良心の欠片も無い



 昨日クラスの連中が悪魔召喚なる儀式をしているのを見てしまった。床に魔法陣を描いて、供物を置いて、胡散臭い魔導書片手に意味のない呪文を唱えると悪魔が来てくれるらしい。そんな馬鹿みたいなことがあるかよ、とドットは遠巻きに見ていた。勘違いしないでほしいのは、あくまで見ていただけであり参加していたわけではないということ。たまたま忘れ物を取りに戻ったら教室でクラスのオタクどもが集まってやっていて、教室の扉を閉めろと騒がれたから出られなくなってしまっただけだ。

「私を喚んだのはあなたですか」

 なのに何故、オタクどものところではなくドットの目の前に悪魔が現れるのか。
 今から明日の課題を終わらせるところだったのに。部屋の中心に立つ悪魔を見上げ「この世の終わりだ…」と呟いた。頭に生えた角、背中を覆う黒い羽、顔には目の下から線状の痣が伸びている。いかにも悪魔な見た目をしているその男はドットを見下ろし、首を傾げる。
 顔は綺麗なのに瞳は冷ややかで底知れない暗闇を感じる。悪魔は長身痩躯な身体を折り曲げ、ドットの前に跪く。眼鏡越しにどろりと溶けた飴色の瞳がこちらをじっと覗き込んだ。悪魔でも眼鏡とか掛けるんだ、と場違いなことを考え現実逃避を試みる。しかし目の前の現実はどうにも消えてくれる気配がない。
「私を、喚んだのは、あなたか?」
「いえ…オレはなんも知らないです…」
「そうか。しかしそんなことはどうでもいい。実際あなたに喚ばれてきたのだから」
 じゃあ訊くなよ。唇をかみしめ再度現実逃避をしてみたが、やはり悪魔はそこにいる。消えないどころかドットの顎を掴み、ジロジロと観察して何かを探そうとしているようだった。
「オレ食べても美味くないですけどぉ…」
「確かに美味しくはないでしょうが測らねば代償を決められない」
「悪魔みてぇなこと言うじゃん!」
「自分で喚んだものくらい覚えていなさい」
 測量し終えたのか顎を掴んでいた手が離れ、解放される。心なしか顎の骨が歪んだ気がする。頬をさすりながらめそめそと泣くドットを気にも留めず、悪魔は自身の説明をし出した。
「叶えられる願いは三つまで。それぞれに代償が伴い、それを支払うのはあなたです。つまりあなたが支払うことのできないほど大きな代償が必要な願いを叶えることはできない。代償がなんなのか、いつ支払うのか、決めるのは私です。契約してからのクーリングオフは効きませんので悪しからず。消費者庁に逃げ込んだとて結果は同じですので」
「……クーリングオフとかいう概念あるんだぁ…」
「過去何度か同じ質問をいただいたので事前に申し伝えます」
 悪魔はどこからか出した書類を一枚差し出した。反射的に受け取ってしまい、書面に視線を落とす。契約の詳細について事細かに書かれた書類だ。悪魔のくせにそこらへんはきっちりとしているらしい。過去顧客とのトラブルでもあったのだろうか。
「……あの、帰って欲しいんですけど」
「それが願いでいいですか」
「願いっつーか、まあ、ハイ」
「右足一本」
「え」
「即日支払いで今すぐ帰りましょう」
「え!? 今なんつった!?」
「あなたの右足一本、この場で私に差し出せるのならその願いを叶えましょう」
 悪魔の手がドットの右足を掴む。太ももに指がぐいと食い込み、本能的に引きちぎられる、と思った。ヒッと喉の奥で空気の抜ける音がする。足を引っ張ろうとしても掴む手の力が強くてぴくりとも動かない。
「ッ、あっ、やめまーす。その願い事やめときます!」
「そうですか」
「あのちなみに参考までに聞きたいんすけど、マジでほんとにただ帰ってもらうことってのはできない感じですかね?」
「できません」
「あっはい」
 掴まれて赤黒く痣になった腿を撫でながら肩を落とす。なんでこの悪魔さんはドットに喚ばれたと思ってきてしまったのだろう。召喚の儀式を行っていたのはクラスの悪魔崇拝者たちなのに。あの連中であれば代償だって喜んで差し出しただろうに。
「……あのー、もう一個、お願い事の例とか、教えてもらいたいんすけど……」
「例」
「なにがどういう代償必要なのかよく分かんないんで…」
「……」
「え、教えてもらうのも代償必要?」
「いいえ。例えば億万長者、具体的には一生遊んでも金が尽きない状態が欲しいという願いであれば寿命三十年分前払い。某国の軍事兵器を一度壊滅してほしいという願いであれば寿命五十年分後払い。想い人からの好意が欲しいという願いであれば視力を前払いで。人間を一人消してほしいという願いであれば、前頭葉を後払いで」
「前頭葉!? マジで相場が分かんねぇんだけど!?」
「あなた方人間とは価値観が違うので」
「気分悪くなるだけだった。訊くんじゃなかったぜ…」
 頭を抱え、悪魔と距離を取る。どう転んでも身体の一部か寿命を持っていかれそうだ。なるべく穏便にと考えるが、何かを失う恐怖が勝って思考が回らない。
「あ、あのぉ、何もしないってのは、どっすか」
「何もしないとは?」
「なんもしない。そこにいるだけ」
「それに何の意味が?」
「意味なんてねぇけど、叶えてもらいたいことなんてないし。一人暮らし始めたばっかだから同居人くらいいてもいいかなって、まあ…そんな感じで……ダメ?」
「……もう少し具体的に」
 悪魔が目を細め、じっとドットを見つめた。その威圧感にこくりと唾を飲み込み、回らない頭を必死に回転させる。なるべく穏便に、なるべく代償が少なさそうな願い事を。
「い、一緒に暮らす。ダチとか、家族とか、そんな感じで」
「期限を設定しなさい」
「キゲン? え、ああ、いつまでってこと? えぇ、お、オレが満足するまで?」
「であるなら代償は死後のあなたの魂を、後払いで」
「死後の、たましい」
 想像のつかない言葉に思考が止まる。悪魔の言ったことを繰り返すが、いまいちよく分からなかった。寿命でもなく、身体の一部でもなく、死後の魂。それを代償として支払うことで今のドットに何か影響があるのだろうか。
「…それなんか意味あるんすか」
 気付けば先ほどの悪魔と同じ質問をしていた。ハッとして口を押える。悪魔は何を考えているか分からない表情でふっと目を逸らした。まずいことを言ってしまったか。もしかして機嫌を損ねて代償を盛られてしまうか。
「あなた方人間とは価値観が違う」
「あっはい。その、代償払う時ってなんか痛かったりします?」
「痛みを感じるのは肉体であり魂ではない」
「ん? あぁ、痛くないってことか。ならまあ、いいのか…?」
「契約であればそこにサインを、フルネームで」
「はい……」
 先ほど渡された書類の一番下にボールペンで名前を書く。書き終えたと同時に紙に炎が灯り、焼き焦げて消えていった。残った灰すらも微かな光に包まれ跡形もなくなってしまった。
 悪魔は書類が燃えたのを確認すると、徐に自分の頭へ手を伸ばしそこに生える角を引っこ抜いた。まるでヘアピンでとめてあったかのように簡単に取れるものだから、つい声を上げるのを忘れて凝視してしまう。
「角は無い方がいいでしょう」
「……は、羽も無い方が、いいんじゃないすかね……」
「そうですか」
 机に置かれた仰々しい二本の角から目を逸らすことが出来ない。山羊の角みたいにごつごつとしていて興味深くはあるが、触れる勇気は出なかった。
 結構物理的なんだな…と場違いな感想を抱く。悪魔ってもっと指パッチン一つでなんでも消したり出したりできるのかと思っていた。背中の羽だってもうちょっとこう、着脱自由であればいいのに。
 バキバキと物騒な音がするのを聞こえないふりして、俯いたまま羽根が降りやむのをじっと待つ。鴉のような黒い羽根は床に落ちては消え、また新しいのが落ちては消えていく。
「これでいいですか」
 音が止み、顔を上げる。そこには先ほどまでの悪魔が実に人間らしい風貌で立っていた。しかし顔だけは人間味もなく無表情でこちらを見下ろしている。
「……お名前なんつーんすか」
「あなたが決めればいい」
「えぇ…あるでしょ、名前くらい……」
「真名を知りたいと」
「だって一緒に暮らしていくんだからその方がよくないすか」
「……オーター・マドル」
「おーたー、まどる」
 意外と普通の名前だ。口に出し、その響きを確かめる。どこかで聞いたことがあるような気がしないでもないが、今この瞬間に思い出そうとしてもパッと出てこなかった。
 首を捻っていると、不意に手元がばちりと眩しく光った。何事かと左手に目をやると、丁度左手の薬指に何かがあった。それが指輪だと気付くのに数秒。外してみようと引っ張ってみるが、なぜか皮膚とくっついているかのように抜けない。
「あのぉ、これなんすか」
「契約の証です」
「…違うところがいいんすけど…」
「何故?」
「ここ将来違う指輪はめる予約が入ってて」
「ではその時に外しましょう」
「いや今外してほしいんだけど…」
 この悪魔は左手の薬指にはめる指輪の意味を知らないのだろうか。それとも分かってやっているのか、その表情からは一切読めない。
 逃れられなかった状況とは言えど今日からこの男と暮らしていかなければならないのか。なんかすごい嫌だな。ギチギチと鳴る指輪を未だ懸命に外そうとしながらぼんやり考える。そんなことをしていたって目の前の悪魔は消えてくれなかった。


悪魔の殺し方 1.良心の欠片も無い


「そういえば先週から一人暮らし始めたって聞いたけど…」
 いつもの昼食、目の前でシュークリームを食べるクラスメイト・マッシュがふと思い出したように問う。何故昼飯の時間に初っ端からシュークリームを食べているのかという疑問は今更なのでさておき。どうやらドットがやけに凝った弁当を持参していることが気になっているようだった。
 先日悪魔もといオーターと暮らすようになってから弁当を作ってもらっている。栄養バランスも味も完璧に整えられていて、とてもドットが自分で作れるような代物ではない。しかし果たしてそれをどう説明したものか。同居中の男が、と言えば怪しまれるに違いない。しかし素直に言わなければ後々ぼろが出ることは分かり切っている。
「……ちょっと、同居人が、な」
「同居人。てっきり一人暮らしかと」
「オレもそのつもりだったんだけど、成り行きで…」
「へぇ。料理上手だね。シュークリームも上手なのかな」
「知らねぇけど上手なんじゃない」
 あの悪魔が甘いものを作っているところなど想像もできない。そもそもこの弁当だって本当にちゃんと作っているのか怪しい。悪魔的な力でポンと出しているだけかもしれないし。
「ドット君、それって後ろの眼鏡かけた人だったりする?」
「は?」
 マッシュが指さした方向を振り向く。ドットの真後ろに影が一つ。男はこちらを見下ろして眼鏡を押し上げた。その顔はまさしく今思い描いていた男のものだった。
 声にならない悲鳴を上げ、ベンチから崩れ落ちる。芝の上に尻もちをつき、拍子にスカートが捲れる。この前付けられた痣がまだ残っているのが露わになった。
 なぜこんなところに。どうやってこんなところに。
「な、なな、ななな」
「危険を察知したので来た」
「は、何を、」
 何を言っているんだ。そう言い切るより先に、視界の真ん中に何かが横切る。次いでガシャンと大きな音がしてついさっきまでドットが座っていた場所に何かが飛び散った。茶色い何か、それから色とりどりの、これは花びらだろうか。足元に転がった欠片をそっと手で掴み、それが植木鉢の破片だと分かった。
「シュークリームが……」
 マッシュが食べかけていたシュークリームが土に汚れる。怪我はしていないようだが、マッシュ自身も飛び散った土で汚れてしまったようだった。
「満足する前に死んでもらっては困る」
「は、え、え? オレ今死ぬとこだったの…?」
「このキノコ頭はなんだ。お前の友人か」
「友達です。よろしくお願いします、同居人さん」
 深々と頭を下げるマッシュに対して、オーターはそれ以上の関心を示さない。それどころかほんの少し不快に顔を歪めているようにも見えなくなかった。
 しかしそんなことよりも、今自分が死ぬところだったかもしれないという事実に脳みそを突き刺されてそれ以外のことを何も考えられなかった。オーターが来なければ、もっと言えばオーターと契約していなければ、いつも通りここで昼飯を食って上から落ちてきた植木鉢が脳天直撃して死んでいたのだろうか。
「顔が青い」
 いつの間にか目の前に跪いていたオーターがドットの頬に触れる。悪魔の手は血が通っていないのか冷たい。しかしドットの肌はそれ以上に冷たくなっていた。
「し、死ぬとこだった、ってマジすか?」
「そうだが?」
「えオレ死んでたの!?」
「死んではいない」
 冷静に返答をするオーターと目の前に不審者が現れたにも関わらず平然としているマッシュ。二人に囲まれて喚いているのはドットだけだ。おまけに腰が抜けて立ち上がれない。まるで足が自分の物ではなくなってしまったみたいに力が入らなかった。
 オーターは何の躊躇いもなくドットの身体を抱え上げた。足が宙に浮き、ローファーが脱げそうになる。
「ヒッ」
「マッシュ・バーンデッド」
「え…なんで名前を…」
「ランス・クラウンはどこにいる」
「貴様は誰だ」
 鋭く透き通ったランスの声。顔を上げると、数メートル先に遅れてやってきたランス、フィン、レモンの三人がいた。ランスは二人を庇うように前に立ち、オーターを睨みつける。
「何故オレの名前を知ってる」
「…やはりいたか」
 さぁと風が吹く。砂が舞い上がり、ランスの足元に渦を巻いた。砂の流れはそのままランスの身体を包みこむ。そして肩の上で小さな塊となって収束した。その砂の塊はまるで小さな鳥のような形を作り、ランスの肩に止まる。
「な、んだこれは…ッ」
 ランスは肩の砂を払おうとするが、いくら手で払っても砂は何度でも鳥の形を形成する。しまいにはピィと鳴くものだから、その手も一瞬止まってしまった。
「後で行く」
「はぁ?」
 さらさらと、オーターの身体が砂に代わって落ちていく。腕が、服が、ドットの体までも砂に溶けていく。思わず声を上げて暴れるが、オーターはこちらを見もせずに抱え直すだけだった。
「離ッ、」
次の瞬間、目の前の景色がパッと切り替わる。開放的な中庭にいたはずのドットの目の前に広がるのは、見慣れたいつもの部屋だった。シン、と静寂が広がり、身体が固まる。
 オーターはドットをベッドに寝かせると、淡々と自身も乗り上げる。あまりに自然な動作だったから、押し倒されていることに気付くまでほんの少し時間がかかった。こちらを見下ろすオーターを見上げ、目を見開く。
「い゛ッ、やめろ!」
 押し返そうとする手をすり抜け、オーターはドットの首筋に唇を寄せた。吐息が耳にかかり、全身に鳥肌が立つ。何故急に貞操の危機が訪れているのだろう。しかし抵抗しようにも身体が上手く動かない。
「やだ…ッ」
 肌を突き刺すじわりとした痛み。食われるか、犯されるか、助けも呼べないこの状況じゃどう転んでも人生おしまいだ。涙が滲む目を閉じ、ぐっと耐える。
 あの時教室に戻らなければこうはならなかったか。右足を素直に差し出していれば、まだこんな目に遭わなくて済んだだろうか。
「……?」
 人生を悔いて惜しむのはいいが、なぜかどれだけ経っても噛まれる以上の接触がない。恐る恐る目を開けると、もうとっくの昔にオーターはドットから離れていた。まるで何事も無かったかのようにシャツを整え、ネクタイを締め直している。
「とりあえずはこれでいい」
「……は?」
「少し外に出てくるからここで待っていろ」
「はぁ?」
 そう言ってオーターはドットの返事など待たず、砂に包まれ姿を消した。
 残された部屋で一人、ドットは虚空を見つめる。先ほど噛まれた肩のあたりをそっと触ってみるが、何の傷跡も残っていなかった。確かに噛まれたはずだ。肉がちぎれるような痛みがあったはずなのに。
 どっか行ったきり帰ってこなかったりしないかな。
 そんな淡い期待を抱き、再度ベットに身体を鎮める。天井へ手を伸ばし、左手の薬指に光る指輪を再度外せないかと試みた。


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