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知恵の記憶は、生きている時間に比例する。今日に比べれば、まだ学生だったあの頃の私は、何も知らない白痴の少女だった。

知とは基本的に善である、と言ったのは、確かデュエル哲学の教師だったと思う。その頃私はアカデミアの一年生で、毎日を目まぐるしく彩る学問や新たな人々との出会いに齷齪としていた。

「遊城十代」とは、ひとつの記憶だ。私が彼を語る時、遊城十代という言葉は一個人としての固有名詞にはならない。遊城十代とは、現象であり、概念だ。まだ青かった私の脳味噌をぐちゃぐちゃに掻き乱して壊していった、強烈な記憶だ。

果たして、あれは片恋だったのだろうか。いくら記憶を掘り起こしてみても、私は未だにあの暗く輝かしい日々に疑問を抱いている。

そう、あの瞬間。遊城十代の肉が、私の肉に割り入れられたあの瞬間、私がそれまで経験して勝ち取った、或いは学び取ったものの全てが無意味であったと思い知らされた。

グリーンスリーヴス(仮)
green sleeves


遊城十代は学園のスターだった。学生同士のカーストで言えば最上位に位置し、発言のひとつひとつに影響力があった。その癖に弱者を虐めるような事もせず、かと言ってお利口に学生生活を過ごしているわけではない。良い人ではあるけど、悪い人ともとれるだろう。容姿が優れているとか、頭脳明晰という訳でもない。ただ彼は、人を惹きつけるような説得力を持つ瞳を持っていた。

目は口ほどに物を言うというけれど、彼はまさにそんな少年だった…悪い意味でも。私はその時、やっと慣れた離島の学園生活を一日一日終えるのに夢中で、彼の事はよく知らなかった。
夏の日、その日はちょうど海開きだった。放課後にジュンコやモモエと水遊びをする予定を楽しみにしていた。

待ちに待った放課後、水着に着替えてビーチに出ると、既に先客がチラホラといた。皆、海開きを楽しみに待っていた一年生である。二、三年生ともなると海遊びは散々経験済みなのだし、今は試験前なのでここに遊びに来ている一年生達はただの呑気か、それともよほど試験に自信のある優秀な者かのどちらかだ。

なんにせよ、口うるさい先輩や教師達の目が届かない場所で思いっきり遊べるのだから、胸が高鳴るのは皆同じである。私もジュンコとモモエと三人で水中の貝殻を拾ったり、時折互いに日焼け止めを塗り直しながら、ビーチバレーなどに興じた。

夏の午後のサンセットが青い海を橙色に染め上げ、水飛沫をギラギラと輝かせた。

「ねぇ、ちょっと見て、モモエ、名無し」

ひとしきり遊び疲れ、浜辺でジュースを飲みながら夕陽を見ていた時、ジュンコが海岸の岩陰を指差した。

「あれ、あそこの男子の中にいる女子、明日香さんじゃない?」

目を凝らして、ジュンコが言う方向を見据えると、岩陰の下で溜まっている十数人程の男子グループの中に、豊満な身体と流麗なブロンドを兼備した女性がいるのがわかった。黒い水着に羽織った紫陽花色のカーディガンはこの上なく上品で、彼女の浮世離れした肉体を美しく可憐に演出していた。

「ほんとだぁ。さすが明日香さん、大胆だわ。でも一緒にいるの、もしかして遊城十代じゃない?」

明日香さんの隣に座る、赤い海パンを履いた茶髪の男は、指をさすジュンコに気付きこちらに眼を向けた。

この時、私は初めて遊城十代という名前と顔を一致させた。一体どれが…と聞かなくとも、一目交えただけで、あれが遊城十代なのだとわかった。彼の自信に満ち溢れた挑発的な眼差しは、幼い私にとってある意味で衝撃的だった。

「行ってみる?」

私が言うと、二人は目を丸くして、「えっ」と言葉に詰まった。

「マジで言ってるの?水着の明日香さんの隣に並ぶなんて、そんな烏滸がましい事できないわ、私」
「自分が貧相に見えるのが嫌なだけでしょう、アハハ」
「でも、気まずいじゃない。私達、明日香さんを誘わなかったでしょう。名無し、あんたが嫌がるからよ」

そう言われると、私も言葉に詰まってしまう。私は天上院明日香を避けていた。彼女が嫌いな訳ではないし、尊敬もしているが、ただ、仲良くはなかった。ジュンコやモモエとは中等部からつるんでいたため、それに倣って天上院さんと過ごす機会も少なからずあったものの、もう昔の話だ。高等部に上がってから、私は天上院さんと仲良くなる努力はしなかったし、天上院さんもまた、私に深く関わろうとはしなかった。ジュンコやモモエも、私と天上院さんが二人の友人をシェアしている気不味さを察してか、痛く気を使ってくれているようだった。

「あんたが苦手だっていうから誘わなかったのに、向こうに行きたいってどういう風の吹き回しよ」
「だって、目が合ったし…このまま帰って食堂で会う方が気不味いかと思って」

私は自分からうっかり出た言葉に対して、無理やり納得をしようと試みた。本当は、天上院さんの存在が気になって仕方がないのを自覚している。そしてジュンコやモモエも、自分の容姿や体型に負い目があるから天上院さんをビーチに誘わなかったに過ぎない事も私は薄々感づいていた。

私達は天上院さんに憧れ、崇拝しているが、私には彼女の隣に立つ勇気もなかった。しかし愚かな私は、隣に立つのはごめんでも彼女の動向が気になって仕方がないという、相反した感情を抱く気持ち悪い女だという事も自覚している。

その奇妙で滑稽な敵意もしくは好意に、天上院さんが気付いているのだとしたら、それ以上に恥ずかしい話はないだろう。

「うわっ、来るわよ、なんであいつがこっちに!」

私たちの動揺を知ってか知らずか、グループの中から遊城十代だけが一人、こちらに歩み寄って来た。夕焼けを背負った彼の肉体は妖しく濡れそぼり、皮膚に張り付いた砂は光を反射して、まるで金色の鎧武を纏っているかのようだった。

「おい、おめーら。なにジロジロみてんだぁ?」
「なぁによ、文句あるワケ?あんた達に無理やり連れて来られてる明日香さんが可哀想だと思ってたのよ!」
「いいじゃねぇか、別に。おまえらと違って、明日香は目の保養になるんだよ」
「なんですって!よく言うわよ!…もう行きましょう!ほら、名無し、もういいでしょ!」
「…お前が名無し?」

モモエが私の腕を取ると、遊城十代は私の肩を持って制止した。彼の掌の砂のチクチクとした感覚が肩を支配し、灼けるように熱かった。何故名前を知られてるのか、何故呼び止められたのかわからず、ただ私を捉える彼の瞳に気圧され、目を逸らした。

「へぇ…お前が。全然、わかんなかったわ」

遊城十代はハハ、と空笑いしてから、熱くなった肩から手を離した。その隙に、ジュンコが遊城十代の肩を突き飛ばし、彼は砂浜に尻餅をついてしまった。

「気安く触ってんじゃないわよ。私の友達になんか用?」

普段快活なジュンコの剣幕に、遊城十代はぷっと吹き出し、呟いた。

「友達ねぇ…」

私には訳がわからず、遊城十代の方を見ることもできなかった。ただ、彼は初対面であるはずの私に、何故か良い感情を持っていない事は明白だった。そして私は、遊城十代に対して、言葉に表せない何か特別な感覚を持ちかけていた事もまた事実だった。

「冗談だよ。本当おまえらおもしれーのなー。来いよ、こっち。三沢の初体験の話めっちゃ面白いからさ」

遊城十代は、私の肩を突然持った先ほどとは打って変わり、にししと笑って手招いた。

モモエもジュンコも冗談だと理解したのか、顔を見合わせて迷っているようだったが、岩陰へと歩みを始めた遊城十代の後に続いていったので、私もそれに倣った。

「じゃーん。無事女子を確保して来たぜー」
「へえ、天上院くんの友達じゃないか。君達も話に加わりなよ」
「あら、あなた達…今ね、この人たち自分の初体験の話で盛り上がってるのよ。下品でしょ、関わらなくていいわ」
「えー!なんて穢らわしいのかしら。明日香さん、そろそろ夕食の時間だし、戻りませんか?」

モモエもジュンコも、さすがに明日香さんを心配してこの場から連れ去ろうとした。グループの顔ぶれはいわゆるアウトサイダーなメンツばかりで、女子生徒が馴染める雰囲気ではなかった。何より男子が全員、天上院さんの身体を舐め回すように見ている。

天上院さんが何故この場にいるのか興味があった。優等生な彼女が一番忌み嫌うようなメンバーしかいない場で、わざわざ美しい肌を晒す理由が私にはわからない。しかし、考え無しの彼女ではないはずだ。きっと何かあるに違いない。

モモエとジュンコが天上院さんの手を引き、ブルーの更衣室まで連れ帰ることに成功した間も、私はほとんど口を開かず、三人の後ろをついて行った。


・・・


ブルー女子寮の夕食は自由席である。各々が好きに着席して、夕食をとる形となっている。入学をしてから、ジュンコやモモエと食事を取ったことは一度もなかった。そこには天上院さんがいたからだ。

ジュンコやモモエとは違う、普段行動を共にしている仲の良い友人と夕食をとったり、授業のグループ活動などを行う。

ジュンコやモモエとは中等部の頃から仲が良かったものの、高等部へ入学した当初から殆ど会話をする事もなくなってしまっていたのだが、それが近頃、再びつるむようになった。その理由が、遊城十代にあるのではと私は察していた。

天上院さんは遊城十代という人物と仲が良いらしい。そしてあれが、遊城十代…。

「名無し、明日香さんがご飯食べ終わった後も浜辺に行くって言うんだけど…良かったら一緒にどう?」

だから、食後のデザートを食べ終えて部屋に向かう途中でジュンコに呼び止められた時、私は驚いた。四人でつるむのは、中等部の卒業前にカフェでお茶をして以来だった。

私と天上院さんの関係に気付いてからはモモエもジュンコも私を輪に入れることは無かったが、先程からモモエが忙しなく化粧直しをしている事に気付き、そう言うことか、とすぐに合点がいった。

「モモエ、もしかして、六本木くんがいるから?」

六本木くんとは、先ほどのグループにいたブルーの男子である。その彼の隣に居た品川くんも、同じくブルーの男子であるが、品川くんと私は中等部時代に仲が良い時期があった。

恐らくモモエは、六本木くんの親友である品川くんと仲の良かった私に、間を取り持って欲しいという魂胆なのだろう。

「モモエ、前から六本木くんの事気にしてたもんね。でも私、品川くんともしばらく話してないよ。彼ら、すっかり不良じゃない」
「…嫌なの?」

巧みな上目遣いを見せるモモエに、私は仕方無しという素ぶりで承諾したが、実際興味があった。天上院さんと遊城十代の関係を知るには打って付けの機会だ。

夕食後、寮母の目を盗み四人で浜へ出ると、先ほどの岩陰が小さなオレンジ色の光で灯されていた。近づくと、先ほどの彼らが焚き火をしているのがわかった。
遊城十代は海パン姿のままグループの真ん中を陣取り、小さな蟹を焼いていた。

「やだぁ、その蟹、食べるの?下劣だわ」
「あら、結構美味しいのよ。ね、十代」
「え、明日香さん、あれを食べたんですか?おやめになって!絶対にお腹を壊すわ!」
「それより聞いた?三沢がさぁ…」

焚き火を囲った数人の男女の会話は、くだらない世間話や噂話ばかりであったが、それが何故か新鮮で楽しく、和気藹々としていた…私を例外として。

私が間をとり成さなくともモモエと六本木くんはペアで話が弾んでいるようだったし、品川くんも、ブルーの制服を纏った天上院さんの太ももを眺めるのに夢中のようだった。

当の天上院さんはと言うと、遊城十代と親しげに話し込んでいる。私もなんとなく相槌を打ったりするものの、自ら話を切り出すこともなく、ただ時間に身を任せながら、二人のことをそれとなしに観察した。

「こんなもの飲んで、不良じゃない?」

ふと、ジュンコが側にいた男の飲んでいた缶ビールを引ったくりながら言った。どう、お前らも飲めよ。どんちゃん騒ぎの中で誰かが言い出すと、ジュンコもモモエも羽目を外したかったのか、興味津々で酒に手をつけ始めた。

こんなものどこから調達したのかと疑問だったが、六本木くんの両親がアカデミアへ多額の寄付をしている事実を思い出し妙に納得できた。
女子の飲酒なんて天上院さんが許すわけないと括っていたのだが、当の天上院さんはというと、それを気にするそぶりも見せずに遊城十代と話こんでいる。

バカ騒ぎに取り残された私は、何かがおかしいと思っていたのだが、その違和感が具体的に何なのかに気づくことができずにいた。

私が知らぬ間に、天上院さんという人間は、また別の生き物に成長している。私の知らない天上院さんに対して、言い知れぬ恐怖ともどかしさを覚えた。

その時、天上院さんがチラ、と私のことを見た。天上院さんの瞳は夜闇に燃える炎を映してギラギラと輝き、私を見た。

「私、帰るね」

全身の毛穴が逆立ち、汗が滲み出た。本能的に、一刻も早くこの場から立ち去らねばならないと感じた。

私が立ち上がると、品川くんが「…なんで?」と呟いた。昔、仲の良かったにも関わらず、この場では一言も口をきかなかった彼が、初めて私に向けて発した言葉だった。

品川くんの一言を皮切りに、みんなシン…と静まり返ってしまった。沢山の目が私を見つめて、息を潜めている。居た堪れずに、踵を返して砂浜を歩み始めた。酔いの回り始めたジュンコやモモエの声は、私を引き止めることは無かった。

決して振り返ってはいけない。彼らのヒソヒソとした話し声に、絶対に耳を傾けてはならない。

「おい、お前」

遊城十代の声は、皆が密やかに騒めく声の中でも、よく通って聞こえた。まるで彼の声のみが独立しているかのように。または私の脳内に直接語りかけてくるかのように。彼のアルトの声は、私の鼓膜に否応無しに届いた。
この人は、選ばれた、特別な人なのだと確信した。

「何、日和ってんだよ」

彼は片膝を立てて座り、口元を緩ませてこちらを見据えている。

「別に…ただ…もう眠いし」
「まさか、チクりにいくんじゃないだろうなぁ」

空気がピンと張り詰めた。再び皆、静まり返った。闇の中に光るいくつもの目が、私を捉えて離してはくれないようだった。

砂浜をザクリザクリと鳴らして、一歩一歩、寮へと歩みを進めたが、それがひどく長い距離に感じられた。その時初めて、全てばれている、と気が付いた。

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