翌日、俺は朝練に出なかった。 怠いというのがその理由で、その他にはないと、自分に言い訳する。 朝練の終わる頃に家を出て、HRの鐘が鳴るぎりぎりに教室に入った。そこに丸井の姿はなかった。 丸井の席を見遣ると、昨日机を拭っていたものだろうハンカチが、机の上に広げられて皺のついたまま乾いていた。床の上も綺麗だった。ただ、ゴミ箱は乱暴に倒されて、中身を一つ残らずぶち撒けられていた。その中にきっと銀に光るリングは、ないのだろう。 あんなに酷くしたのに、アレはそんなに大事だったのか。 愕然とした。 朝のHRで担任が丸井は風邪で欠席だと言っていた。まさか本当のところは伝えられないだろうし、妥当な言い訳だと思った。 特別教室に移動する途中に先輩に捕まって、部活に出ろと怒られた。 放課後、面倒だと思いながら、部室へ足を運ぶ。扉を開けると、ロッカーの前で着替える幸村の姿が見えた。幸村に別段変わった様子はなかった。軽く声を掛ければ、幸村は笑って返してきた。 言わなかったのか、言えなかったのか。 丸井は幸村に昨日の事を伝えていない。 言いづらいだろうことは勿論だけれど。 丸井は今、何を思っているだろう。 翌朝に、事態は一変した。 朝練に幸村は参加していなかった。テニス馬鹿の幸村がいない事に違和感と、何らかの予感を覚えながらも俺は朝練を終えた。 教室に行くと、今日もやはり丸井の姿はない。身体はまだ癒えていないのだろうか。それとも心か。もしかして、不登校になってしまうのでは。自分がそうした癖に、丸井を他人事のように心配している自分がいる。心身ともに傷付けておいて、心配だなんて綺麗な感情を抱いていい資格はないだろうに。その心情が何を示すか、気づきそうになって慌てて気づかない振りをした。 そろそろHRが始まる時刻だ。予鈴が鳴って皆が席に着いた頃、ガラッと大きな音を立てて扉が開けられた。担任だろうと思って机に顔を伏せたままでいたが、足音が近づいて来るのに気付き、おかしいと思って顔を上げた。 机の真ん前には幸村が仁王立ちしていて、鬼の形相でこちらを見据えている。悪戯と言えるほど可愛いもんじゃないが、それが見つかった時のように思った。 「何の用件か、分かるだろう?」 口の端を吊り上げ、不敵な笑みを作った幸村が低い声を響かせる。 「謝罪は受け付けつけないよ。ブン太にした仕打ちは、」 そこで一旦言葉を区切り、丸井の机に目配せした。幸村の目に皺だらけのハンカチが映る。 「どんな小さい事でも俺は許さない」 皆に届くよう、少し大きな声で幸村は言った。幸村の乱入にざわついていた教室が静かになる。俺は小さく溜め息を吐いた。幸村がいずれ何らかのアクションを起こすのは当然だと思っていたし、俺はそれに抗うおうと思わない。俺はこれから幸村が俺に下すだろう処罰を受け入れなければならないだけの事をした。十分分かっているし、居直る気もない。ただ、丸井の代わりに行使するのが幸村だという事を残念に、また歯痒く思う。幸村が唯一人それを許された人間だという事を。 衆人が固唾を呑んで見守る中、幸村に乱暴俺の胸倉を掴まれ、強引に椅子から立たされて、それから右頬を殴られた。殴られた勢いで床の上に背中から無様に倒れこんだ。頬の外側はズキズキと痛むし、内側も歯で擦ったようでチリチリ痛む。打ち付けた背中も痛い。一瞬教室が騒然としたが、すぐに静まった。 まだ、これだけでは終わらないだろう。 丸井は頬を打たれ、腹を殴られ、そして犯されたんだから。 後ろ手をついて上半身を起こし、幸村を見上げ、次の制裁を待つ。 幸村はしゃがんで俺の胸倉をまた掴んだ。ぐいと引っ張られて、顔を至近距離まで近づけられた。鋭い眼光を放つ目と見つめあう。黒く濡れた瞳は怒りに燃えている。 「本当は、殺しても足りないくらいだ」 襟首を詰められて呼吸が少し苦しくなる。また殴られるだろうかと奥歯を食いしばった。 しかし、次の瞬間幸村は胸倉を掴んでいた手を潔く放すと、立ち上がった。目の色はそのままに俺を見下ろして、静かな声で言う。 「ブン太に感謝しろ。お前は最低の下衆だが、それでもテニス部の戦力だからな」 丸井が、何だって? 嫌がっていたのを、恐怖していたのを、無理やり犯したのに。 アレを、捨てさえしたのに。 そういえば、幸村に殴られたのは左手だったじゃないか。薬指に光る銀色が目に入った。幸村は右利きだ。本気で殴るつもりなら右手だろうし、右手だったらきっと歯の一つでも折れていた。 丸井、お前は、本当に。 視界が滲み、俺は手で顔を覆った。 幸村が踵を返し、教室を出て行ったのが分かる。 幸村がいなくなっても、誰も何も喋らなかった。 俺の情けない嗚咽は、皆の耳に聞こえたかもしれない。 担任が入ってきても、俺の頬が腫れている理由に関して誰も口を割らなかった。 4 |