Violetta
- ナノ -
しんしんと降り積る雪と一面の銀世界。
肌をひりつかせるような寒さだけが、非情な現実を氷柱のように突き刺してくる。
後にも先にもきっとこれ以上驚いて、絶望して、そこから歩き始めないといけないと決意をしたことはないだろう。


「これ、飲みなよ」
「ありがとうございます……」

鼻に香るのはレモンと蜂蜜のさわやかな香り。
そして、凍てついた身体を温める部屋の温度。
心配そうな青年の声。

文字通り命を救われたと感じるのは初めての経験だった。
雪山の中に設置してあった温かい飲み物を差し出してくれた自分より少し歳下の印象を受ける鮮やかな碧の青年に、下げた頭が上がらなくなる。
凍り付いた身体が暖房と温かいレモンティーで溶かされていくような心地だった。

強烈な寒気に、自分が眠りについていたことを自覚して目を開いた時に意識は一気に覚醒して『自分がさっきまで居た所ではあり得ない位寒い上に、自分がその気温にふさわしくない格好をしている』という状況に気が付いた。
そこは雪山の中の洞窟。
洞窟を抜ければ吹雪いている一面の銀世界。
要は遭難状態だった。

「あの子に、お礼を言わなくちゃ。貴方にも、あの子にも命を助けられました」
「あぁ、アルクジラっていうんだ。ぼくの背中を押してくるから何かと思ったよ」
「アルクジラ……?クジラって、陸で歩く子も居るんだ……」
「?見た目は似てるホエルオーとかホエルコは確かに海だけど……この辺りでは見かけないし、どこか別の地方から来たわけ?」

ホエルオー、ホエルコ。
次々とよく分からない呪文のような言葉が飛んでくる。

──自分の記憶と全く結びつかないのが、雪山が近くになんてない都会に目を閉じる前までいたはずだったのだ。
そしてよく分からない生物が雪山の中を歩いている状況に、ただただ訳が分からないけれども"このままでは死ぬかもしれない"ということだけ確信した。
そして、右も左も分からない中助けを呼んでいた所で、白いクジラのような生物が私を見付けて襲う訳でもなく。
この青年を呼んできてくれたのだ。

「……なんでこの雪山にそんなサムい格好でいたのかとか、色々ツッコミどころがあるんだけど。雪山は危険なんだから」
「そ、それはそうですよね……その、私も記憶がある所までだと、普通に会社帰りだったはず、なんだけど……」

──最後に記憶があるのは、残業して疲れきった日々が続いていた中。
その日は普段通らない路地裏に足を踏み入れた。
都会の喧騒に疲れてきて、ひたすら仕事をして疲れて寝て。
そんな毎日を繰り返していることに疑問を覚え始めていた今日この頃。
不思議と『こっちだよ、エヴァ』という声が聞こえたような気がして、疲労と眠気でふらふらしながらそっちに足を運んだ、という所まで記憶がある。

そこから気を失ったのか、肌寒さに目を覚ませば雪と無縁だった都会から景色は一変。
一面の白だ。
どうして急に全く別の知らない場所に移動してるんだろうかだとか、倒れた所で誘拐されて放置されただとか。
色々可能性を考えてもやはり都会の近くにはなさそうなこの雪山の景色は異質だ。
記憶がごちゃまぜにミキサーにかけられたような心地だった。

「今日はあまり天気がよくなかったし、あと数時間遅ければ本当に危なかったよ。ほら、外は今吹雪が強くなって……」
「わ、本当に一面真っ白……、え!?」

窓ガラスの先の景色を見ようとした時。
漸く異変に気付いて血の気が引いた。

私じゃない人が、そこに映っていた。

嫌な動悸がしてきて何度も瞬いて、手をあげてみるけれど、窓に映ったその人も手を上げる。
施設のガラスに映った自分の姿が違っているだろうと思って自分の姿を確認しようとする人は居ないだろう。
目が覚めてから雪山を遭難するように歩き、スノーボードをしていた青年に助けられるまでのその間。
確かに、一度も自分の顔を確認する機会はなかった。

(別人になってる……!?)

一体何がどうして。
声が震えて咄嗟の「なんで!?」という声さえ出てこない。本当に怖いことだとか唖然とすることにぶつかると、人は声が出せなくなるとは聞いたことがあるが。
まさに今その状況だった。

「……ねぇどうしたの。吹雪が止んだらフリッジタウンに送って行くけど」
「……フリッジ、タウン?……あ、あの。全く、聞き慣れない街なんですけど、その……ここってどこですか?」
「ここはナッペ山だよ。……その全くピンと来てなさそうな顔、旅行者……でもないよね、その格好」

目の前の青年も怪しんでいるようだが、一番自分自身がこの状況を理解できていなかった。
助けてくれた彼に説明するどころか、誰かに説明してほしい位だ。
自分の格好は厚着ではない格好。
見た目は自分が自分だと思っている姿と変わっていて、髪の色は染めているのだろうかと思う位の鮮やかな色合いで可愛いと他人事のように感じる。
荷物も必要最低限なポシェットしかなく、財布と自分のではないスマホがぎりぎり入っているくらいだ。

日々の仕事に邁進して、このままでいいのかなとぼんやり考えながらも一生懸命生きていただけなのに。
どうして。
ふらりと眩暈がしてくるような状況に、肩を震わせて顔を真っ青にしていると、低体温なのかと疑った青年がボールを取り出した。
そしてそれが開いたと同時に、そのボールの質量とは明らかに異なる大きさのふわふわな鳥が出てきた。

「チルタリス、温めてあげて」
「な、なにこれ……!生き物?可愛い……!」
「チルタリスっていうポケモンだよ。チルタリス自体見たことないのは……まあ、住む地域とか地方によっては珍しくないかもしれないけど、生き物って……」
「……」

ここまで聞いた所で、ようやく今の自分の状況を理解した。
ポケモン、その単語は聞いたことがある。
ゲームというものに疎い生活をしていたから、詳しいことは何も知らないが、ピカチュウとイーブイは見た目と名前は知っている。
──つまり、自分はポケモンがフィクションだった世界から、その世界に来てしまったのだ。

「……もう既に変な人だと思われてると思うんですけど、たぶん返答に困ることを確認させてもらってもいいでしょうか……」
「すでにまったく意味が分からないんだけど」

恥を忍んで、目の前の青年に"この世界"の確認をしていく。
始めは『何を言っているんだこの人は』という反応とそんな表情をしていた青年だったが、顔面蒼白になっている私にそれが嘘ではないと察したのか──或いは、このポケモンがいる世界には違う所から何かが来るという状況はありえない事では無いのか。
彼は事実として話を飲み込んでいるようだった。

「私も目を閉じれば全部元に戻ってないかな……って、思うんですけど……」
「……はあ。世の中不思議なことはあるけどさ、ちょっと想定外過ぎて今も信じられてない所があるけど」

私の姿が変わってこの世界に来たのかと思ったら、この身体の女性の身分証が財布の中にあったことから、名前と住所は分かった。
家はチャンプルタウンという所にあったが、メールを見る限り絶賛就職活動中であったらしいことだけは分かる。
この女性もまた、人生に絶望してこんな雪山まで来てしまったのかもしれないと推測は出来ても、その本人と会話することは叶わない。

「こんなの聞かれても困るだろうけどさ。どうするつもりなの?」

そして、元に戻れないかもしれないという現実を理解したくても、飲み込みきれなかった。
確かにこのままで良いのだろうかと焦ってはいた。つまらない日々を繰り返してるかもしれないとも思っていた。
だからといって全てを投げ捨てて逃げたいとまでは思っていなかった。
なのにもう、私が持っていたものはどこにも、何も無いのだ。

「何から何まで本当にごめんなさい。ここが違う世界でも……私なりに頑張って生きていこうと思います。……色んなもの置いてきたから、寂しい、けど」

強がっていないと、今にも泣きそうだった。

だって、家族はもう亡くなっていたけれど、二度と墓参りに行くことも出来ない。
同僚や旧友、友人に会うことも話すことも出来ない。
あぁ私、全部無くしちゃったんだ。

そう自覚するとぼろぼろ涙が出てきそうだったけれど、泣いていてもこの世界で生きていけないって分かっていた。
受け入れたくなくても、受け入れなくてはいけない。
雪山に一人取り残されて来たばかりなのに死ぬかもしれなかった所を、この人に助けて貰ったばかりなのだから。
頑張って生きていかないと。

「……強いな、あんたは」
「え?」
「そんな事情聴いちゃったんじゃ、放って置くのはぼくも気持ち悪いし、人でなしって感じするし。連絡先入れておくから遠慮なく連絡してくれていいよ」
「あっ、ありがとうございます」
「何とかならなさそうだったらぼくも紹介できることがあるかもしれないし。そうだ、名乗ってなかったね。ぼくは、グルーシャ」

私の命を助け、そして突拍子もない話を聞いてこのパルデア地方と呼ばれる世界のことを大まかに教えてくれた目の前の青年は、グルーシャという名前だった。
この世界で生きていくために。
元の私の名前は、置いていこう。
そして生きることに絶望したのかもしれない貴方の人生を。

「私は、エヴァです」

歩いていこうと決意して、手を差し伸べてくれたグルーシャという青年の手を握り返したのだった。
prev next