Extra Cobalt Blue
- ナノ -

春先のまほろばコーヒー

人はあり得ないと思う出来事をもしかしたら、という思いを抱いて夢見てしまうものなのだろうか。
夢想家と言う訳でもないのだが、それでも普通ではないことが普通であったからこそ、自分にとってはありえない夢というものがあったらどうだったんだろうかと、頭の片隅で考えているのだろう。
それは無意識に。ただ、そうであればよかったに、とは微塵も思っていないにしても。

クロウは欠伸をしながら頭を掻き、ベッドから降りて立ち上がる。
先に起きていたらしいフランの姿は隣になく、随分と長いこと深く眠り込んでいたらしい。
部屋を出る前にクローゼットの引き出しを開き、懐かしい色の白に赤い線が入ったバンダナを取り出して眺める。

「懐かしいな……」

バンダナを愛用していたが、それは学生時代の終わりと共に卒業をしたつもりだった。
とは言っても、別に捨てた訳でもない。捨てようか悩んでいた時、フランが止めたからだ。
嘘偽りで覆い隠した罪の象徴である過去の自分を切り捨ててしまおうと考えたのが見抜かれたのだろう。

久々にバンダナを付けて髪を留めたクロウは寝癖を整えながら、ミルでコーヒー豆を砕いているらしい香ばしい香りが漂うリビングに入る。
朝食を作っていたらしいキッチンから出てきたフランはクロウに視線を移し、懐かしい姿にぱちぱちと瞬いた。


「おはよう、クロウ。……あれ、どうしたの?クロウがそれを付けてるなんて珍しいというか、懐かしいわね」
「あぁ、懐かしいだろ?」
「付けるの嫌がってるのかしらと思ったけど……えぇ、懐かしいしやっぱり似合ってるわね」


改めて似合っている、なんて言われると少しばかり気恥ずかしさを覚える。
急にどうしてバンダナを久々に付けたのだろうかという疑問を抱きつつも、フランはお湯を沸かしてクロウに淹れたてのコーヒーを入れる。
クロウはコーヒーを飲み、フランは自分用にカフェラテを淹れる。
腰を落ち着けてコーヒーを飲みながら、この習慣が始まった日のことを思い出す。そもそも寮が違ったのもあって、Z組の第三寮に入った時からだった。


「……なぁ、フラン」
「なに?そんな神妙な顔をして」
「不思議な夢を見たっていう話、してもいいか?」


普通だったら有り得るはずの、ありえないような話。


「別にこんなことがあればよかったのに、なんて思ってる訳じゃねぇし、寧ろ俺があの生き方をしてなけりゃこんな今はなかったとは分かっちゃいるんだが」


ーーこのバンダナが馴染んでいた頃の、夢のような話をしよう。
目の前の少女が時折くすくすと微笑み、そしてそんな風に学生生活を楽しめたら楽しかったのかもしれないわね、と寂しそうに目を細めて彼の話に耳を傾けるのだ。


ごく普通の学生として2年生に上がっているクロウ・アームブラストは、部活には所属していなかった。
身寄りを亡くしながらもジュライから出てきた18歳の少年は、トールズ士官学院に入学をした。そして、そこで出会った四人の友人たちと、これまで幼少期の時以来の青春を経験していた。
Z組を立ち上げるための試験的な実習に参加していたZ組の先輩として彼らを見守っていたクロウは、ケルディックから戻って来た悪友であるアーサーの妹に声をかける。

ラングリッジ家という帝都で有名な貴族である彼女は、兄と異なり、模範的な貴族子女だった。
生真面目で清廉、気高くも高慢な態度を取らない凛とした少女。隙がないように見えるほどに色んなものを人よりも持っている少女。
だが、入学式の次の日に学生会館前で出会ったフラン・E・ラングリッジは、何となく不安にさせるような所があった。
何故漠然として不安を抱いたのかという具体的な理由は分からない。しかし、トワ達と打ち解けていったことで丸くなる前のアーサーよりも、危うく見えたのだ。

一見全くそうには見えないような後輩なのだが、直観と言うべきだろうか。
ーーアーサーが濁しているが、恐らくはフランには何かがある。

「Z組に入ってるっていうのに、なんか……心ここに在らずって感じだよな」

Z組が実習を終えてから初めての自由行動日。
その実習でマキアスを庇った際に大怪我をしたという話を耳にしていたクロウは、見舞いに行きたがっているアンゼリカを宥めて、その後輩の様子を確認しにキルシェへと向かうと、彼女の姿はあった。
周囲の貴族生徒の視線を流して読書をしているフランに近づき、「よっ」と声をかけて向かいの席を手で引く。
クロウに気付いたフランは顔を上げ、ページをめくり掛けた怪我したらしい腕と反対の手に、クロウは違和感を覚えて首を傾げた。
ゆっくりと閉じた本をテーブルに置き、入学式の翌日以来に会った先輩が座るのを驚く訳でもなく眺めていた。


「クロウ先輩、お久し振りですね。あの日以来というか」
「お前、実習で左腕抉られる大怪我したんだって?大丈夫かよ、傷跡は?」
「えぇ、心配しなくともあと少しで治ると思います。傷跡も残らないでしょうね」
「……そんな包帯してほんとに大丈夫かよ?いってー」


フランがちらりと見せた左腕の包帯に、クロウは苦い顔をして腕を振る。
大丈夫だとは言うけれど、話に聞いていた限りはかなりの深手なはずだ。剣を持っていた"利き腕"と反対の腕を咄嗟に出して魔獣に抉られたらしいのだが、それよりも今気になるのは。


「……フラン、お前、左利きか?」
「!?」


一瞬、眼光が鋭くなったような気がした。殺気にも似た、警戒心に、クロウは察する。
利き腕を偽っている以上何かはあると思っていたが、恐らくフランが他人に触れられないようにしている一線なのだと。


「なあに、俺も左利きだから何となくそうかと思ってな。ってことは、利き腕使えねぇ状態なのか。不便じゃねぇか?」
「……クロウ先輩、その話だけど」
「……ハハ、誰にも言わねぇって。だって、嫌なんだろ?」
「……」


笑いながらフランにとって都合の悪い話を断ち切る目の前の先輩に、ぱちぱちと瞬く。
適当そうに見える、お調子者と言われる不真面目を象徴するような先輩。しかし、人の本質を見抜く目があるらしい。これ以上詮索されるのを嫌がったフランに気付いて止めたのだ。

――自分が一学生として間違っていることは分かっている。分かっているから、そもそももう一本の剣さえトランクに仕舞ったままにしているのだから。
けれど、どうして、何のためにマキアスを庇って怪我をしたのか。サラに問われた質問の答えは分からない。
誰かを助ける為に自分が身を挺して犠牲になろうとした訳ではない。強いて言うのなら、反対の腕でエペしか使えない状況で、あの危機を脱出するためにはあの方法が最善だったからだ。
別に大した傷ではないけれど、周囲が自分のせいで、と気にしているのは確かに心苦しい。


「だが、お前のクラス、課題山積みだし色々大変そうだし無茶するなよなー今回の件だってあることだし」
「……クロウ先輩って、不思議ですね。まだ会って二回目だけど……見てくれているというか」
「まー後輩どもが気になるってもんよ。あ、マスター、俺にコーヒー一杯頼む」


クロウはマスターにコーヒーを頼んだが、フランに向き直って悪戯に笑う。
そして至極当然のように調子よく頼むのだ。


「あ、フラン。ついでに勘定はよろしくな!」
「……ちょっと?」
「クク、これが素か。いやぁ、俺の懐が最近寂しくてなぁ」
「はぁ……感心を少しでもした私がばかみたい」


都合の悪い話を黙っていてくれるというなら、コーヒーの一杯でも安いものなのかもしれないが、後輩の女子に進んで奢らせようとするのは如何なものなのだろうか。
先輩らしいかと思えば、見習わないべき所も多々あって。この調子の良さはどこか自分の兄を呼び起こすようだった。
きっと自分とは真逆の性質を持っている人なのだろう。理解しきれないというよりも――自分には、持っていないものを数多く持っているということだ。


「なんつーか、そういう素もあるんだとしたら、ちと堅苦しくねぇか?」
「え?」
「その妙に余所余所しい敬語だよ。あぁ、クロウ、って呼んでもらって構わないぜ」
「……、それじゃあクロウ?後輩に紅茶を奢るなんてことはしないのかしら」
「いやー、ハハ。是非ともご馳走になりたいんですけどね、フラン先輩」


調子がいいものだと溜息を吐き、フランはクロウに対しての遠慮を捨てた。
だが、不思議とクロウに対して呆れる以上に、サラに問われた自分の行動やZ組という場所に所属する人間であることへの葛藤が薄れていくようだった。
彼は自分を見ていない筈なのに。それ程知らない筈なのに。そもそも、こうして気を遣うように自分の座っている席の前に座り、話しているのが不思議だった。
コーヒーは奢らせている調子のよさはやはり先輩として如何なものかと問いたくはなるが。


「そっちの方がらしいぜ、多分な」
「あ……」


――俺はこいつの抱えてるもんは知らねぇけど。
何となく。このままZ組だけに任せて放置するのは危険だと思った。
お節介なことをしているとは分かっているが、先輩としても放っておくことだけはしちゃいけないと確信めいた直観があった。

「ま、俺でよかったら何時でも頼ってくれ。コーヒー分の借り位は返すのが筋ってもんだろ?」

腕を伸ばして、ぽんぽんと小柄故に低い位置にある頭をなでる。
クラスメイトでもあるZ組の奴らに基本的に任せるべきなんだろうが、その賭けだけは、何となく乗る気にはならなかった。

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