「お前は、何も知らないままだ」

■(ドーマント・ジュール)

ホールケーキアイランド、アプリコッ湖と呼ばれる大きな湖に入港して船から降りると、まず視界に飛び込んでくるのは巨大な城。ホールケーキ城だ。ケーキを模した形状の城は、どこかお道化た雰囲気で愛らしさすら感じられる。外観だけを見るならば、四皇と恐れられている海賊の居城とは思えないほど和やかで華やかな雰囲気だ。ホールケーキ城も、その周りに住まう人々も、穏やかで平和な暮らしをしているように見える。
万国(トットランド)を訪れる時、ジュールはいつも息苦しくなった。それは、辺りから漂ってくる甘い香りのせいだけではない。万国が、ジュールが住まうサンドル島とは真逆の気配を纏っているからだ。製鉄所の煙突から立ち昇る煙に覆われているサンドル島は、どこもかしこも鉛色で退廃と諦念の気配に満ちている。けれど、万国は建物も道行く人々も豪奢で、先進的な、どこか強引な希望に満ちているのだ。ぼんやり立ち止まっていると、さあいくぞ!とばかりに何者かに引っ張られてしまいそうな。そんな強引さだ。ぼーっと止まっていることが許されない。ジュールが暮らしている土地とはあまりに違う、慌ただしい気配。
ジュールは自分が乗ってきた船を振り返る。アプリコッ湖の港に集まったビスケット兵達が、大きな積み荷を降ろしているところだった。たった今からビッグ・マムに献上する、今月分のお菓子である。
ペロスペローから銃弾の完成について急かされたのが先月のこと。当然ではあるが、何の対策も講じられないままだ。ジュールは銃弾の製造について詳しく知らないが、もともと、そう簡単に完成する代物ではないらしい。ペロスペローは一年が期限と言ったが、どんなに急かされても完成は早まらない。その事をちゃんと説明し、海賊を納得させて来いと父親のカラバに言われたが、ジュールは早くも諦めていた。ビッグ・マムは、説明しても納得してくれる相手ではないと思っている。だからといって、何か妙案が浮かぶ訳でもない。
ジュールは先のことを考えるのが苦手だった。一年後どころか、翌日のことすら想像するのがめんどくさい。今、自分が生きている時間について必死で考えるだけ。それで十分だ。先のことを考えて計画を立てるのは、いつも妹のオーロールの役目だった。オーロールが考えて、ジュールが行動に移す。ドーマント家は、それで完成している。銃弾の件にしても、オーロールが何も計画を立ててくれていないのだから、ジュールも行動に移せなかった。それはジュールにとって当然のことだ。
強い港風が足許から吹き上げ、甘い香りが鼻腔に滑り込んでくる。湖面から微かに漂う海の匂いにも負けないお菓子の香りだ。ジュールは、サンドル島の高い山から吹き下ろす風を一瞬だけ思い出した。サンドル島には、もっと乾いた冷たい風が毎日のように吹き荒ぶ。甘さや和やかさなど欠片も無い、冷え冷えとした風だ。
頬を撫でていくやけに甘やかな風に気を取られていると、不意に、コートの裾が下から引っ張られた。反射的に足許に視線を落とす。すると、傍らに子供が立っていた。桃色の髪を持った、10歳にも満たないであろう幼い少女だ。少女は、ジュールのコートの裾を摘んで、こちらを睨み上げている。最近、やけに子供と縁があるなと、ジュールは思わず口許を緩めそうになったが、慌てて口端を引き結ぶ。この幼子も、ビッグ・マムの子供のうちの一人だろうと解釈したからだ。ビッグ・マムと同じ髪色。幼い子供の割には不穏で翳りのある目つき。うさぎのぬいぐるみを片腕に抱いている。地面を引き摺ったせいなのか、ぬいぐるみは足の部分が土で汚れていた。

「ママが、貴方を呼んでこいって」

少女は、ちょっとだけ唇を尖らせた不遜な顔つきでジュールを指差した。幼子特有の、白くて柔らかそうな指。ジュールはその指先を見詰め返して首を傾いだ。思わず「おれ?」と、聞き返す。少女が「ママ」と呼ぶのは、間違いなくビッグ・マムだろう。ビッグ・マムが、自分を呼んでいる。ジュールは戸惑いがちに、自分が乗ってきた船を振り返った。まだビスケット兵達が船からお菓子を降ろしている途中だ。

「貴方、サンドル島の人でしょ?早く来て!」

少女の柔らかい強引な掌が、ジュールの手首を掴んだ。ジュールの戸惑いなど完全に無視し、ぐいっ…と引っ張る。また、湖港を覆うような強い風が吹いた。お菓子の甘さを含んだ風だ。塩っ辛い海の匂いと混じり合って、奇妙に心地良い匂いになる。ジュールはその不思議な香りと、少女の掌の柔らかさに気圧され、引っ張られるまま走った。船が停まっている湖港からあっという間に離れ、首都・スイートシティの方角へ。ホールケーキ城。少女は間違いなく、その城を目指して走っていた。ジュールは少女の小さな後頭部に問い掛ける。

「ママっていうのは、ビッグ・マムのことか?」

「当たり前じゃない!他に誰がいるの?」

ジュールの手を引いて走りながら、少女は乱暴に答えた。少女が走るリズムに合わせて、桃色の髪が波打ち、片腕に抱いているぬいぐるみの両足がずるずると地面に擦られて、茶色く汚れていった。このままでは布地が破けそうだ…と、ジュールがぼんやりぬいぐるみの心配をし始めた頃、暴力的なまでに甘ったるい香りが鼻腔になだれ込んできた。騒々しい街の声が近付いてくる。周囲の気配が変わった。煩雑なのに、楽しげで賑やかな人々の声。お菓子の匂いと乱暴な活気が充満する街。ホールケーキアイランドの首都・スイートシティだ。ジュールは少女に手を引かれながら、辺りを見渡す。
この街の不気味なまでの活気と、様々な種族が入り乱れる煩雑さに、ジュールは未だ馴染めなかった。最初にこの街を訪れた時の事を、ジュールは不意に思い出す。5年前だ。初めてこの島にお菓子を運んできた日。あの日は、父親のカラバも同伴していた。上機嫌のビッグ・マムに出迎えられたのを覚えている。サンドル島で採れる鉱物がいかに貴重かということ。その鉱物で銃弾を造ろうとしていること。これから毎月、お菓子を献上してほしいこと。銃弾とお菓子さえ手渡せば、サンドル島の安全は保証すること。ホールケーキ城の女王の間で、一方的にそんな話をされた。父親のカラバが付き添って、ずっとビッグ・マムの話に相槌を打っていた気がする。ジュールはただ、テーブル上を動き回るティーセットや、ビッグ・マムの頭上に浮かんでいる太陽と雲、ビスケットの兵士…。様々なものに忙しなく視線を巡らせていた。その頃の自分は、23歳。サンドル島の緩やかな退廃と諦念の気配しか知らずに育ったジュールにとって、スイートシティの活気と熱量は俄に受け入れられるものではなかった。それなのに、強引になだれ込んでくる甘ったるい香りが、暴力的に全身を浸食しようとする。全身で反発して警戒し続けていなければ、引き摺り込まれて埋もれてしまう。そう思ったし、今もそう思っている。
スイートシティの大通りを駆け抜けると、「アナナ様、こんにちは」と、すれ違った大人が少女に挨拶をした。

「アナナっていうのか、お前」

何気なく少女に声をかけると、少女は途端に足を止め、ジュールを振り返って睨み付けた。どうやら馴れ馴れしく「お前」と呼ばれたのが気に食わなかったらしい。ちょっと拗ねたように唇を尖らせ、不満げに瞳を光らせる。幼くて柔らかな掌と、小さな身体。それなのに、ジュールを睨み付けるその瞳だけが立派に女だったので、やけに可笑しくなった。

「悪かったよ、アナナ」

降参して素直に謝罪すると、少女・アナナは心底満足気に頷いた。そして、再びジュールの手を引っ張って走り出す。ホールケーキ城が近付いてきた。近くまで来ると、威圧感で圧倒されそうなほど巨大な城だ。城の門を潜ると、ビッグ・マムが魂を吹き込んだホーミーズ達がアナナの姿を見付けて口々に話し掛ける。しかし、アナナはそれを無視して城の廊下をひたすら走った。
ジュールが見覚えのある人影を見付けたのは、ホールケーキ城の3階、屋内とは思えないほど広々とした中庭に足を踏み入れた時だ。大きな窓から射し込む陽光が中庭の芝生に幾筋も真っ直ぐな光の線を引いている。その線を避けるかのように、反対側から男が歩いてきた。大柄な体躯。筋肉質な体つき。短く刈り上げた小豆色の髪。

「カタクリお兄さま!」

アナナがはしゃいだ声を上げて、男の名前を呼んだ。ジュールの背筋に、思いもしなかった緊張と高揚が突き抜ける。その理由が自分でもわからずに、ジュールは戸惑った。
アナナは、さっきまであんなにも強くジュールの手を掴んでいたというのに、あっさり手を離してカタクリの元へ駆け寄っていく。ジュールはその場に立ち止まって、アナナの姿を視線だけで追い掛けた。小さなアナナは、芝生の上をぽんぽんと鞠のように弾んでカタクリの足許に纏わり付く。カタクリは、身を屈めてアナナの話に耳を傾ける。それは、とても正しい兄妹の形に見えて、ジュールには眩しかった。
ジュールは、その場に立ち尽くしたまま、手持ち無沙汰に中庭を見渡す。手入れが行き届いた、どこまでも続いていそうな庭だ。花壇には色鮮やかなチューリップが整列したように咲き、その花壇の入口には赤い薔薇が巻き付いたガーデンアーチが設置されている。三角屋根の東屋は真っ白なペンキで塗られ、汚れひとつ無い。屋内だというのに、せせらぎが聞こえる小川さえ流れていた。その完璧なまでに人工的な雰囲気がドーマント家の広々とした庭によく似ていることに気付いて、ジュールは顔を顰める。不意に、脳裏に幾つかの既視感が過って、唐突さに身震いした。5年前、ホールケーキ城を初めて訪れた日に、自分はこの場所でカタクリと会話をした気がする。この中庭だった。薔薇が巻き付いたガーデンアーチ。爪先を濡らす、小川の水飛沫。行進するビスケット兵。背後から響く、くぐもった低い声。それから…?
ジュールは指でこめかみを押さえた。あの日、自分は彼と何を話したのだろう。うまく思い出せない。5年前の自分には、把握すべき事柄があまりに多過ぎた。

「ママに連れてこいって言われたの!」

アナナの得意気な甲高い声が、背後から響いた。ジュールは、自分がぼんやりしていた事に気付き、慌てて振り返る。途端、鋭くて威圧的な視線に射抜かれた。いつの間にか真後ろにカタクリが立っていて、こちらを見ている。襟巻きに隠された口許は見えず、表情や感情は全く読み取れない。ジュールは、自分が5年前のホールケーキ城の中庭に居るような、やけにふわふわした気分になった。

「ママのところに案内してる途中なのよ。えーっと…」

アナナは、カタクリのズボンを摘んで引っ張りながらジュールを視線だけで指し示す。しかし、途中まで喋ってから、自分がここまで手を引いてきた人物の名前をまだ把握していない事に気が付いたらしい。まるで、今初めて出会ったかのような表情でジュールを見上げ、首を傾いだ。ジュールは可笑しくなって「ジュールだ」と、アナナに向かって短く名乗る。

「そう。ジュールよ。ジュールを、ママのところまで、案内してるの」

アナナは憧憬をたっぷり詰め込んだ瞳でカタクリを見上げ、自慢気に説明した。説明している間、片腕に抱いているうさぎのぬいぐるみをますます強く抱き締めるものだから、可哀想なうさぎは、今にも首が千切れそうだった。
カタクリはジュールから早々に視線を外し、足許のアナナを見下ろしている。幼い妹の話をどこまで理解しているのかはわからないが、真剣な眼差しだった。相手が幼い少女だからといって、適当に話を聞き流そうとはしていない。「そうか」と返事をしてアナナの頭を撫でる。大きな掌が桃色の髪をふわりと押し潰した。アナナは嬉しそうに目を細める。そのきらきらした表情を目にした瞬間、ジュールの胸に思いがけず羨望に似た感情が宿った。理由がわからずに戸惑う。この感情はいったい何だろう。

「……また」

不意に、くぐもった低い声でカタクリが呟いた。ジュールは微かに肩を揺らす。真っ白な便箋に一言だけ綴った言葉を思い出したからだ。しかし、カタクリの視線はこちらを向いておらず、アナナだけを見下ろしている。

「うん。またね、お兄さま」

アナナが朗らかな声で答え、カタクリに手を振る。カタクリは、一度だけジュールに視線を向けたが、それだけだった。そのまま何も言わずに踵を返して歩き去っていく。安堵が胸の裡に広がったので、ジュールは戸惑う。自分は何を警戒していたのだろう。
アナナは、去っていくカタクリの背中をしばらく見送っていた。憧憬と尊敬が込められた真っ直ぐな眼差し。そのきらめいた瞳を見た時、ジュールは、自分の中に先ほど渦巻いた羨望の正体を突き止めた。自分は、こんな風にきらめいた瞳を誰かに向けたことなど、もうずっと無かったし、これから先も恐らく無い。ぎゅっ…と、胸の奥が締め付けられるような、変な感覚がした。

「ここに居ると……」

勝手に自分の口から言葉が転がり出たので、ジュールは咄嗟に唇を噛んだ。自分が何を口にしようとしたのか考えたが、続く言葉は浮かんでこない。見失った言葉の片鱗がどこかに落ちてやしないかと足許に視線を巡らせたが、青々とした芝生が続くだけだ。

「え、なーに?」

アナナが無邪気な声音で聞き返してきた。ジュールは顔を上げる。歩き去っていくカタクリの背中が視界に入ってきたので、視線を逸らした。

「いや、何でもない。早く行こう」

ジュールは、アナナの眼前に手を差し出した。アナナが驚いたように目を見開き、眼前に差し出された掌を凝視している。「急ぐんだろ?」と問い掛けると、アナナは、悔しそうに唇を尖らせてジュールを見上げた。

「そうよ。急ぐの!」

答えた声は、何故か嬉しそうに弾んでいる。柔らかな少女の掌が、ジュールの手をぎゅっ…と握った。温かい。これは、愛されている者の掌なのだと思った。

+++

■シャーロット・カタクリ


「ここに居ると、懐かしい感じがする」

こちらを振り返り、青年は喉の奥から低い笑い声を漏らした。窓から吹き込む風で、いかにも硬そうな鉛色の髪が揺れる。前髪の隙間から覗く瞳は思いがけず大きく黒目がちで、奥底に野生動物のような警戒と強い反発が滲んでいた。酷薄そうな薄い唇はずっと緩やかな弧を描いている。見る者によっては、穏やかな笑みを湛えた若く美しい青年に見えるだろう。しかし、この時のカタクリは青年の笑みを不気味で不自然なものに感じた。霧のようにぼんやりした掴みどころがない笑み。

「何がおかしい」

カタクリが問うと、青年は、そこで初めて自分が笑みを浮かべていることに気が付いたかのように目を見開いた。そして、足許を流れる小川に視線を落として水面に映る己の顔と睨み合う。ガーデンアーチに巻き付いた白い薔薇が風に揺れて花弁を撒き散らし、小川の水面を白い花弁が流れていった。

「いや。何も…」

自分の口許に手を添えながら、青年はぼんやりと答えた。それきり、青年はカタクリの存在を忘れてしまったようだ。もしかしたらこの青年は、カタクリのことも、万国のあちこちに点在しているホーミーズのひとつとでも認識したのかもしれない。野生動物のごとき警戒心で、あちこち忙しなく視線を彷徨わせ始める。花壇に咲いているチューリップのホーミーズが青年に挨拶した。青年は、カタクリにしたのと同じようにぼんやりした不気味な笑みをチューリップに返す。花壇に咲いているチューリップのホーミーズ達がけたたましい笑い声を上げて青年をからかい始めた。

「懐かしいってのは、どういう意味だ」

カタクリは、不意に青年の言葉に興味を持って、背後から問い掛けた。チューリップのホーミーズ達に足首を絡め取られそうになっている最中だった青年は、迷子になったように視線を空中に彷徨わせる。声の主を探したのかもしれない。そして、やっとカタクリの存在を思い出したようで、「ああ…」と、気の抜けた声を漏らして振り返った。青年は、カタクリの姿を頭のてっぺんから爪先まで観察する。警戒心を宿した瞳。それまで姦しく笑っていた花壇のチューリップ達はカタクリの声で縮こまってしまったが、こそこそと噂話を続けていた。
青年は何か答えようと唇を薄く開いたが、どうしても言葉が見つからなかったようだ。どこかに自分が求める言葉が落ちていないかと探すように、花壇や芝生の上に視線を巡らせている。

「……行かないと」

結局、カタクリの問いには答えないまま、青年はぽつりと呟いた。カタクリに向かって言っているのではなく、まるで自分自身に指示を出しているような、憂鬱さを含んだ口調だった。警戒心と反発を宿してぎらついていた青年の瞳が、急に暗く閉ざされる。カタクリは、会話が途切れたことよりも、その唐突な瞳の変化の方が気に掛かった。
青年の視線は、カタクリの肩越しにどこか遠く別の場所を見ている。憂鬱と諦念が入り混じった眼差し。青年がいったい何を見詰めているのか、何が原因でそんなに鬱屈しているのか気になって、カタクリは振り返る。中庭の入口に、ぽつんと男が一人立っているのを見つけた。男は、誰かを探しているのか、忙しなく中庭を見渡している。秀でた額。後ろに流した白髪混じりの短髪。切れ長の目。50代半ばか、60代手前くらいだろうか。いかにも上質そうなスーツを着こなした出で立ちは、学者か、もしくは文学者然としている。カタクリは首を傾いだ。文化的教養を身につけた者だけが集う格式高いパーティーの場であれば、この男は一目置かれる存在だろう。しかし、海賊の根城であるホールケーキ城においては、ひどく似つかわしくない者に見えた。

「あれ、おれの父親なんだ」

ふと、青年が言った。カタクリは青年に視線を戻す。青年は、中庭の入口で立ち往生している学者風の男を遠慮がちに指差していた。まるで自分の罪を告白するかのように、気まずそうに視線を足許に落としている。

「そうか。不憫だな」

嫌味でも皮肉でも何でもなく、カタクリは思ったままを口にした。青年は、カタクリの言葉で視線を上げ、そして、微かに唇の端を引き上げて悪戯めいた笑みを浮かべた。先程のぼんやりした不気味な笑みとは全く違う種類の、明瞭な表情だった。その表情を見て、カタクリは自分がちょっとした思い違いをしていたと気付く。青年の笑みが、悪戯を成功させてぺろりと舌を出す幼い妹達と同じ、愛らしい少女の笑みだったからだ。
青年は、咄嗟に笑みを引っ込めて唇を引き結んだ。緊張と警戒で瞳が揺らぐ。今更になって、カタクリの存在を見知らぬ怪しい男として認識したのかもしれない。カタクリは襟巻きに隠された口許を緩めて微かに笑ったが、青年にはカタクリの表情の変化は伝わらなかっただろう。けれど、まるで呼応するように、青年が喉の奥で笑った。くっ…と、独特の低い声で。酷薄そうな薄い唇が弧を描く様子は、どこからどう見ても、若く美しい男だ。しかし、青年がその独特な笑みを浮かべる度に、ぼんやりと全体の印象が薄くなっていくように感じられた。

「赤い薔薇の方がいいと思う」

青年は花壇を振り返り、ガーデンアーチを指差して唐突に言った。白い薔薇が巻き付いたガーデンアーチ。アーチの色に花弁の色が同化してしまって薔薇の存在が目立たない。なるほど、一理あるなと妙に納得していると、青年はさっさと大股で歩き出し、カタクリの脇をすり抜ける。最初からこちらの返事は必要としていなかったのだろう。カタクリは小さく息を吐き出した。

「……また」

去っていく青年の背中に声を掛けてみたが、青年は一度も振り返らず、返事もせず、足早に歩き去った。そして、未だ中庭の入口に突っ立っている父親の元へ駆け寄る。カタクリは青年に声を掛けたことを後悔した。微かな敗北感が芽生えたからだ。どんなに些末であっても、それはカタクリが最も嫌うものだった。
カタクリの居る場所からでは二人の会話の内容は聞こえないが、青年は父親に謝罪めいた言葉を口にしているようだった。青年の姿を見つけた途端、父親は反り返らんばかりに背筋を伸ばし、横柄な態度で叱責する。そんな父子の様子を見ながら、カタクリは青年の瞳に浮かんだ野生動物のごとき警戒心と反発を思い返した。
……あの父親では、飼い慣らせないだろう。
不意に、そんなことを思った。飼い慣らしているつもりの父親と、飼い慣らされているつもりになっている不憫な子供。その青年がドーマント家の長男だとカタクリが知ったのは、翌日、長兄のペロスペローに聞かされてからだった。サンドル島のドーマント一族が採掘する鉱物をビッグ・マムが気に入っているのは、海賊団の中でも周知の事実である。あの青年は、サンドル島からお菓子を運んでくる役割を担っているらしい。それなら、また会うこともあるだろうと、カタクリは自分の中に芽生えた正体のわからぬ敗北感に何とか折り合いをつけたのだった。


中庭を立ち去りながら、カタクリは5年前の出来事を思い出していた。5年前、自分に微かな敗北感をもたらしたあの青年は、今、あの時と同じ場所で、末妹のアナナに穏やかな声で話し掛けている。相変わらず瞳の中に警戒心と反発を宿し、飼い慣らされたままの姿で。

「え、なーに?」

「いや、何でもない。早く行こう」

アナナの弾んだ声と、青年――…ジュール…――の声が背後から聞こえる。幼い末妹に話し掛けている穏やかで優しげな声音を、カタクリは初めて聞いた。そんな声が出せるとは知らなかった。カタクリと接する時のジュールは、常に警戒心を解かない。張り詰めた声しか聞いたことが無い。それは相手がカタクリだからという訳ではなく、万国という場所に居る緊張からだと解釈していたのだが、もしかしたらそれは、ずいぶんと都合が良い解釈だったのかもしれない。
アナナと話しているジュールの表情を確認したい衝動に駆られたが、カタクリは足を止めなかった。それをすれば、今度は敗北感では済まない気がした。
窓から風が吹き込む。今日は風が強い。カタクリは、花壇のガーデンアーチに巻き付いている赤い薔薇の花弁が揺れる様を不意に想像した。そして、そのガーデンアーチに見向きもしないジュールの姿も。
あいつは、薔薇の色が変わっていることになど気付きもしないだろう。5年前の会話を思い出すことも無い。明日のことすら考えられない、昨日のことすら碌に思い出せない、空っぽの頭。だが、それでいい。あいつの存在意義は「出来損ないの息子」を完璧に演じることにあるからだ。その解釈だけは間違っていない自信がある。カタクリは、5年前にジュールがほんの一瞬だけ見せた少女のごとき明瞭な笑みを思い返した。
彼女がまだ、隠しているもの。それは確かにあるのだが、何を隠していようがカタクリにとっては些末な問題に過ぎなかった。自身の心の裡に知らぬ間に訪れた、大きな変化に比べれば。

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