circus
- ナノ -
今日は、昨日の夜から少々落ち着かない日だった。
自分たちにとっては非日常なはずなのに、二週間という期間で、いつの間にか溶け込み始めた頃。
その夢は終わる。
ただ、決して泡沫のように跡形もなく消えるのではなく、自分達の中に記憶として焼き付いて残るのだ。

今日はいつも通りの朝を迎えるのではなく、アラームよりも早く目が覚めた。
隣のベッドですやすやと眠るフロイドは、何時もと変わらない様子なのだから相変わらずだ。自分のペースを決して崩さないのがフロイドらしいとも言える。

「今日で……最終日ですか」

エミルさんがナイトレイブンカレッジに学園長と取引をして体験入学をする期間は、たった二週間。
自分達と同じ制服を着て、同じ寮に泊まり、同じ教室に通うなんてことは、彼女がミステリーショップで働いている間はあり得なかったことだというのに、今では自然と馴染んでいる。
その日々が終わってしまうことへの寂しさと。
同時に、元に戻るのだという安心感もあったのだ。

(男性ではないエミルさんがNRCに入学できないということは置いておいて、エミルさんが生徒としてではなく、商人としてこの地に訪れたからこそ出会い、惹かれたんでしょうね)

エミルさんがアズールや自分からの商談や、プライベートなことを探る追及も交わし続ける商人だからこそ、興味を抱いた。
普通の生徒をしている彼女に興味がないという訳ではなく、彼女の生き方の根幹となっている姿が見られないのは、少々寂しかったのだろうと冷静に自己分析をしていた。

何時ものように制服に着替えて、ネクタイをしっかりと締める。
フロイドを起こすことは忘れず「先にエミルさんの部屋に行ってきます」と声をかけて、今日までとなる彼女のオクタヴィネル寮内の部屋を訪ねた。
トントンと扉を叩くと、中から物音が聞こえてきて、扉が開かれる。
既に着替えを終えて、登校できる準備を済ませていたらしい彼女は、一瞬驚いたように目を開いて、廊下をきょろきょろと見渡してから零れる様に笑った。

「エミルさん、おはようございます」
「おはよう、ジェイド」

誰かに見られていないかを確認してから、自分にだけ見せてくれる素の表情が愛おしい。
何時もは朝一でミステリーショップに足を運んで挨拶をしていたけれど、こうして寮内で挨拶できるのは学生同士という立場だからこその特権だろう。

「それにしても、何時もより早いですね」
「今日は……特別な日ですからね」
「そう言ってもらえるの、何だか嬉しいですね。初めこそはどうしてオクタヴィネル寮の制服なのかって驚いたというか、ジェイドの仕業ですかと思いましたけど……馴染んだ頃に着なくなるなって」
「僕の仕業なんて、とんでもない」
「……学園長がジェイド・リーチ君が慈悲の精神で面倒を見るって申し出たって言ってたんですからね」
「おや、バレましたか」

しかし、彼女の口調は怒っているという訳でも、呆れている訳でもなく、少し弾んでいるように聞こえた。
彼女にとっても、この日々が楽しかったのだろう。

──しかし、彼女の言動からして、このまま学生生活を再開したいと思っている訳ではないと感じられた。
勿論、この二週間は彼女にとっても楽しい日々だったが、商人を辞めて、普通の学生生活を謳歌するのは、彼女の生き方とまた少し違うのだ。

「もう少ししたら、行きましょうか。フロイドを置いて行くと人でなしと言われそうですし」
「ふふ、フロイド君のお陰で学生生活がより一層楽しかったような気がします。……時々強引に拉致されましたけど」

それはフロイドなりに、彼女を気に入っているという証拠でもあった。
案の定、20分後に欠伸をしながら廊下にでてきたフロイドは「おっはよ〜ハマシギちゃんー今日で最後とか早過ぎねぇ?」と不満そうに文句を言うのだから、本当に素直な性格をしているものだ。

こうして朝、一緒に登校できるのも最後で。
メインストリートから見える太陽が、何時もよりも遠くに感じられた。

彼女の体験入学が最終日であることを認識している生徒は多く、彼女が自分と共に教室に入った瞬間に、ざわめきが広がる。
何時もなら自分が隣に居れば寄ってこない男子生徒も寄ってくるのは、最終日だからだろう。

「エミルちゃん今日までか〜」
「あー残念過ぎるぜ……もっと長く居てくれていいのに。というか編入してくれていいのに」
「ふふ、ありがとうございます。私も残念ですけどミステリーショップでの日々も同じ位大切ですから。今日は思いっきり楽しもうと思います」

彼女のまるで本音を言っているように聞こえる嘘も相変わらず。
客人ではない生徒に対しては、こうしてただのミステリーショップのアルバイトを装おうのが板に着いている。
最終日で「君が楽しんでくれたのなら何よりだよ」と声をかけるリドル・ローズハートに対しても、笑顔でアルバイトのフリをするのだから、エミルさんらしさ、というのは変わらない。

一コマ一コマの授業が終わっていくのが、まるでタイムリミットを刻まれているようで。
授業も、面白いと思った話以外はあまり頭に入って来なかった。
昼食時間に群がられる前に、アズールを無理やり連れてきて教室に遊びに来たフロイドも連れて、大食堂へと足を運ぶ。
席を取って、AランチかBランチで悩んでいた時「エミルか?」と声をかけられて振り返ると、ハーツラビュル寮の三年生の二人だった。

「やほやほ、エミルちゃんー、って随分濃いキャラと一緒だね……」
「僕はフロイドに連れて来られただけですけど」
「またまた、アズールも『今日が最後か』って言ってたじゃんー」
「そ、それは事実だろう」
「あぁ、そういえば最終日だったか。お疲れ、エミル」

ケイト・ダイヤモンドとトレイ・クローバー。
彼女の店の常連である二人が、通り過ぎる際に彼女に声をかけて、この二週間を労う。
二年生と三年生であれば、寮や部活で同じにならない限り、あまり会うことはないはずだが、声をかけてもらえるのは彼女の交流の賜物だろう。

「ふふ、お疲れさまでしたと言ってもらえるのはありがたいですね」
「あれ?エミルさん、最終日もなんだかんだオクタヴィネルと行動一緒にしてるんですね」
「どうも、ラギーさん。彼らには初日からお世話になってましたから」
「ふん、オクタヴィネルの連中を虫よけに使うとはな。相変わらず、随分したたかじゃねぇの」

丁度、二つのランチセットを手に、空いていた後ろの席に座りにきたのは、二年生のラギー・ブッチだった。
そして、彼にお駄賃を渡しながらランチを買わせたらしいレオナ・キングスカラーも居る。
特にラギーさんは、エミルさんの店の常連で、基本的に物々交換を主に行っている彼女が、唯一対価として現金をお代として渡している相手だ。

「……何ならレオナさんが面倒を見てくださってもよかったんですよ」
「冗談はやめろ。お前の世話なんて勘弁だ」
「おや、オクタヴィネル副寮長ではなく、サバナクローの寮長を所望するなんて、エミルさんにフラれてしまいました」
「あはは、ジェイドフラれてやんのー」
「……君らやっぱり気が合ってるッスよね?そうだエミルさん、明日からバイト再開してくださいッスよ」
「予約が早いですねラギーさん。お任せください」
「だから素材をやたらと持ってたのか。抜かりねぇな、ラギー」
「シシシ、エミルさんの店が混む前にやることはやっておかないと」

彼女の客人は、一癖も二癖もある生徒が多い。
それは漏れなく自分達も当てはまることではあるのだが、ここまでの生徒が彼女の学園生活にほどほどの関心を持っているのは、特別なことだった。

──昼食を取り終わり、フロイドやアズールと別れて教室に戻っている途中。
同じく三年生の教室に向かっている途中だったらしいポムフィオーレ寮の寮長と副寮長が彼女の姿を見かけて、足を止めた。

「エミル、今日で終わりだったかしら?」
「こんにちは、ヴィルさん、ルークさん」
「お疲れ様だったね。植物園とかにも自由に入れるようになった訳だ。流石、グラソン・マルシャン」
「……アンタ、今回の体験入学は単に学生経験をしたかった訳じゃなくて、商人としての目的だった訳ね」
「バレましたか。い、一応学園長との正式な契約なので……」
「自分の目標の為に時間を無駄にせず、チャンスを掴みに行く姿勢は相変わらず嫌いじゃないわ。ジェイドが横に居ても何てことなさそうな所は相変わらずの肝の座りようね」
「ふふ、僕は普通にエミルさんの二週間の学園生活をサポートさせて頂いていただけですが」
「ムシュー・確信犯らしい言葉だ!」

自分にも、他人にも厳しいヴィル・シェーンハイトに純粋にそう評価される人も珍しいだろう。
だからと言って彼女が八方美人であるという訳ではない。
単に、彼女は店主として飾らず、かつ親しみやすさと隙のなさを忘れずに自然体で居るだけ。
それはミスター・リズベットの店を営む、エミルという少女の人徳でもあるのだろう。

一体次はどの寮生が彼女に声をかけてくるんだろうかと思いながら、一日の授業が終わるチャイムが鳴ってしまった後。
多くの生徒が「エミルちゃん、今度ミステリーショップに行くな!」だとか「お疲れ様。また来てくれていいからな」だとか声をかけて、下校していく。
その会話が聞こえてきたのか、廊下を歩いていた二人の一年生が「エミルさーん!」と声をかけてくる。

「エースさん、デュースさん」
「そっか、周りの生徒も言ってるけどエミルさん、今日でミステリーショップに戻るのか」
「そっちの方がやっぱり見慣れてるような、ちょっと残念なような。エミルさんが居なかった間に誤発注したサムさん、タイムセールで生徒が押し寄せてきて大変そうだったもんなぁ」
「サムさんまた誤発注してましたね……お二人とも、先日はどうもありがとうございました」
「いえ!また今度、トレイ先輩のケーキを用意して何でもない日のお茶会じゃないですけど、オンボロ寮でホームパーティしましょう!」
「そうだな。別にエミルさんがNRCを出てくって訳じゃねーし、何ならオンボロ寮に倉庫まで借りてるし、何時だって来られますね」
「ふふ、ありがとうございます」

一度はアズールの契約でモストロ・ラウンジに来ていたハーツラビュルの一年生二人。
一年生で彼女の客人である生徒はまだそう居ないはずだが、二人が客人だったからこそ、アズールも出し抜かれたのだろう。

しかし、今の話で気になる点が一つあった。
確かに、彼女は一日だけオンボロ寮に倉庫を借りていることもあって、監督生さんにホームパーティのようなものを開いてもらった日があった。

「その際に、トレイさんのケーキを召し上がってたんですか?」
「えっ、そ、それは……折角ならご馳走すると言ってくださったので……トレイさんのケーキ、絶品ですし……」
「確かに彼の腕前はプロ並みですが、何だか浮気をされているような気分で寂しいですね」
「何でです!?」

同じ料理をする身としては、どうせなら、自分の作ったケーキを美味しいと言ってもらいたいものだろう。
今度、モストロ・ラウンジで新作を披露しなくては。

「おや……?」

遠くから感じた視線に、ふと顔を上げる。

二階の遠くの窓から、校舎一階に居るエミルさんを見る視線は、マレウス・ドラコニアとリリア・ヴァンルージュだ。
彼等の視線に気づいたのか、学園内でも近寄りがたいという印象を持たれている二人に対しても他の人への接し方と変わらず、彼女は手を振り、彼らも微笑む。
自分たちを頼るよりも前に、一年前から絶対零度の体温を相談していた相手であることを考えると、その仲も納得できるのだが。


──その交流の広さを一日目の当たりにして、彼女という商人の凄さを再確認する。
この学園の生徒は、個が突出している所があり、言い換えれば仲間意識を優先するよりも、我が強い。
まっすぐオクタヴィネル寮に戻るわけでもなく、彼女を連れて校舎内の人が居ない通路に入る。
彼女が多くの生徒に慕われているのは分かっている。だが、今だけは二人で話をしたかった。

「ジェイド?」
「いえ……今日一日改めて見ていて、随分と多くの方に慕われているなと思いまして」
「……単なる店主とお客様でないように映るのなら、嬉しいですね」

噛みしめる様に「嬉しい」と呟いた彼女の表情に、それが薄い氷の下に本音を隠した商人としてではなく、エミル・リズベットという少女の素の言葉であることを実感した。
自分にもそうであったように、彼女は常に一線を引こうとする所があった。
だが、今回の学園生活を過ごすにつれて、その心境に少しの変化が現れたのだろう。

「──寂しいですか?」
「ううん。楽しかったけど、私は商人としての日々を選びます。やっぱり、私はミスター・リズベットだから」

迷いのない言葉だった。

ただの学生という、経験できなかった時間を過ごした上で、その結論に改めて至った。
彼女の決してぶれない生き方は、素直に、敬意を覚える。
自分のやりたいことを見失わず、誇りを持って生きているのだ。

「でも、そういう道を選んだからこそ、友人が出来たのかもしれませんね」
「それだけではないでしょう?」
「え?」
「エミルさんが商人としてここに来たから、恋人になれたのですから」

ひゅうっと息をのんだ彼女の頬が、林檎のようにゆっくりと色づいていく。

彼女がこの学園を選んでいなければ、自分も番を見つけることは出来なかっただろう。
見つけようとも思っていなかった相手に出会ったのは、彼女がミスター・リズベットとして人生を歩み始めたからだ。

頬に手を触れると、その赤さとは反比例して、氷を触っているような冷たさだ。
その体温が心地よくて、唇に親指を添えて。
唇に齧り付くように、口づける。

零れる吐息は冬ではないのに白く、冷たい空気だ。

「……明日から、僕もミステリーショップに行っても?」
「……、喜んで」

背中に回された腕から伝わる体温を感じながら微笑む。

何時でもモストロ・ラウンジやオクタヴィネル寮に来られるように、特注の寮服などは捨てさせないようにしようという自分に都合のいい打算的なことは考えながらも。
彼女のたった二週間の学園生活を共に出来た日々を、記憶に焼き付けるのだった。
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