日向雨
- ナノ -

ひなたあめ

たった一つのかけ違いで、今ある筈の未来が手から零れ落ちていることは有り得るのが現実であった。
今というのは、奇跡や必然の積み重ねである。

少年が気まぐれに声をかけて道端に落ちていた原石のそれを拾おうとしなければ、少女はコンゴウ団に所属することさえしなかった。
草陰に隠れたまま、ひっそりと誰にも気づかれないままだったかもしれない。
そしてコンゴウ集落という団を束ねる長は、生涯を共にすることを自ら年端もいかない頃から固い意志を持って娶ろうとする女性に出会うこともなかったかもしれない。

世界は残酷で不条理で、雄大で──美しかった。


ヒスイの危機を脱することが出来た祝いをするべく団の違いも関係なく、コトブキムラで開催されることになった祭りの準備にヒスイに住まう者たちは数日奔走していた。
大がかりな準備が慌ただしい中でも、どの者にも笑顔があった。
コンゴウ団の者、シンジュ団の者、そしてギンガ団の者。そういった垣根を越えて、ともに作業をする者同士が手を取り合っていた。
これまでの歴史を考えれば当たり前のようにあった光景ではない。

「テル君が花火を沢山用意してくれてるんだって。器用ですごいなあ」
うちにはそんな大掛かりなものを用意出来る程の技術はないしねえ。モンスターボールを開発したっていう技術もそうだけどやっぱり凄いね」
「ヨネも練習したら出来ちゃいそうだけどなあ」

ルネとヨネはコンゴウの織物と着物を用意しながら、コトブキムラでの祭りに向けて準備を整えていた。
異なる文化が沢山混じり合い、跳ね除けるのではなく取り入れようとするヒスイの新しい在り方。
その面白い変化していく時代に対面しているのが、他でもない自分たちである。
織り込んだ敷物の柄に目を輝かせているルネを見て、ヨネはふとルネがこのコンゴウ集落に来た時のことを思い出す。

「ルネの織物の模様は綺麗だよね。何時でも嫁入り出来るような腕前だよ」
「や、やだなヨネ、からかわないでってば」
「本当にそう思って言ってるんだけどね。そういえばさ、ルネ」
「?なに?」
「あー……いや、なんでもない。あたしから言うのは違うだろうし」

妹兼親友として見てきたルネと、弟のように育ってきたセキ。
このヒスイの騒動が落ち着いたことで、漸くセキは身を固める決心と自信を持った事だろうとヨネには分かっていたが──婚姻を結ぼうとセキ本人に言われたかどうかを聞くのは野暮というものだろう。

(ゾロアークもついに年貢の納め時というか、根気負けしたねえ。……まああいつは、いい弟だしね)

セキがいい男であることは、ゾロアークも昔から認めていたことは何となくヨネも分かっていたのだが。
やっと、セキが家族になるということを受け入れたのだろうとヨネは敏感に察知していた。
ルネの横で何時もと変わらない仏頂面を見せるゾロアークを見て、穏やかに微笑むのだった。

ヨネがシンジュ団との作業を行う為に別れた後、ルネは地面を油絵のように異なる色が折り重なる色付いた落ち葉で遊ぶ子供達を眺めながら、ヨネと同じように過去を思い返していた。
ツバキやヨネ、そしてセキと遊んでいた幼少期から10年程の時が経って。
コンゴウ団でのお互いの役割も変わり、そしてそれ以上にこのヒスイ自体も大きく変わった。
手を引っ張って明るい道へと導いてくれる男の子は、何時しか仄かに恋慕を抱く相手となり、そして変化を恐れず危機にも立ち向かうような尊敬出来る人へと変化していった。
そして、その張本人が、ルネを探して別の住居から出てきた。

「ルネ、探したぜ」
「セキさん。さっきまでヨネと作業してて。何か用事とかです?」
「いや……たまには、ちょっとこの辺り散歩でもしないか?そういう時間も、あんま取れてなかったしな」

何時ものように──しかし、何故か少し緊張した面持ちで提案するセキに少しの違和感を抱きながらも、ルネは首を縦に振る。

コンゴウ集落だけではなく、リッシ湖の方にまでよく昔から遊びに行っていたものだ。
大人の目の届かない場所は危ないと言われていたし、今遊んでいる子供たちも全員集落内で遊んでいるが、セキのリーフィアやヨネのゴンベとリングマが居たからこそ許されていた所があったのだ。
並ぶ、藍で染めた羽織を翻す男性の影と隣の青年よりも頭一つ分低い女性の足並みは、身長に差があるのにも関わらず同じペースで進んでいた。
自然とセキが合わせ、ルネと歩く速度を合わせる。それは昔からの癖でもあったし、意識していることでもあった。

「ふふ、こんなに穏やかな時間は久しぶり。最近慌ただしかったし……ゆっくり集落の周りを歩く時間も取れてなかったですね」
「時間は有限だからこそ……こういう穏やかな時間も必要だよな」

カサカサ、と落ち葉を踏み締めながらリッシ湖へ続く紅葉のトンネルを抜けていく。
冬は寒々しくなるが、秋は紅葉が美しく、夏は青々しい葉が陽の光で輝く綺麗な景色。
それは二人にとって大切な故郷の景色だった。

「初めて会ったのはコンゴウ集落でしたけど、その後すぐヨネとセキさんにここに連れてきてもらったから大事な場所なんですよね」
「小さい時過ぎて覚えてねえのが本当に申し訳ねえ位だが……」
「いいんですよ。ヨネも初めて遊んだ場所とか十年も前だし覚えてないよ!って言ってたし」

リッシ湖を眺めながら、まだ挨拶したてでお互いの名前を知ったばかりの子供の頃に連れてきてもらったことを思い出す。
光を反射して輝くリッシ湖のほとりで立ち止まり、息を浅く吸ったセキはルネを振り返り、長年言うことができなかった想いを口にする覚悟を決める。

「ルネ」
「なんですか?」

セキはルネを振り返り、自分を見上げる空のような瞳を覗き込む。
何時か彼女を幸せにしようと思っていたが、今日が幼馴染やリーダーと団員という均衡を崩すその日だ。

羽織のポケットから取り出したのは青く輝く宝石が付いた指輪だった。
しかし、このヒスイという時代に耳飾りや簪を贈る習慣はあれども、他の地方のようにアクセサリーとして指輪を贈るという習慣はまだ定着していなかった。

「セキさん、これは……指輪?綺麗ですね……!」
「オレ達の慣習では飾り櫛を贈ることの方が多いけどな。外国ではこういった指輪を贈って、神様……シンオウさまに誓うのが主流らしくて、そうしてみたんだ」
「……え?」

飾り櫛という言葉に、ルネは思考するための回路が一瞬全て停止したのを自覚した。
指輪の意味は分からずとも、飾り櫛を贈るというその意味は、分かっている。
分かっているからこそ、信じられなくてゆっくりと瞬きをする。
それは男性が女性に婚姻を申し込む際に渡すものであるのだから。
ルネの左手の薬指にはめた指輪に、セキは口付けた。

「お前がずっと前から好きだよ。ルネをオレの伴侶にしたい」
「……」

伴侶、それは生涯を共にする夫婦になる人だ。

――ねえ、セキさん。
本当に私で、いいんですか。

その言葉が喉が震えて咄嗟に出て来なくて、ルネの目の端にはじわりと涙が溜まる。
恋慕を抱き、セキの隣に居られたらいいのにとは思いながらも、彼に釣り合う人間であるとも思っていなかった。そして家族という縁が薄い自分が果たして理想的な家族を築けるかも自信はない。
けれど、セキが自分という人間を必要としてくれたのは、しとしとと降り注ぐ雨に陽光が差し込み、心に日向が出来るような感覚だった。

「ゾロアークに認められるまでの男になって、ヒスイの問題にも立ち向かえるようになってからだとずっと思っててな」
「いい、んですか……セキさん、私で……」
「いいもなにも、元々オレはルネと以外婚姻を結ぶつもりはねえからな?」

ルネの体を抱き締めて、その身体は小さく震えて、セキにしがみつくように背中に腕を回す。
幸福を噛み締めて、ぽろぽろ零れる涙を抑えきれないまま、ルネはセキをその目に映す。
私という人間の道標となった人。

「貴方の……隣に居させてください、セキさん……」

勿論と返事をする代わりにセキは薄い唇に指を当てて、膝を曲げて屈み、ルネのそこに口付けをする。
誓うように、答えるように。
惜しみなく愛を伝えるのだ。

──コンゴウ団の団長もといリーダーが身を固めたという話は直ぐにコンゴウ集落だけでなく、ヒスイ全体に伝わって行った。
話を聞き付けたヨネはアヤシシと戻って来て「ルネおめでとう!いやあ、あんたが漸く腹をくくってルネに申し出た日が来たなんて。姉として見てきたあたしにとっては嬉しいよ」とセキとルネを祝福し、普段各地に散っていたリーダーまでも飛んで駆けつけた程だ。
ワサビとヒナツは、お互い好意が分かりやすかったのにも関わらず結婚に至るまで長かった二人を祝福し、ツバキもまた嬉しさの中に寂しさ等の感情が混ざって複雑そうな顔をしながらも喜んだのだ。

散々コトブキムラでの祭りでセキとルネが婚姻を結んだ話題が持ち上がり、そして御祝儀や祝いの言葉をもらい「コンゴウのセキとルネが結婚したんだって!」と、次から次へと話が回っていく。
わいわい賑わうコトブキムラの祭囃子や花火を眺めながら、セキとムベが作ったイモモチを美味しそうに頬張って楽しい時間を噛み締めていた。

「オレお手製のイモモチ、美味いか?つっても……ムベに大分手を貸してもらったが……」
「ふふ、美味しいですよ。私もムベさんに教わったから、私が作る味とそっくり。ショウちゃんもさっき美味しいって褒めてましたよ」
「今回の立役者にそう言って貰えんなら良かったぜ。それに対して、カイの奴に『お前には勿体ない』とか散々言われたぜ。ったく、お似合いとか言えねえのかよ」

カイの棘のある言葉に眉を寄せるセキにくすくすと口元を抑えて笑うルネのその手には、花火の光を反射して橙に輝く指輪がはめられていた。
楽しい時間を色んな人と共有する光景を見て、ルネの中でこれまで燻っていた心の影が溶かされていくようだった。
父親を目の前で亡くして、ゾロアと共に過ごしてきたものの、独りぼっちになった孤独感とヒスイという場所への畏れ。
それは沢山の幸福が落ち葉のように積み重なり、ルネの心を色付けていった。

「ねえセキさん。この土地には悲しいこともあったのではっきりと今まで言うことが出来なかったんですが……私、ヒスイが好きです」
「もっと面白い場所になって行くだろうよ、ヒスイは。大きく変わるヒスイにオレたちも変わっていかなくちゃいけないが……付いてきてくれるか?」
「はい……!」
「そう言ってくれると思ったぜ。流石、オレの嫁さんだ」

生涯を共にする夫婦となった今、セキの歩く道の隣にルネが居る。
それはヒスイの夜明けを進むセキの足元を照らす、柔らかくも温かな光となるのだった。


──ヒスイに未曾有の危機が昔訪れたとされる頃。
空の青さやテンガン山の白さは変わらずとも、時は流れていく。
日は昇って沈み、そしてまた昇ってくる日々が繰り返し流れていく。

とある民家の中。
祖父の膝には眠そうに丸まるリーフィアと、周りには元気にはしゃぐ四人の孫の姿があった。
全員では無いが、彼らの琥珀のような瞳は、祖父と同じ色をしている。

「ねえねえ、おばあちゃんとの話、聞きたい!」
「オレとルネが結ばれた時の話が聞きたい?お前らも好きだなあ」

そうしてかつてのコンゴウ団の長であり、リーダーだった男は静かに妻との思い出を語らい始める。

其れは万人にとっての宝石ではなく、落ちていたその石を誰もが拾う訳ではなかった。
目の前にあった原石に手を伸ばした人がいて、初めて輝き始める。
しかし、その宝石が他の誰にも渡せない何にも変え難い美しさであることを、セキだけが知っていたのだ。