朝焼けのスピネル
- ナノ -

21

明かりの付いていない隣の部屋を、朝日を浴びながらベランダからぼんやりと眺める。
ベランダに出る度に会っていたという訳ではないけれど、それでも隣で開く音がしたと思った時に顔を出すことは度々あったのだ。
こんなに静かな日々を過ごすのは久しぶりだな――そんな風に思いながら、同じくベランダで寛ぐのは日光浴をしているコータスとバクガメスだ。

この風景は、半年前までは当たり前だったのだ。エスカが物置として使っている隣の部屋を使用し始める前までは、よくある日常の光景だった。
遠くのワイルドエリアを見ることはあっても、隣のベランダを確認することなんて無かった日常。
キバナにとっては既に物足りない物へと変化していた。

「引っ越すとまでは言わなかったが……それでも暫く居ないと、物寂しいよな」

キバナの呟きに、日光を浴びて気持ち良さそうにしていたポケモン達も同意する。


ーーダンデとユウリによる決勝戦が終わってから、およそ一か月半。たったその一か月半の間でも、それぞれの環境や目標は大きく変わっていた。
ユウリは若いながらチャンピオンとしての業務を引き継ぎ、ダンデは新しいやるべきことを見付けて各所を忙しなく回っている。
そしてエスカは、キバナに借りているこのアパルトメントから最低限の荷物だけを持って行って、キルクスタウンへと長期に渡る修行に出ていた。

出会った当時と同じ立ち位置でに立って再び向き合いたい、キバナと戦いたいというのはそれだけ本気で、彼女は懸命に現役当時の感覚を取り戻しているのだ。
同じこおり使いのメロンと、彼女の息子であり、いわ使いのマクワに頼み込んで毎日長時間のトレーニングを付けてもらっているという話は耳にしていた。

「今も感触は覚えてるってのにな」

自分の手を握ってきた彼女の長い指先も、そこから伝わってくる熱も。
そして好きだと伝えた時に綻ぶように、嬉しそうに微笑んだ顔も。
胸にもたれかかるように腕の中に納まって、愛を囁くように礼を述べた声も。

「あー……そんなこと言ってる場合じゃないな。オレ様もエスカと戦えたら、勝たないとな」

チャンピオンが交代し、リーグ委員長や彼の補佐であるオリーヴが居なくなったことで慌ただしい変革が行われている現在。
エスカと数人の委員を中心として、あと数週間で開催される主に1部と2部のジムリーダーによる大会を滞りなく行えるように、日程や時間帯の調整も行っているそうだ。
仕事をしながら、トレーニングを積んでいるその行動力と精神力は、やはり元来ポケモントレーナーに向いていると言えるだろう。
その大会で、エスカとエキシビションマッチを行う――という訳ではない。正式に彼女はどうやらエントリーしたらしいという連絡が、ダンデから送られてきた。
当たるかどうかはブロック次第で、勝ち上がるかどうかによるが、きっと戦えるに違いないという予感があったのだ。


――空には雲一つない青が広がっている。そよ風に吹かれた青々しい葉が街を踊り、新しい季節を告げる。
今回の大会はチャンピオンカップやジムチャレンジが行われていたシュートシティではなく、エンジンシティで行われる。
八人のジムリーダーだけではなく、今回の大会には十五人のジムリーダーと彼女が参加をしていた。

開会式が行われる前の朝早い時間帯に1部リーグのジムリーダーで顔を揃えていたのは、トレーニング熱心なカブ、マクワ、サイトウといった面々だった。
ダンデのバトルを見るまでは自分のバトルスタイルに悩み、2部で燻っていた時期があるカブとしては、毎年このトーナメントに対しては並々ならない思いがあった。
カブは隣で汗を拭うマクワに声をかけると、マクワはカブに敬意を払って丁寧に頭を下げて礼をする。今回の大会の件で、マクワに聞きたい話が一つだけあったのだ。


「やあ、マクワ君。君の所とメロンさんの所でエスカ君が勝負勘を取り戻してきたと聞いているよ」
「えぇ、そうなんです。同じこおり使いの母と、タイプの相性的には苦手な筈のぼくとのバトルを連日のように行っていましたよ」
「それは……ジムトレーナー達との練習試合よりも毎回毎回手に汗握る緊迫感がありそうだ」
「正直、ぼくらのトレーニングも捗りました。何せ、ぼくは当時の彼女の試合を見ていませんでしたが……キバナさんと争っていたというのは嘘ではありませんね。彼女は本当に強い」


ここ二ヶ月ほど、一週間のうちに何度も何度も手合わせをすることで感じたのだ。
最初はそもそも委員になったエスカが本気のリハビリをすることも意外だったし、今まで偶然エスカが担当したことが無かったキルクスタウンのジムリーダーに声をかけてきたことが意外だった。
先ず母のメロンに対して彼女が嘆願してきた。
親交があるというルリナではなく、敢えて自分達にトレーニングを依頼してきた理由は分かっていた。
同じタイプの使い手として経験が豊富なメロン。そしてこおりタイプの使い手のバトルを間近で見続けてきたこおりタイプの弱点をつけるいわタイプの使い手であるマクワから学び取る為だ。

最強と呼ばれているキバナのライバルだったといっても、ブランクがあるだろう――そんな風に、考えて手加減をしようとしたのだが。
エスカというトレーナーは純粋に、強かった。氷結と紫焔を操る氷霊使い。
試合運びは冷静沈着で、隙が無く、状況に応じて機転が利くといった印象を受ける。キバナと反対の印象ーーだが、フィールドの気候をあられに変えて有利に進める所は似ている。


「あの母が、自分の次のこおり使いはエスカさんだと言う位ですから」
「全くバトルをしていなかったという訳ではないが、流石に勝負勘が鈍ったかと思ったんだが……そうか。彼女は委員としてこれまで数多くのジムを担当してきたことで、その目で見て研究していることになるのか」
「……ジムリーダーという肩書を持っていなくとも、彼女やネズさんのように強い人というのは沢山いるものなのだと思い知らされますね」


元チャンピオンダンデの推薦を受けて、今回行われるジムリーダーによる格付けとも呼べるこのトーナメントにエスカは参加した。
勿論、既に一つの推薦枠で二部のジムリーダーの一人と戦って勝利をしなければいけないという条件の中で権利をもぎ取っている。丁度、ユウリとビートが戦った試合のような位置付けの物だ。

チャンピオンが参加しない大会とはいえ、各サポーター達がジムチャレンジの時と変わらない熱で応援するのには理由がある。
基本的にジムリーダー達の成績はポイント制になる。例えばチャンピオンカップで何回戦まで進出出来たかだとか。そういった試合成績で細かにポイントが積み重ねられていく。
そして、チャンピオンカップとは別にジムリーダーだけによるトーナメント形式の試合があることには当然意味がある。

ジムリーダーの中でも1部リーグと2部リーグが存在するのだ。1部に居るからと言って、ずっとそのポジションに居続けられる訳ではない。
成績次第で、1部と2部のメンバーが入れ替わることは多々あるのだ。常に勝負の世界に立ち続けて勝敗を競うプレッシャーというのは、ジムリーダーを時に苦悩させる。
1部のランキング下位と、2部のランキング上位のトレーナー同士だけで戦わずに大番狂わせが出来るシステムにしているのはローズ委員長の発案だった。

早々に到着していた三人だけではなく、他の選手も続々と到着する。
荷物をロッカーに置いて、身体を解す為に柔軟をしていたルリナは、自分の後に到着したメロンと共に来たエスカの姿に動きを止める。
自分以外は全て敵となることは分かっているのだが――この場所に委員としてではなくトレーナーとしてやって来たことが、感慨深かった。


「……エスカ、お帰り」
「ん、一時的だけど……ただいま、ルリナ」


――どちらかが勝って、どちらかが負ける。そんな残酷な勝負の世界へ、お帰りなさい。


総勢十六人によるトーナメント形式の大会。右ブロック八人、左ブロック八人だ。
対戦カードが発表され、エスカは目を瞬かせる。キバナの名前が同じ右ブロックにあるけれど、上下に名前が散っている。つまり、準決勝まで勝ち上がらなければいけなかった。
初戦の相手は2部リーグのジムリーダー。かくとうタイプを得意としているらしく、エスカとしては不利なタイプでもあり得意なタイプでもある相手だ。

電光掲示板を眺めて、出番が遅そうだとぼんやり考えていると、後ろに人が立った気配がした。
振り返る間もなく、その日とは首を伸ばしてエスカが見ていた電光掲示板を眺める。


「エスカはオレ様と同じブロックか」
「キバナ。おはよう」
「久しぶりだな。……流石に物足りなく感じる毎日だったが、この日のエスカと戦う為と思えば納得だな」
「……ありがとう。私の我儘聞いてもらって」
「いいや、ダンデのあの試合見たらより一層必要な事なんだろって分かるぜ」


自分達がトレーナーとして出会った以上、きっともう一度フィールドで戦うのは必要なことだったのだろうと理解出来るのだ。
だから、エスカの返事はこの後にゆっくり聞こうと待っていられた。


「私がキバナと当たるには……。そっか。もしかしたらルリナに、勝たないといけない」
「へぇ、成程な。エスカ、オレ様は絶対に準決勝まで勝ち上がるから」


例え実戦を離れていたとしても、この二ヶ月間休む間もなくトレーニングを実戦形式で積んできたことは知っている。
何せ彼女はこのキバナを残り一体になるまで争ったトレーナーなのだから。
きっと、勝ち上がって来れるはずだとキバナは信頼していた。
フィールドで相対して、そして戦い終わったら。

「そしたら、聞かせてくれよ」

キバナは穏やかな笑みを浮かべるけれど、はみ出しかけた恋心は今は胸の奥に押し込む。
何せこのスタジアムの参加者に名を連ねた時点でライバルだ。
そして別れたキバナとエスカの目は、勝負師の物へと変わっていた。
対戦相手として当たる時は、手なんて一切抜かない本気の勝負をする。

ポケモントレーナーたるもの、戦う時は雑念を極限まで削ぎ落として。自分とポケモンの勝利の為に。


「……次の相手、やっぱりエスカか。一度も戦ったことないけど……正直、凄く嫌な相手ね」

電光掲示板に乗っている次の相手は今まさにフィールドで戦っている勝者だが。モニターに映ったのは危なげも無く涼やかに、しかし鮮烈に勝利したエスカの姿だ。
ルリナの表情は苦い物へと変わる。
親友という関係だから戦い辛いという理由ではない。

ただ単に、彼女の実力は当時キバナとエスカの試合を見ていたから良く知っているという理由だ。
自分がジムチャレンジに出るたった一,二年ほど前に、彼等はセミファイナルトーナメントで決勝戦を繰り広げた。
それがどれだけ激闘だったか、ルリナはよく覚えていた。

水と氷霊。相性だけで言うのなら、エスカの手持ちポケモンの弱点を兼ね備えたポケモンが何体か居る。
しかし、そう簡単に決まらないのがポケモン勝負という世界だ。
彼女がどういった目的で突然復帰の修練を積んできたのかは、親友のルリナにも連絡は無かった。
だが、間違いなくユウリがキバナやダンデを破ったことが要因となっているだろう。

今回どうやら2部のジムリーダーに負けた1部のジムリーダーは居なかった。
二人ほどジムリーダーが変わったばかりとはいえ、歴史的大会となったファイナルトーナメントを経験して士気が高い。タイプの相性によっては何人か2部リーグのジムリーダーに負けることもあるのだがーーそれまでに積み重ねていたポイントによってはその一回の敗北で、メンバーが入れ替わるほどでは無い。


ルリナは気合を入れるように頬を叩き、ベンチから立ち上がる。
そして歓声沸き立つフィールドへと足を進める。遠くの方から向かい側でやってくるユニフォーム姿のエスカを見るのは新鮮だった。
何時も彼女はガラス越しの関係者席や、舞台裏のモニターから試合を見守ってくれていた。自分達が戦うためのフィールド全体を整えてくれていた人だったのだから。
だが、彼女の原点は、本当はこの姿なのだろう。

フィールドの中央で、初めて親友と言葉を交わす。
ーーエスカが試合に復帰すると聞いて、ソニアはかなり驚いていたな。彼女もジムチャレンジを過去にしたけれど、トレーナーの夢は半ばで諦めて、博士の道に心惹かれた子だから。


「私は貴方を見くびらないわ、エスカ」
「そう言ってくれてありがとう、ルリナ」


言葉を交わして、それぞれがフィールドの端へと向かい、モンスターボールを手に取る。
ルリナは高く足を上げて、ボールを勢いよく投げる。グソクムシャがフィールドに降り立ち、ルリナは足幅を広げて立ち構える。
真っ白なプレミアボールを下から天に向かって投げたエスカが出したのはポットデスだ。

涼しげだが、穏やかな色を含む彼女の瞳は、凍て付いた氷の如く鋭いものへと変わる。
長年彼女とは親友という関係だが、そんな瞳を見たことは無かった。
バトルフィールドで向かい合うからこそ見せるエスカの初めての表情に、ルリナは笑みを浮かべる。彼女はきっと、こういう顔も見せてこそ等身大のエスカなのだろうと。


「大波で全て流してあげる!」
「その大波ごと……凍らせるわ」


──先の試合よりも、今目の前の試合を。全力で戦い抜くまでだ。