紺碧片のオフェリア
- ナノ -

盤上から星を掬い上げて


久々に抱いた愛おしい人の体温。
朝の陽ざしが窓の外から零れ、微睡の世界から現実へと引き戻される。
意識は幸福な疲労感を噛みしめながら瞼を開いた青年は、隣であどけない顔で眠る女性に頬を緩ませ、顔にかかった髪の毛をそっと退かす。

きっと、自分にしか見せない表情。
そうだと信じたかったけれど、つまりそれは、この二年間彼女が一度たりとも心から気を抜ける時間を過ごしていなかったということになる。
その原因は間違いなく、自分にある。
だが、フランはそんな罪悪感も全て理解した上で「クロウ以上の人なんて居ない」なのだと語った。
そんな彼女の愛情に応える為にも、自分の為にも。期限があるというのなら、遠ざけるのではなく、精一杯の愛情を注ぎたいと思えるようになった。
鼓動が鳴らずとも。胸が高鳴るような感覚を覚えるのは、改めて恋をしているからだ。

肌寒いのか小さく丸まったフランに、毛布を掛けて抱き締める。
じんわりと暖かな体温が伝わって来ると同時に、或ることに気付く。

「俺の身体も、あったけぇな……」

一晩中彼女の身体を抱きしめた状態で寝ていたからか、自分の体温ではないとはいえ、身体は温かかったのだ。


――エリンの郷を出発したメルカバ内部では、新しく吹き込んだ風で活気に満ちていた。
アルフィン皇女とエリゼが、本格的にメルカバのオペレーターを務めることになったのだ。
まだ解決していない問題や相克に関する事象は山積みだが、各地に散ってしまった仲間たちはこうして戻ってきた。
賑やかで活気に満ちた空気に胸を躍らせながらも、フランは体に少し残る気怠さに欠伸を噛み殺す。幾ら明日のことを考えて抑えめにしたとは言っても、全く疲れが残っていない訳もなかった。


「ふあ……」
「眠いのかーフラン?」
「分かってるくせに聞くんだから……!」
「ははーわりぃわりぃ。あんまあからさまだとゼリカ達に僻まれるだろうからな。アーサーは敢えてスルーらしいが、何時喧しく言ってくるかわかんねぇし」


学生の時のような会話にクロウは悪戯に口角を上げて笑い、アンゼリカをひっそりと指さす。
アンゼリカは新しく入ってきた可憐な二人の少女に破顔し、愛に満ちた言葉を並べて口説いている。
その様子を複雑な表情で少し距離を離した場所から見守っているリィンが視界の端に映り、クロウは「リィンー」と呼びかけた。


「クロウにフラン?」
「お前が微妙な顔でゼリカ達を見てるから、どうよ?ってお兄さんは思ったわけよ」
「はは、そういうことか……」
「アンゼリカさんには流石のリィンもそこまで厳しいガードはしないわよ」


女性同士なのだから、幾らアンゼリカが男装の麗人で女性を見境なく口説こうとする所があるとはいえ、リィンも寛容だろうとフランはフォローを入れたのだが。
妹にちらりと視線を一瞬向けてから見せた笑顔は、背筋にぞくりとしたものが走る感覚を覚える。


「セクハラに近いことをしていたら流石に止めに入るが。出来た妹に悪い虫が付かないようにするのは俺の役割かと思ってさ」
「……あー……リィン、お前そういう所悪化してるよな」
「そうか……?俺としてはそれほど変わってないような気がするが」
「筋金入りかよ」
「クロウはそうじゃなかったのか?」
「へっ」
「え」


突然話を振られたことに驚いて、フランは目を丸くしてリィンに視線を向ける。
クロウには兄妹は居ないから、そうじゃなかったも何も、大前提が該当しないのではないかと首をひねり掛けたが、リィンが続けた言葉で固まる。
「フランに対しては、そうじゃなかったのか?」という問いに。

――クロウが過保護?そんな印象を抱くようなことがあっただろうか。
確かに誰に対しても面倒見が良い所はあるけれど、リィンのエリゼに対する過剰な反応と比べると、違うと言えるだろう。
けれど。
苗字に拘ってばかりで、あともう少しで踏み外しそうになっていた自分を。彼はどうやって。何をして。引き留めた?
勢いに関しては系統は違えども、一緒なのかもしれない。

そう気付いた時には、顔が熱くなる感覚を覚える。


「いやー流石にお前ほどじゃないけどな」


そして、フランがふと気づいたことに自覚があったクロウは、へらへらと笑いながら誤魔化した。
本当ならそこまで面倒を見るつもりは、出会うまで。気になるまで。全く想定していなかったのに、深入りをしてしまったことを考えると、クロウ・アームブラストという青年は恋をしたことで少し変わったのだろう。
こっ恥ずかしいったらありゃしねぇ。だが、寧ろあのまま恋を知らず、愛を知らなければ、隣で微笑んでくれる人は居なかった。
誤魔化すように「お前が大人しく守られるなんてことないだろー?」とフランの頭を乱雑に撫でていた時。
丁度会話の後半部分を聞いていた、ブリッジに入ってきたばかりのサラとフィーが、クロウを後ろから小突いた。


「なになに、アンタらは昼間っから惚気話?妬けちゃうわねー」
「はぁ……昼間っからオジサン臭い絡み方ありがとう、サラ」
「んーフランの心配をするって意味では、クロウ以上にマキアスの方が心配症かもね」
「あ……そうね、確かに二年、マキアスも忙しいだろうに時々声をかけてくれてたし」
「へぇ、そうだったのか。マキアスのやつにも余計な心配かけさせちまってたか」


クロウは自分の居なかった間のフランの様子に、じくりと胸の奥が蝕まれるようだった。
それぞれの道を歩んで、Z組同士でも会う時間をなかなか取れなかったが、同じ帝都に居たエリオットとマキアスは、それぞれの家にフランを呼んで気遣っていた。
Z組の仲間として、間近で二人の仲と顛末を見ていたからこそ、全員気にかけてはいたが。クロウが居なくなった後のフランを特に案じていたのは、確かにマキアスだった。


「貴族嫌いだったマキアスを思い出すと、かなり変わったわよねぇ。ま、アンタらは仲良かったのもあるけど」
「リィンと違って、衝突も起きなかったっけ」
「あはは……懐かしいな」
「はは、今度アイツにコーヒーでも奢ってやるかね」
「それを言うなら私が一番改めて何かお礼しないと駄目ね……本当に、してもらってばっかりだったし」
「マキアス、今頃下の階でくしゃみしてるかも」


気分転換の為に誘ってもらう時にありがとう、とお礼を何度か言っていたけれど、それも何処か心配させるような雰囲気だったかもしれない。
心の底から笑いながら、一人ではなく、二人で。
不器用ながらも元気づけようとするのではなく、見守ってくれていた友人に、お礼を言わなくてはいけない。

そんなマキアスらしさに笑いながら話していた同時刻。銃の手入れをしながらくしゃみをしたマキアスに、ミリアムが無邪気に「マキアス、風邪引いたのー?」と尋ねていた。


――仲間が集結して安息の時間を堪能する間にも、盤上は既に音を立てて動いている。黄昏はゲームを彩り、終わりへ向けて加速を促す。
地を這う呪いと、空を真っ赤に燃やす陽炎。帝国という土地の盤上を見据える指し手は二人。
傍観するか、はたまたどちらかを応援する観客となるか。
其れは、異なる風を吹き込む本人たち次第だった。

オーレリア分校長からミュゼに連絡が入ったのは午前中だった。
指定された時刻は12時30分。千の陽炎の全貌が分かるかもしれないという緊張感がメルカバに走る。
ミュゼはその場で仲間であるZ組にも話すことを約束したが、悪戯なその微笑みに、何時もの余裕は感じられなかった。
以前から顔見知りの後輩でもあり、立場や能力を考えると世界を動かせる特別な人間であるが故の責務を考えると、つい、彼女の分まで溜息を吐きたくなる。

カウンターテーブルに座って、朝から頭の回転を速める為に珍しくコーヒーを飲みながら、フランは隣に座るクロウに愚痴の様に零した。


「ミュゼの千の陽炎……断言するわ。現実的にはそれしかないからこそ、ろくでもない最悪のプランになるでしょうね」
「お前、全貌何となくわかってんのか?」
「いえ、流石にそこまでは……だけど。ミュゼの近くに居る"武"とそれに連なる"軍"を考えて、ミュゼの手腕を考えて私の予測出来得る十倍の規模にしたら。それもあり得なくはないでしょう?」


鉄血宰相でも見ぬことが出来ていない千の陽炎の全貌。その規模が如何なるもので、どのルートに声をかけているか、盤上の指し手でもない限り全て分かる訳もない。
しかし『天才が考えたとしてもこれ位が普通は限度だろう』の範囲を、奇才のミュゼ・イーグレットの知能に換算すれば。
規模は恐らく西ゼムリア大陸を巻き込む範囲になるのではないか。漠然とそう思えるのだ。つまりは全面的な戦争が起きる。
多数の死者が出ることになるだろう戦争が巻き起こることを考えると、後輩に敬意を示す意味で『ろくでもない』と表現するしかないのだ。
何せ、自分よりも幼い少女の一声一手で、そんな状況になってしまう責任の重さは見るに堪えないからだ。
誰かがやらなければならないー―それをミュゼは引き受けたのだ。


「……はは」
「な、なに?」


話を聞いていたクロウから帰ってきたのは、笑い声だった。
今の何処に笑える要素があったのだろうかと困惑しているフランに、クロウは昔を思い出しただけだと弁解する。
仲間である分には、フランのこういう所は非常に頼れるが、敵となると厄介だった。それを、クロウはよく知っている。


「いや、お前のそういう頼れる所が好きだなーと思ってよ。実際、《C》を特定したのはバラす一日前とはいえ……お前だけだったからな」
「も、もう……こういうことは私より得意じゃない」
「ま、確かに一人以外の子供達は騙せたが、買いかぶり過ぎだっての。それに、計画を練るスキルと原因と過程を推測して対策を講じるスキルは別だろ」


鉄血宰相を討ち取るための幾重にも練られた作戦を考えたクロウは、普段は不真面目な印象を抱かせているが、非凡な才覚があった。
《C》として各地で行動を起こしていたからこそ、クロウは知っていたのだ。
ノルド高原の演習で、ギデオンの周辺を怪しんで調べていたことも。帝都での実習で、憲兵隊や親衛隊、アーサー達に指示を出して被害を最小限に抑えていたことも。
正体が暴かれないよう偽装を幾重にも施していたけれど、僅かな違和感とクロウ・アームブラストという人間の外側だけを見ることをしなかったことで、正体を暴いたことも。


「ふふ、でもクロウの件は正直、クロウが私を黙す気が無かったからよ」
「……え?いや、めちゃくちゃ騙してた気がするぜ?」
「確かに隠そうとはしてたけど……他の人に対して以上に、ヒントが多過ぎたもの。意図的じゃなかっただろうけど……私に関わるたびに、零れる感情とか経験かしら。それがなかったら、そもそも私を止めようともしなかっただろうし」
「……なんか恥ずかしいな」


時に、欠陥に気づかれて止めようとされた所で、声が届かない場合もある。
意固地になればなるほど、理解者と、その上で受け止めてくれて叱ってくれる人はかけがえのない存在となる。
ミルディーヌではなく、ミュゼ・イーグレットにとって新Z組が、リィンがそういう存在になればいいけれど。そう願わずにはいられない。

本日12:30――エレボニア・リベール・カルバード国境地点上空のパンタグリュエルで、歴史は作られるのだ。