血の通った誰かであれば



 今から約六千年前、人間の世界に神が存在し、神から祝福を受けた人間は魔法が使えたらしい。魔法が使える人間の顔には線状の痣が浮かび、その本数により魔力量を測ることが出来たそうだ。しかし度重なる人間同士の争いの所為で神はお怒りになり、人間の世界から姿を消した。その結果、人間たちは魔法を使えなくなり現在の世界へと道が続いている。当然、現在魔法を使える人間はいない。
「あった、これだ」
 両手で抱えるほどの大きさの本を開き、ドットと二人で覗き込む。貸出禁止の書籍であるため、図書室で読むしかなかった。
 かつての神代を描いた事典のようなものだ。どこからどこまでが本当の話かは知らないが、過去に魔法が使えたということに関してに限れば数百年前に証明されていることだった。
「無邪気な淵源による世界破滅の危機を救った大英雄、マッシ」
「…その大英雄を殺そうとした罪に問われ、神から罰を下されたのが……」
「……悪魔、オーター」
「神話って全部嘘話かと思ってたけど…」
 ランスとドットは二人頭を抱えて顔を見合わせる。両者とも左手の薬指にはどれだけ引っ張っても取れないシルバーリングがきらりと光っていた。
 昨日のことを思い出す。ドットが謎の男に連れていかれた後、数分後に再びアレがランスの前に姿を現した。そして悪魔の懸賞に当たったので願い事を叶える権利があるなどと言われ、数時間の問答の末に半分以上無理やり契約書にサインする羽目になったのだった。
「大体お前が召喚の儀式なんてやるからあんな厄介なのが来たんだろう」
「はぁ!? オレじゃなくてクラスの連中! オレはたまたま見てただけですぅ! お前こそ何悪魔の懸賞に応募してんだバーカ!」
「した覚えはない。するわけないだろう」
 結局ドットもランスも巻き込まれ事故だったというわけだ。それなのにあの悪魔の融通が利かないせいで被害を被っている。
 何か他に有益な情報が載っていないかとページをめくり、続きを読む。しかし悪魔・オーターがどれほど残虐で悪辣かを示すような物語しか載っていない。悪役なんだから倒し方くらい載っていないとおかしいだろうに、そんなものは一つも見当たらなかった。要するに神話の中でも倒せなくて、現在もあなたのすぐそばにっていうオチだ。それではい終わりとできるなら他人事で済むだろうが、今付き纏われている相手がその悪魔の可能性がある以上、神話を恨むしかなかった。
「……お前は何を願ったんだ」
「オレは…えっと……一緒に暮らす〜みたいな?」
「危機感が無さすぎる。マヌケ。あほか」
「じゃあオメーはなんなんだよ!?」
「邪魔をするなと願った。というかそれしか受理されなかった」
「似たようなもんじゃねぇか」
「何もされていない今の早いうちにアレをどうにかして消す方法を考えるぞ」
 今はまだ無害だが、人間でない存在である以上いつ豹変するか分からない。何か事が起きる前にどうにかして対処しなければならない。改めて意思を確認し、ドットと頷き合う。
 刹那、正面で本のページをめくる小さな音がした。時間が止まったような気がして、宙で握りしめた手が固まる。
 おかしい。この席に座った時、正面に誰もいなかったはずだ。それから誰かが来た気配も今の今まで無かったはず。
 まるで壊れたロボットのようにぎこちなく首を動かし、正面を見る。元凶の男が、そこにはいた。最初からそこにいたかのように悠々と本を読んでいる。その視線は手元の本から外れることは無かった。
「気にせず続けろ。邪魔はしない」
 気付いたら椅子を蹴飛ばし走っていた。ドットの手を握り締め、図書室を飛び出してただひたすらに逃げる。嫌な汗が背中に滲むのを感じながら、とにかく走った。
「いいいいいつからいたんだよ!?」
「知るか。お前に着いてきたんだろう」
「オレだって知らねぇよ!」
 汗だくになりながらも中庭にまで逃げ込み、二人でベンチになだれる。肩で息をしながらどうにか呼吸を整えていると、ふとドットの襟元から覗いた妙な模様が目についた。首筋のあたり、黒い何かが張り付いて見える。襟を掴んで引き寄せると、ドットはグエと声を上げてランスの膝に倒れこんだ。
「何してんだテメェは!」
「この首の痣はなんだ。タトゥーでも入れたのか」
「はぁ?」
 ドットは怪訝そうな顔で自身の首元をペタペタと触り、ハッと何かを思い出して顔を青ざめる。さぁと血の気が引いて、表情が消えていく。
「おい、なにがあった」
「き…昨日、噛まれた……」
「噛まれた? 何に」
「あ、……あ、悪魔に……」
 オレもう死ぬのかも、と顔を押さえて項垂れるドットをそっと抱きしめ、改めて首筋の痣をじっと観察する。縦長のバツ印の上下に蓋をするような横線が一本ずつ入っている。線で囲われた三角形の中は半分くらい黒く塗りつぶされていた。どこかで見たことがある図形だ。
「……砂時計」
「は?」
「…聞きに行こう、悪魔のところへ」


悪魔の殺し方 2.血の通った誰かであれば


 夕暮れの廊下を二人で歩く。下校時刻を過ぎた所為でほとんど生徒はいなかった。遠くの方からは部活動の片付けをしている声が薄っすらと聞こえる。ランスも早く帰って愛しい妹に会いたかったが、隣で死にそうな顔をして首を押さえている友人を放っておくわけにはいかなかった。
 幸い図書室の鍵は開いている。というかきっとあの悪魔が開けたまま中にいるのだろう。ノックをせずにゆっくりと扉を開ける。昼間の熱など無かったかのようにしんとして静かで冷たい図書室の中、悪魔は先ほどと同じ場所に同じ姿勢で座っていた。人形みたいだと一瞬錯覚したが、ページをめくる動作で思い直す。アレが人形であればそれほど楽なことは無かったろうに。
「…こいつに何をしたんだ」
「……」
「この砂時計の痣、砂が落ちきったらこいつはどうなる」
「私の魔力を分け与えた。その砂が落ちきれば魔力が無くなる」
「魔力?」
 悪魔はこちらを見ようともしない。しかし本に興味があって目が離せないというわけでもない様子で、ただ機械的に文章を追っているだけに見えた。
「…オレ死ぬんすか」
 ドットが低く掠れた声でつぶやく。その目は虚ろながらも悪魔をじっと睨みつけていた。その言葉に、悪魔がようやく顔を上げる。眼鏡の奥で奇怪な瞳がドットを捉える。
「何故そうなる」
「噛まれたとこ、変なのついてるし……」
「分け与えた魔力は攻撃からの防衛にしか働かない」
「こうげき」
 悪魔はため息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。そしてしおりも挟まず本を閉じ、ドットへ一歩近づく。その手にはボールペンが握られていた。カチリと音がして芯が出る。そして徐に手を振り上げ、ドットの顔をめがけて躊躇い無く振り下ろした。
「うわッ」
 咄嗟に庇うが、突き刺さる衝撃は無い。目の前には砂でできた幕のような何かが宙に浮いて広がっている。その先にボールペンが刺さっているのが、うっすらと確認できた。まるでボールペンからドットを守っているようだ。
「このように外からの物理的な攻撃に反応して防衛するように組み込まれている。この時代に魔法を使う奴なんていないだろうから当分はこれで充分だろう」
 悪魔が手を離すと、砂の壁は消えて足元にボールペンが転がった。カラン、と小さな音だけが図書室に響く。
「どうしてこんなことを…」
「どうして? 死んでもらっては困るからだと言ったはずだが」
「悪魔の言うことなんて信じられない」
「…嘘は吐かない。吐けないようになっている」
「吐けない?」
「それがお前たちの言う『神からの罰』なんだろう」
 ほんの微かに声のトーンが沈んだように聞こえたのは気のせいだろうか。しかし如何せん表情が一切変わらないものだからその中にある感情が読めない。
「…あの神話が本当で、アンタが本物のオーターなら、どうしてこんなところに…」
「昔のことはあまり覚えていない」
「悪魔のくせに人間みたいな物忘れするんだな」
「…元々不老不死に適した器ではないのだよ」
 長いため息。動作も表情も全て人間じゃないみたいなのに、ため息を吐く時だけはただの青年みたいだ。なぜだろう、いつか、どこかで、これに似たような誰かを見たような気がする。
 じっと見つめていると目が合った。気まずくなって目を逸らす。悪魔のくせに真っ直ぐに見つめる虚ろな瞳。あの目に見つめられるとどうにも言葉に詰まる。
「…もう帰る。絶対ついてこないでくれ」
 ドットの手を掴み、図書室を出る。振り返らずに廊下を歩く。夕日が眩しくて、頭がずきずきと痛みを訴えた。

 家に着いて、洗面所で手を洗っている最中に気付いた。また肩に何か乗っている。具体的には砂でできた小鳥だ。げ、と声を上げ、指先でつつくと鳥は嬉しそうにピィと鳴いてランスの指にすり寄る。どうせあの悪魔が作って寄越したものだろうが、妙に可愛らしくて腹立たしい。
「お姉ちゃん、それ小鳥さん?」
「っ、アンナ…」
 いつの間にか隣に現れた妹が、ランスの手元を覗き込む。咄嗟に握って隠そうとするが、鳥は器用に逃れてアンナの方へと跳ねていく。
「っおい」
「不思議な鳥さん。可愛いね」
「危ないからあまり触るな」
「どうして? この子とっても優しいよ」
「優しい?」
 まるで天使のように愛らしく尊い妹は、首を傾げて小鳥に指を差し出す。指先を振って誘ってやると、小鳥は素直に近づいてアンナの指に頬を寄せた。毛なんてあるわけないのに、ふわりと指に触れているように見えた。
「とがってるくちばしじゃなくてふわふわの羽で触ってくれるの」
「……そうか」
 尊いだけでなく賢く聡いなんて、どう考えても完璧すぎる存在だ。小鳥と戯れている姿も実に愛らしい。スマホを向け「写真を撮ってもいいか」と尋ねると、彼女は鳥を手に乗せ、可愛らしく微笑んだ。また最高の一枚が生まれてしまった。

 写真を何度も何度も眺めながら部屋に戻り、小鳥を勉強机に下ろす。ピィと鳴いてこちらに寄って来ようとするのをそっと端によけ、古学の資料集を棚から取り出した。結局図書室ではあの悪魔に邪魔されてろくに読めなかったため、今集められる情報をとにかく漁るしかない。
 神が人間の世界にあられた時代、神代のことについては、あまり授業では取り扱わない。歴史の序論としてどのように人類が生まれたかを説明するくだりで触れるくらいだ。だから教科書には数文しか載っていないし、資料集にも要約くらいしかない。ドットと一緒に読んだ本には載っていたが、資料集にはオーターの名前すらなかった。
『あの人の名前、オーター・マドルっていうんだってさ』
 昼間ドットと交わした会話を思い出す。図書室へ行く途中、何か知っていることは無いのかと問うたその答えだ。
『オーター、マドル? いや、確か悪魔の名前は、オーターだけだった気が…』
『でも本人が言ってんだもんよ。そうなんじゃねぇの』
『……マドル…』
 どこかで聞いたことがある響きだ。いや、そもそもあの男自体、どこかで見たことがあるような気がする。教科書じゃない。資料集でもない。写真でも、街中でもない、すぐ近くであの顔を。
「…オーター・マドル……」
 机に肘をつき、目を閉じる。しかし何も思い浮かばない。漠然としたデジャブだけが頭をざわつかせる。小鳥がピィと鳴き、小さく羽ばたいた。
 パチリ、と目を開ける。手元が暗い。はて、と顔を上げると、真横に悪魔が立っていた。腕を組んでランスをじっと見つめている。
「ッ!?」
 思わず椅子から滑り落ち、床に尻もちをつく。あまり大きな音は立たなかったのが不幸中の幸いだ。もし隣の部屋まで聞こえていればアンナが心配して見に来てこの悪魔と顔を合わせてしまうかもしれない。それだけはあってはならないことだ。
「なんなんだいきなり」
「呼ばれたから来ただけだ。用件はなんだ」
「呼んでない」
「そうか」
「……いや、一つ聞きたいことが…」
 砂に包まれ消えかけていた悪魔を引き留め、立ち上がる。帰ってから着たままだった制服のスカートのしわを叩いて直し、一度息を吸い込んだ。
 見た目はただの男なのに、妙に威圧感がある佇まいだ。あの目か、あの表情か、とにかく彼の全てに圧がある。ランスは気圧されかけている自分を誤魔化すように腕を組んで悪魔を見上げた。
「なぜオレとドットなんだ。悪魔に目を付けられるようなことはしていないのに」
「……」
 悪魔は黙ったままベストの内ポケットに手を入れる。そしてそこから見覚えのある黒いはがき大の紙が顔を覗かせた。あの時見せられた『ランスが応募したらしい悪魔の懸賞はがき』だ。悪魔に付き纏われる羽目になった身に覚えのない原因。
「違う。違う違う。待て、はがきを出すな。オレはそんなもの応募してない。そういう意味じゃなくて」
「ではなんだ」
「……だから、どうして、」
 言葉に詰まる。適切な言葉が思い浮かばない。
 ドットが召喚したのに応じただけ。ランスが応募したのに当たっただけ。たったそれだけで。それだけでこんなことをするのにどうして違和感を覚えるのだろう。
 知らない誰かがランスを呼ぶ。頭が痛い。これは一体、
「思い出してくれるな」
 額に軽い衝撃が走る。目の前でパチンと白い火花が散り、身体から力が抜けた。その場に崩れ、悪魔の腕の中に落ちる。今まで考えていたことが白の中に消えていく。何を思い出そうとしていたんだっけ。何を、誰を、見ようとしていたんだっけ。
 意識も視界も朦朧とする中、オーターの声が微かに聞こえた。
「これだから人間はやりにくい」
 悪魔のくせに、優しくて、悲しい声だった。


prev index next
- ナノ -