直観がそう言っています」
「良い人?ふん、何で分かるんだ。ヒューゴ様の連れだぞ」
「こんなのあり得ないっ!」
「黙れ!」


リオンに一喝されて、一つまた一つ深呼吸をして落ち着きを取り戻す。
けれど依然として頭の中は糸が絡まったように混乱したままだった。一体どういう仕組みで剣があんなにも流暢に、本当に人のように喋れるのだろうか。世の中自分の知らないことばかりではあるけれど、これは特に不思議で堪らなかった。


「それで、君の名前は?」
「ユウナ、です」
「僕はシャルティエ、彼はリオン・マグナスです。始めに……本当にヒューゴ様の命で、補佐となったのですか?」
「そうですけど……別の仕事をしてみたかった、と言えばいいでしょうか。そこははっきり言ってヒューゴ様は関係無いです」
「ふん、信じられんな」
「私だって、あの方が偉くなんかなければ関わりたくな……あ」


ついシャルティエの件で動揺しすぎて本音が出てしまったことに焦って口を覆う。
彼はヒューゴの息子なのだ、自分の父親をそう言われてしまったら怒るだろう。それでも、あの人に何処か苦手意識を持っていて、何故父はこの人と普通に喋ることが出来るのだろうかと漠然と思っていた程なのだから、極力関わりたくないというのは事実だった。
リオンに怒られて、客員剣士補佐を本当に断られるかと覚悟をしたが反応は意外にも違った。むしろ彼は張り詰めていた空気を少しだけ和らげたのだ。安堵した、とも言えるだろう。


「ね、坊っちゃん。言った通りでしょう?」
「……明日、任命式があるだろう。その時、練習試合がある。僕が不必要だと思ったら補佐は辞めてもらうからな」
「は……はぁ……」
「話はここまでだ。まぁ、せいぜい明日までにセインガルドを堪能しておく事だな」


一体何故、ヒューゴへの無礼な言葉が彼の雰囲気を和らげることになったかは分からない。
しかし、リオンの言葉は勿論、期待していないという事だった。細腕で、か弱そうに見える普通の少女だと思われているのだろう。剣は屋敷で唯一暇を潰せたものであり、あの国でも剣の腕前はこれから修練を重ねれば師範に追い付くだろうと言って貰えていたことを考えると、多少は自信があるが。
リオンはもう用は無いと、シャルティエを片手に部屋を出っていった。

ぽつんと一人リオンの部屋に残されたユウナはぱちぱちと瞬いた。
一体、何だったのだろうか。家を飛び出して来てからセインガルドの客員剣士補佐になるように勧められ、剣が喋って、リオンという自分が補佐として就く人はぶっきら棒で冷たくて。
前途多難である自分の決まっていた道以外の未来に、頭を悩ませながらも、これが自らの意志で何かを変えようとする時の困難なのだろうと理解するばかりだった。


――一方、リオン・マグナスは自分の部屋から出て、早足で廊下を歩きながら自分の愛剣であるシャルティエに強い口調で尋ねた。


「シャル、何であの女と喋ったんだ」
「何となくですかね……彼女に何か、懐かしいものを感じて……」
「何故だ。別にあの女に……」
「会ったことは無いですけど……彼女はいい補佐になると思いますよ」


あのユウナとかいう女が僕の補佐?
笑わせる。自分と同じくらいの女だ。
僕に補佐を付けるということは僕の実力が認められていない証拠でもあるのだ。単刀直入に言って悔しかった。


「坊っちゃんは十分強いですし、それに見合う努力をしていますよ」
「いや、まだだ。まだ僕は弱い」
「……坊っちゃん……その、彼女を補佐として認める事は出来ないんですか?」


シャルの言葉は、願いに近かった。まるでそうなることを望んでいるかのような言い方に、何故彼がそんなにも得体のしれない少女を気に掛けているのか全く分からなかった。

――とはいえ、シャルティエにも明確な理由がある訳ではない。
ただ、非常に懐かしい気配を感じるからこそ、直観とも呼べる感覚が、彼女はリオンに何時か何らかしらの影響を与えるのではないかと囁いていた。


「シャル……?何を言ってるんだ」
「彼女はヒューゴを好いている様子じゃ無かった。必ず、いつか坊っちゃんの力になってくれると思うんです」
「力に?……僕にはシャルとマリアンが居ればそれでいいんだ……」
「坊っちゃん……」


それ以外との関わりなんて認めちゃいけない、認めたくないんだ。
認めたら何かを知ってしまうような気がして、リオン・マグナスという少年は拒絶の手段しか知らなかったのだ。
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