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「実はを言うとだな、私も国から時期を見て講和せよとの命を受けている」
李陽舜が茶を一口煽った。
「貴軍を押して焦ったところに有利な条件を…、と思ったが、貴公の方が一枚上手だったようだ。劣勢になってしまったよ」
一瞬の沈黙。
あいつと過ごした夜とは、似ても似つかないほど緊張感が張り詰めた沈黙だった。居心地が、悪い。冷や汗が伝う。
唾を呑み込む音が、妙によく聞こえた。
「悔しいが、仕方あるまい。…貴公にある程度有利な条件で講和しよう」
「恩に着る」
安堵に、深く呼吸をした。
だが、物事がそう上手く進む筈もなく、そんな俺に対して李陽舜は少し眼を細めて、極めて楽しそうに口角を上げて、呟くようにして言い放った。
「ただし、一つだけ呑んでもらいたい」
体が強張る。
思わず、睨み返してしまった。
「こちらに有利な条件だったのでは?」
「基本的には、だ。なに、難しいことではない。国には関わらないことだ」
「そう曖昧に言われても理解しかねる。はっきり言っていただきたい」
今度こそ李陽舜は表情を緩ませた。
それはそれは微笑ましそうにしながら、指を組んで卓に肘を着き、その上に顎を乗せてじっと俺を見詰める。
そして、次の一言は、その表情の理由が分からなかった俺の思考回路を凍結させるには、充分な威力を持っていた。
「私の妹と夫婦になって頂きたい」
たっぷり五拍は固まったと思う。
「…は?」
「だから、私の妹と、」
「李陽舜将軍。私達は今、公の話をしている。決して私情を交えないでほしい」
「貴公は真面目だなぁ…、だが、」
この時の李陽舜の顔を、俺は一生忘れないだろう。
それだけ凶悪な表情をしていた。
荒野の虎さえ平気で殺せそうなほどの鋭利な視線に、柔らかさとは縁遠く歪められた口許、端正な顔に影を作る一房の黒髪を耳にかけたその動作にさえ、隙が無い。
もちろん、声色も不機嫌に低い。
「頷かぬ限り、貴公の言う“公の話”は進まぬのだが、…いかがする?」
――――――やられた。
この男は俺を脅しているんだ。それも、俺が屈するという絶対的な自信を持って。
李陽舜の国は中規模ながら、兵力に富んだ軍事国家だ。たとえ一戦で敗けても、全体で敗けることはないと知っている。
焦りも動揺も、存在しない。
人払いをしたのは、国に尽くすべき将軍にこの交換条件が似合わないから。
そして、もし、立場が逆で、李陽舜の軍が俺の軍を押し、あいつが俺の野営に来ていたなら、俺は人払いをしなかった。
つまり、この交換条件は現れなかった。
妹のために、わざと押されたと言うのだろうか、この食えない野郎は。…結局、俺はこいつの思うままに動いていたのか。
「イイ兄上だな」
それがせめてもの嫌味だった。
「あぁ、私も一人の兄だったということだ。貴公はあやつの意中の男であり、私から見てもいい男だ。歓迎する、義弟よ」
「勝手に決めるなッ!」
「何故拒否する?あやつはお前を好いているし、器量が悪いわけではあるまい。正妻にしろとも言っていない。ただで女が貰えて国も救える。悪くなかろう?」
俺は、この時、一抹の違和感を抱いた。
違和感の正体にはすぐに気が付いた。
妹だ。俺を見初めたらしい妹のために国軍を使って大きな罠を仕掛けた李陽舜が、妹を使い捨ての遊び女ように言った。
有り得ない。…もう一つの罠がある、と考えた方が妥当だ。この男が相手なのだ。決して、考えすぎなどではない。
この罠を看破し、回避、あるいは打破するにはどう動けばいいのだろうか。
「で?もう一度言うぞ、紀越殿。貴公が頷かぬ限り講和は進まぬ。…勿論、その首を横に振れば、分かっているな?」
どうやら、俺は窮地に立たされた時は、いつもあいつの顔を思い出すようだ。
あいつは李陽舜と似た目許をしていたけれど、冷えきったこの男とは違って、凛としつつも柔らかな眼差しをしていた。
あぁ、李凰。
お前にどうしようもなく会いたいよ。
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