不覚にも


 不覚にも。そんな言葉が思い浮かんだのは、この状況を全く想定していなかったからだ。
 師としている男を好きになるなんて。絶対に笑ってくれないし、厳しいことばかり言うあの人を。けれどどんなに冷静に考えたって好きになってしまった事実は消えない。一度自覚したものは二度とまっさらだった時には戻れない。
 その姿を見るだけで鼓動が早まるし、目が合った時なんかは息が詰まって何も言えなくなる。これが恋じゃないというのなら、何だというんだ。
「お前がオーターさんを。はあ、そうか」
 ガリ、と飴を噛む音。先ほど賄賂として渡した高級なキャンディが遠慮もなく砕かれていく。小遣い半月分のキャンディだったがそれはいいとしよう。問題はランスの言葉だ。ドットがオーターを好きになってしまったことを告げたうえで、傍から見ていて脈があるのかないのか。
「興味ない」
「いや興味あるなしじゃねぇっつってんだろ話聞けやこのクソピアスが!」
「お前がオレの妹を恋愛対象にしない限りはどうでもいい」
「え? お前ん中でオレは敵かどうでもいいしかないわけ?」
 放っておくとすぐ妹の話題に舵を切り出す残念なイケメンは置いといて、ドットは再度頭を抱えた。
 好きになってしまったからにはあわよくば付き合いたい。手も繋いでみたいし、笑った顔も見てみたい。けれどそこまでの道筋がどうしても思い描けないのだ。そもそも普通に食事に誘う時でさえ仕事を理由に断られることが多いというのに。
「クソ! やっぱり記憶消すしかねぇのか…」
「どうしてそう極端なんだ…」
「ちょっと手あたり次第角に頭ぶつけてくるわ」
「待て待て待て待て」
 飛び出そうとしたところ、ランスにローブを掴まれ引き戻される。襟を巻き込んだせいで喉の奥からグエとカエルが潰れたような音が出た。
「何すんだテメェは!」
「普通にアプローチすればいいだろ、脈があろうがなかろうが」
「……」
「手順を踏め」
「…………アプローチ」
「そうだ」
「……って、何すりゃいいの?」
「はぁ?」

 不覚にも

 普段スカートを履かない。足を広げると怒られるし、動きにくいからだ。だから制服を買って以来、スカートはずっとしまい込んでいた。しかしどうやら履く必要があるらしい。やる気のないランス君子曰く、いつもと違う姿を見せることで意識してくれるかもしれないとのことだ。そんなバカなことがあるものかと半信半疑でスカートを履き、髪もバンダナをやめていつもと違うセットをしてみた。
「ど、どーも…」
 顔から火が出そうになるのを押さえながら、オーターの仕事部屋に顔を出す。丁度昼時、しかしオーターが昼ご飯を食べに行くにはまだ早い絶妙な時間。予想通り、オーターはまだ執務机に座って書類整理をしていた。
 眼鏡の奥、飴色の瞳がスッと動き、ドットの姿を捉える。しかしすぐに視線は手元に注がれ、一言「何の用だ」と言うだけだった。
 いつもと違う格好に何の反応も無し。心の中でランスを呪いながら執務机に近づいた。
「飯…ご、ご飯、食べに行きません?」
「しばらく暇はない。戻って他の奴と食え」
「……午後からの授業、休みなんで待ってていいすか」
 ペンの動きが止まる。コツ、と一度ペン先が机をたたく音がして、オーターがゆっくりと顔を上げた。何を考えているか分からない表情でドットを見つめる。怒ってはいないようだが、だからと言って歓迎しているわけでもない。視線を逸らしたら負けだと自分を奮い立たせて半ば睨み返すように見ていると、オーターは微かに顔を顰めてため息を吐いた。
「…好きにしろ」
「! どもっす」
 緊張から解放された身体は自然とスキップを踏み、部屋の中央に位置するソファへと向かった。いつもはランスと二人で座って本を読みながら待っているが、今日は一人だ。足を広げないよう意識しながら横目でオーターを観察する。
 当然、返事をしたきりオーターがこちらを見ることは無い。まるで最初からドットなどいなかったかのように淡々と仕事を進めていく。
 脈ありか、脈なしか。ランスに聞かなくても分かっていたことかもしれない。もし少しでも脈があれば、多少気を使ってくれたんじゃないか。そんなことばかりぐるぐると考える。
 将来オーターの隣にいる人物はどんな顔をしているのだろう。どんな姿をしているのだろう。もっと大人っぽくて所作が綺麗で落ち着きのある誰かだろうか。
 黙っていると嫌なことを考えてしまう。かと言って一人騒いでオーターに迷惑をかけるわけにもいかない。誤魔化すように昨日出された魔法数学の課題について考えることにした。目を瞑り、証明問題の道筋を一つ一つ組み立てていく。
 手順を踏め。そうすれば証明は完了する。本当に?

「起きろ」
 低い声の呼びかけで意識がパチンと弾ける。ハッと目を開けると、視界が九十度傾いていることに気付いた。頭にはふわりとしたクッション、それから柔らかなブランケットまで掛けられている。
「うわッ!?」
 勢いよく起き上がり、ここがオーターの仕事部屋だったことを思い出した。目の前の一人掛けソファにはオーターが足を組んで悠々と座っている。
 昼ご飯を一緒に食べるために待っていたのが、いつの間にか寝てしまっていたようだ。どれくらい寝ていたのかと壁掛け時計を見上げると、もう三時を回っていた。顔からさぁと血の気が引いていくのが分かる。自分から誘っておいて寝過ごしてしまうなんて馬鹿がすることだ。
「いや、あのオレ」
「今から飯を食っても仕方ない」
 そう言ってオーターが差し出したのはマドレーヌの乗った皿だった。
 顔に熱が集まるのが分かった。ここがオーターの部屋ではなく自分の部屋だったらこのまま泣き出してしまっただろう。恥ずかしさと悔しさを噛み締め、マドレーヌを一口かじる。
「…オーターさんもこのマドレーヌ好きなんすか?」
 ほんのりと蜂蜜の味がする。前に焼き菓子専門店で買ったのと同じ味だった。あまりに美味しくて気に入ったからオーターにも買って持って行ったことがあった。
「……菓子はあまり食べない」
「……」
 自分が好きなものをオーターも好きならいいのに。そんな淡い希望も簡単に打ち砕かれる。美味しかったはずのマドレーヌも急にもさもさとした感触が気になって、隣に置いてあった水で一気に飲み込んだ。
「…あの、明日も来ていいっすか」
「待っている間寝ないのならな」
「…気を付けます」
 結局見た目への言及は一切なし。食事も一緒に摂れず、挙句嫌味まで言われてしまった。
 初日のアプローチは完敗。しょんぼりとしながら寮へと戻る羽目になったのだった。



「もうあのスカシピアスは頼らんことにした」
「そ、そう…」
 あまりの情報量にキャパオーバーを起こしたマッシュと、あらゆるツッコミを飲み込んだ顔をしたフィン。二人を前にしてドットは潔く頭を下げる。
「頼む! どうしたらオーターさんに振り向いてもらえるかどうか教えてくれ!」
「ランス君を切り捨てたところまでは何とか飲み込んだけどなんで次が僕たちなの?!」
「そもそもオーターさんの事知ってるやつの方が少ねぇし…」
「だからと言って何故…」
 フィンは分かりやすく頭を抱えている。確かにフィンやマッシュではそういう経験に乏しいかもしれない。かと言って他に頼る相手がいるでもなく、こうして仕方なく頭を下げているのだ。藁にもすがる思いというわけだ。
「うーん……デート誘ってみる、とか?」
「フツーに断られた。未成年連れまわしたくないって」
「ウワ……そうじゃん相手成人男性じゃん……」
「そこは関係なくね?」
「あっちからしたら大きな問題だよ! もう毎日仕事場通うくらいしかなくない?」
「通ってっけどよぉ……」
 思い返したとて毎日毎日「昼飯一緒に食えるかガチャ」を回している自分しかいない。行った時すでにいなければハズレ。いたけど暇がないと言われ待つのはコモン。丁度昼飯に出るところに居合わせて流れに乗って一緒に行ければレア。ストレートに誘って受理されれば最高レアだ。今のところ勝率はお察しの通り。
「……ドット君が昼ご飯作って持っていけば?」
 キャパオーバーでショートを起こしていたマッシュが口を開く。
「え、オレ?」
「そしたら一緒に食べられるんじゃない?」
「……その手があったか!!!」
 あまりの名案に膝をパーカッションのように打ち付け、早速作りに行かねばと立ち上がる。思い立ったが吉日、善は急げだ。
「っていうか毎日通ってても追い返されない時点で脈ありなんじゃ……」
「マッシュ君、多分ドット君に聞こえてないと思う」

 普段料理をする方ではない、と思う。同室のランスが時々料理をするから手伝うけれど、自分から何かを作ることはあまりない。しかし別に苦手なわけではなく、並にできる方ではあると自負している。
 まあ最初は凝った料理じゃなくて簡単なものから。最初から手作り感満載な料理を持ってこられたとてオーターも困るだろう。だから手抜きなわけじゃなくて、シンプルなものを選んだだけだ。言い訳のように自分に言い聞かせながら、サンドウィッチの入った籠をオーターに差し出す。
「ひるめ、昼ご飯、一緒に食べませんか!」
「それは?」
 当然猜疑の目が籠に向けられる。じっと観察するように見つめられ、ひっこめたくなるのを押さえて蓋を開けた。中には二人分のサンドウィッチが詰められている。中身はレタスやトマト、ハム、たまごなどごく一般的なものだ。
「サンドウィッチ、作ってきたんで…」
「そうか。だったらそこに座って待ってろ」
 今日はどうやらストレート勝ちだ。頭の中を最高レア演出が駆け巡り、アドレナリンがドバドバと出てくるのを感じた。マッシュ・バーンデッドさんありがとう。両手を掲げて喜びたいのを我慢して、スキップ交じりにソファへ向かう。
「いくらかかった」
「…え?」
「作るのにいくらかかったかと訊いている」
「え、いや…」
 何を訊かれているのか一瞬分からなかった。しかしオーターが財布を取り出しているのを見て察する。そして完全に理解したと同時に血の気が引いていく。
「いらないです!」
「これから毎日そうする気か?」
「いや、でもっ」
「受け取らないのならもう作るな」
 そんなことをしてもらうために作ったんじゃない。胸が締め付けられたように痛む。心臓が苦しい。何も通じない。何をやってもオーターには届かない。
「お、オレは、オーターさんと飯食いたいだけで、」
「だったら事前に連絡をしろ」
 ぽん、と手のひらに乗せられたのはかわいらしいウサギの形をした何か。あまりに場違いなものを渡された所為でそれが伝言ウサギだと理解するのに時間がかかった。
「? ……?」
 半べそをかきながら伝言ウサギとオーターを交互に見つめているうちに、オーターは淡々と伝言ウサギの使い方を説明する。通話の仕方がどうの、留守電サービスがどうのと言っているが、いまいち理解が追いつかない。
「次からは事前に掛けろ。私がいない時に来て時間を無駄にするな」
「…? ?? はい……」
 訳も分からぬまま席へと促され、昼飯タイムが再開する。伝言ウサギととも、サンドウィッチ調理代よりもほんの少し上乗せされた金額をちゃっかり渡されていた。しかし少しも理解できないまま、サンドウィッチを食んだのだった。

 オーターの連絡先を合法的手段により手に入れたという事実を理解したのは数日後のことだった。頭の中で最高レア十連演出が鳴りやまず、伝言ウサギがまるで虹色に光って見える。試しに昼前かけてみたら本当にオーターの声がした。簡潔で不愛想な返事ばかりだが本物のオーターに繋がっている伝言ウサギだ。
 おかげでハズレガチャを引かずに済むようになってしまった。アポを取れば確実にオーターは居る。タイミングが合えば一緒にご飯だって食べてくれる。そろそろ手も繋げちゃったりするんじゃねぇのかと浮足立ってしまうのは仕方のないことだろう。
 今日という日もオーターの仕事部屋へと来ていた。すっかり魔法局常連になってしまい、知り合いも多くできてしまった。そうやって外壁から固めていくのもありかもしれない、なんて楽観的に考えながら部屋をぐるりと回る。
 現在オーターは仕事の用事で外に出ている。すぐに戻るから好きな本でも読んで待っていろと言われ、ずらりと並ぶ本棚を眺めているのだ。聞いた話ではこの部屋の本はオーター自身が集めたものらしい。ということはオーターの好きな本だということ。
 鼻歌を歌いながら本を探す。以前オーターが読んでいたミステリ小説だ。覚えのある題を探して視線を滑らせていると、上段の方にそれらしいものを見つけた。梯子が無いと届かない高さだ。
「ラッキーラッキー」
 壁に立てかけてある梯子を掛け、本に手を伸ばす。しかし背表紙に指を掛けたその時、ふっと身体が浮く感覚がした。これは重力だ。重心が後ろに傾き、落ちていく感じ。
「あ」
 と声を上げたところでもう遅かった。手元の梯子とともに後ろへと倒れ、床へ落ちる。反射的にぎゅっと目を瞑った。頭を打ち付けて怪我をするには充分な高さだ。
 しかし覚悟を決めたが、思っていたよりも大きな衝撃は無かった。ドン、と硬いものにぶつかった感覚はあれど、痛みは無い。恐る恐る目を開けると、深緑色のコートが一番に目に入った。次に肩を掴まれる感触。ぐい、と抱き寄せられ、身が縮こまる。
「気を付けろ」
 耳元で低い声。怒っているのか呆れているのか分からない。というかそれが誰か理解した瞬間、何もかもが吹っ飛んでしまった。
「くだらないことで怪我をするな」
 今までにないほどの熱が身体の中で沸騰する。一瞬で顔に汗が滲み、咄嗟に起き上がった。下敷きになってドットを庇ったのはやはりオーターだった。オーターはため息を吐き、眼鏡をくいと押し上げる。
「あ、え、オレ」
「どこも打ってないな?」
「オレ、」
「おい」
「ご、ごめんなさい!!!!」
 制服が乱れるのも気にせずに立ち上がり、逃げるように部屋を出る。
 顔が熱い。肩に触れていた手のひらの感覚がまだ残っている。あんなに大きな手をしているなんて知らなかった。あんなに体格が違うなんて知らなかった。だって一度もちゃんと触れたことがない。一度も触れられたことなんて無かったのに。
「うぁああああッ!!」
 魔法局の廊下に叫び声が響き渡るのも気にせず、とにかく走った。



 カルド・ゲヘナは、ドット・バレットが赤い顔をして部屋を出て行くのを見送り、再度オーターに視線を戻した。ドットは動揺で暴れているというのにオーターはいつも通り冷静で冷淡だ。乱れた衣服を直し、散らばった本を一つ一つ丁寧に片付けている。
 変なところを見てしまった、と思った。見なければよかった、とも。
「無粋なことを言うようで悪いけど、彼女、オーターのこと好きなんじゃないの?」
 あれだけ彼女が動揺したのだから、オーターもいっそ動揺すればいいのに。そんな意図も少しばかり込めながら言ってみたが、オーターは相変わらず無感情を貼り付けている。ため息を一つ。それから当たり前のように一言。
「そんなことは知っている」


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