「私は帰ってこれたからいいんですけど、松平さんは帰らないと」 「方法は?」 「さあ…私も分かりません」 二人はソファに並んで、コーヒーを啜った。 「ところで、これ外してもらえません?私が犯罪者じゃないのは分かってもらえたでしょ?」 「悪いな、こりゃァさっきの部下のなんだ。鍵もあいつが持ってる」 「……」 飄々と、今日は手錠忘れてなと言う松平に返事をする気も失せる。意外と重いそれは、手首を痛め始めている。 「こっち…いや、俺の世界には、船に乗ってて、寝て起きたらっつったよなァ」 「船じゃないんですけど、まあそうですね」 「で、今回は車から落ちて、と」 「そうですね」 「…じゃあもっかいどっかから――」 「いや、そしたら私もあっちに行っちゃうじゃないですか。それは困ります、また戻れるとは限らないですし」 「じゃあ一緒に来なきゃいいじゃねェか」 「だから!鍵がないんでしょ!?」 「アー」 忘れてたと笑う松平に、奏は苛々と溜息を吐いた。真面目に考えているのか定かではない。 「オジサン腹減ったな〜」 「……何かあるか見るから、来てください」 奏がいつもより苛々するのは、腹が空いているせいもあるかもしれない。二人は小さな冷蔵庫の前にしゃがみ込み、メニューを決めるとキッチンに立った。 「私やるんで、待ってくださいね」 「おー、料理できんのか」 「まあ、一人暮らしですからそれなりには」 「俺娘がいるんだけどさァ、もうすっげェ可愛いの、料理なんてできるようになってほしくねぇなァ」 「なんでですか?」 急にだらしなく目尻の下がった松平に、奏は急に親近感を持った。こんな見た目と中身の男でも、父親なのだという。 「そしたら嬢ちゃんみてーに一人暮らしなんて言い出してさァ、栗子ちゃん優しいからさァ、その優しさに付け込むクソガキが――」 「松平さん」 「んァ?」 「想像でそんな恐ろしい顔しないでください。大丈夫ですよ、松平さんの娘さんなら」 早々にこの話を切り上げたくなり、適当なことを言って微笑む。松平はまんまと奏の考え通りに機嫌を良くし、冷奴用の小さな豆腐を小鉢に開けた。 05.片道切符 「あー食った食った。ごちそーさん」 「いえいえ」 「食ったら出したくなるなァ」 「はー…い?え?」 「ちょっと便所」 「ちょ、ちょ、ま、待って下さい!我慢して下さいよ!」 「アァ?無理だ無理無理!この歳になったら我慢なんてしても出るんだよ!漏らされてーのかァ!?」 奏は更に青くなり、トイレに行こうと立ち上がる松平の腕を引っ張った。 「どっちも嫌です、嫌ですって!」 「こっちだって嫌なもんは嫌なんだよ!この歳になって漏らしてたまるかってんだよ!」 「そんな、わ、ぎゃ」 「うおっ」 ガシャン 「いっ…もう、痛いじゃ…ない、です…か」 「あん?こりゃあ…」 「!?も、もう…!松平さんの馬鹿!!!だから言ったのに!」 ソファから転げ落ちた奏と、それに引っ張られるようにして後ろに倒れた松平は、気付けば先程までいた車内に移動していた。完全に怒った奏に、松平もいささか申し訳なさそうに、悪いと顔をしかめた。 「あれ、どこ行ってたんですか?探したんですよ」 「あ?アー…おい、手錠の鍵寄越せ」 奏が元居た世界では時間は経っていなかったというのに、こちらの世界での時間は経過しているようだ。 渡された鍵によって、二人の手首がやっと解放された。 「重かった…あ、赤くなってるし…」 「悪ィって、な?」 「もういいです…」 なぜか打ち解けた様子の二人に部下は混乱したが、奏を捕らえないということはかろうじて理解できた。ただし、理由を聞くのはやめておいた。松平に常識は求められない。訳の分からない理由を言われても、困るのは自分だからだ。外された手錠を返されると、ちょっと話をするからと、部下は車から追い出された。 「どうするんだ?」 「んー…。とりあえず落ちてみるとか」 「ま、だなァ」 「まあ…正直迷惑被りましたけど、お世話になりました」 「…悪かったな、なんか。達者でな」 「はい。…では」 奏はドアをいた。自分から痛い目に合おうとするのは怖いものだが仕方がない。奏は覚悟を決めると、ぎゅっと目を閉じ、コロンと転がるように、車内から通りへ身を投げ出した。 ゴン 「いっ…!……」 「……」 側頭部を強打した痛みはこの際どうでもいい。帰ってこれたのか。そろそろと目を開けると、目の前にはつい一瞬前まで座っていた車と、上方に渋い顔をした松平。 「戻ってないですね」 「ない、なァ…」 「…もう一回」 「おう……」 それから何度となく、多種多様なパターンで落ちたり転けたりしてみるものの、奏は消えなかった。通りを行き交う人の好機の目と、変人を見るような部下の目、そしてそろそろ限界になってきた体の痛みに、とりあえずフルスモークの車内に身を隠す。 「ど、どうしよう」 「……」 「戻れない…」 「……アァ」 「……なんででしょう」 「…なんでかねェ…」 「……」 「……」 暫しの無言が車内を満たした。奏も松平も帰れない理由を考えるが、そんなことは分かる訳がないのだ。 「…しょうがないんで、行きます」 「あん?どこ行くんだ」 「少しの間泊めてくれるところ見付けてて」 桂の紹介ということは黙っておいた。言ってしまえばまた揉めるかもしれないし、坂田も困るだろうと判断してだ。桂が追われている身だということは何とか理解したが、きっと誤解があるのだろうと思うことにした。桂も、その友人の坂田も、とてもそんな風な人間には見えなかったからだ。 「なんなら、俺がこっちで面倒見るぞ。責任もあるしなァ」 「んー、いや…大丈夫です。そのうち帰れるでしょうし」 「そうか?娘一人増えるのもいいと思ったんだけどねェ」 「はは…ありがとうございます」 「…じゃあまあ…今度こそ達者でな」 「…松平さんも。では、」 葬式のような雰囲気の中、奏は車を降りて元来た道を歩き出した。不意に首を傾げる。 「何か忘れてるような…」 12/06/30 top>main>ag series>kazahana>kazahana text |