※「in MUJI(日車)」の続きです
※2023年12月4日発売の本誌224話の内容を含みます(時系列として話中の打ち合わせ後の話)





「悪いが、少しいいか」
後ろからかけられた声の主が誰かは、振り返らなくても分かった。
私と話し込んでいた日下部さんも同じで、手で「行け」と急かされる。話し合って答えを確定させてから来いという表情だった。
振り返ると、もうそこには誰もいない。私に声をかけた日車さんは部屋を出てすぐの廊下にいた。冬の午後の弱い西日が廊下を四角く塗っている。冷気が窓枠から伝わって来た。

「君は宿儺との戦いに参加するな。逃げろ」
「プレイヤーである以上、結局羂索に殺されますよ」
「宿儺は倒せなくても、羂索が倒されて死滅回游が終わる可能性はまだ高い」

死滅回游で日車さんに助けてもらい、東京都立呪術高等専門学校に合流するまで、私達はふたりきりだった。無印良品で一緒に酒を飲み交わして眠る直前、彼は翌朝きっといないだろうと思っていた。しかしそんなことはなく、翌朝彼は私の分のコーヒーまで淹れて下の階の書店から持ってきた本を読んでいた。
何ひとつ示し合わせたことは無いのに昼間はそれぞれ目的のために行動し、夜になるとまた無印良品に戻って来て3つ並んだベッドの右端と左端で眠った。それはここに来ても同じで朝昼晩と一緒に食事を取って、新しく手に入れた情報を共有し、自室は隣同士、さっきの話し合いでも一緒に来て隣に座った。万事がそんな感じで私達はセットとして扱われている。
1度話せば誰もが優秀であると認める彼は学生が多いここでは浮いていて、学生相手に対話はできるが会話は下手だった。だから上手くやっていけるように日車さんと学生との仲介を私がしたように、術式の話についていけてない私と情報の間を日車さんが仲介してくれた。
それを今ここに来て急に自覚させられたのは、違う道を行く、というのが初めて形を持ったからかもしれない。

「宿儺に一瞬の隙を作れるのは大きいが、通用するのはたった1度だ。確実に死ぬぞ」
「分かってます。日下部さんにも言われましたし自分でも理解して残ってますよ」

私の術式は、対象が私を見た際の姿を誤認させるというものだ。対象が1番好みの姿、対象が1番心に残っている存在、対象の母親など、条件付けは何でも可能だ。けど私が誰に見えているかは対象にしか分からないし、見た目以外は変わらないので話したりすればバレる。一瞬の妨害・隙をついた暗殺に長けた術式で、格上の五条さんも私に誰かを“見た”ので、宿儺にも通るという予想がされている。宿儺が誰を見ようが、どんな感情を持とうが、確実に一瞬は行動を止められるだろう、というのがみんなの意見だった。

「そこまでする理由はなんだ?」

日車さんの眉間がひそまり、爬虫類のような硬質で冷たそうな雰囲気が少しだけ熱を持つ。
違う道を行く。ここを出て、東京を出て、羂索から逃げて、加茂君のように世界が終わらない可能性にかけて、最後に追いつかれるまでの日々を家族や大切な人と過ごす。そういう決断をした人を見送ってきたけど、自分がその道を行くという発想がなかった。
廊下の壁に背中を預けると冷たさに熱を奪われる。体温が馴染むまで待っている間に日車さんが去っていかないか期待したが、彼は隣に来て同じように背中を預けた。

「……なんだか変な感じです。みんな頭突き合わせて、学生まで入れて、冗談交じりに死が前提の戦いの話をしてる。そしてそこに自分も混ざって話しても全然怖くなくて、むしろ力不足なことが悔しい。羂索に脳をいじられた時、怖がる部分も改造されたかな」
「それは無いだろう。もしそうなら積極的にプレイヤー達は殺し合ってただろうからな。俺も自分がこんな風に戦闘ができるとは思ってなかった」
急かさない。表情は崩れない。淡々とただ真摯に私が話し出すのを待っている。優秀な弁護士だったんだろうなと思う。もう弁護士業はする気はないらしいのが残念だ。弱い日の光が、徐々に足元を温める。

「……私には弟がいて、サッカーの特待で実家を出て名門校に行ってるんです。びっくりするくらい優秀で、2ヶ月前にイタリアに呼ばれてあっちでサッカーやってて。すごくないですか?私は球技とか全然ダメだったのに」

術式が開花するまでの私なら、絶対にこんなところ逃げ出してた。誰より先に「おります」と言ってた。だけど今の私は、宿儺と戦うときにちゃんと役に立てるかしか考えてない。
「羂索に追われて死んでも、同化で生まれた化け物に殺されても、何も残らない。けど宿儺と戦って死ねば一瞬の貢献でも呪術師界から弟に弔慰金が出ます。しかも非課税で高額。納得してもらえました?ヨーロッパは物価が高いですからね」
日車さんは口元に手をやってしばらく考え込んだが、訝しげな表情は晴れない。目が合う。彼がそらさないのでなんだか意地になって私もそらさずにいると、彼は背中を壁から離して1歩前に出た。

「……半分くらいだな。ちょっと部屋に来てくれ」

▼ ▼

「これに記入してくれ。これで俺の遺産はすべてみょうじさんに行く。弔慰金よりは多い額だし、この額なら相続税はつかないから丸ごと手に入る」

向かい合って座ったテーブルの机上にあるマスばっかり続く書類。これがどういうものか予告無く見せられたことで最初は日車さんの書きかけの履歴書かと思った。なので左上の「婚姻届」3文字に気づくのが遅れた。
「もし日車さんが2週間後の宿儺戦で死んでも、遺産が全部私に入るんですか?」
「入る」
「結婚して半年後とかじゃなく?すぐすぎて怖いですねこのシステム。犯罪に使われそう……」
「少数だが実際にある。大体すぐに逮捕されるがな。レアケースを計算に入れると話が進まない」
日車さんは別の新しい紙を差し出してくる。文書作成ソフトできっちり作られた書類には、自分の資産がどこでいくら管理されているか、口座番号、暗証番号、アカウント名、パスワードまで載っていて、最後にトータルの資産額がまとめられていた。

「弁護士とはいえ、買い物や外食で値段を見ずにさっさと決められる程度の快適さがあるくらいで、一般的な想像よりは稼いでない。悪いな」
「いや逆で!多い!一般的な想像ってどのくらいの額!?」
「なら問題ないな」
日車さんの指先が記入するべきところを指す。すでに記入されている彼の読みやすい文字。誕生日に本籍地、知らないことだらけだが、この人が殺した人の数を私は知っているのは変な気分だ。私の手が進まないことを日車さんは怪しく思ったのだろう、眉が少し動いた。
「もしかして結婚相手がいたか?君の心情を無視した提案になって悪いが、これしか手がない」
「そんなことは……ないんですけど……」
「本当は違うんだろう」
彼の声が、室内にはっきりと響いた。

「職業柄、追い詰められた人を何人も見てきた。一見無理がある発言でも調査すれば間違いじゃなかったこともあったし、逆に誰もが納得するような発言でも探ったら間違いだったこともあった。嘘とは言わないが、君が言っていることは理由の半分くらいだろう」
その通りだった。ぐうの音もでないくらいその通り。日車さんに興味で依頼料とか聞いたとき、へーそんなもんかと思って後で調べてみたら相場に沿っていたけど、こんな優秀な人を相場で雇えるのは羨ましいなと思ったくらいだ。
「まだ上手く言葉にできないんです。でも決断を変える気はありません」

真っ直ぐこちらを見つめる彼の視線から逃れると目のやり場に困って、机上におかれた彼の指先を見る。治りかけの逆剥けがあり、ベッドサイドテーブルには私が結界内で探して来て渡した逆剥け用の薬とリップクリームがあった。逆剥けの薬はチューブの潰れ具合からしてきちんと使われているようだ。そして私のポケットには、結界内で日車さんが私のために探して来てくれた喉の薬が入っている。
今まで人生でいろんな人に会ってきた。特に社会に出て営業として働くようになってからは1年間で出会う人を平均すれば1日1人以上新しい人に会っているし、年に100回は飲み会に行っている。その中で分かったのは、飲み会の3時間を話すのは苦痛ではないが、1日中一緒にいたら苦痛になる相手はたくさんいるということだ。
そしてほぼ1週間極限状態で寝食を共にしてもストレスにならない相手は、世界中探してもごく少数だということ。その稀な人が目の前にいる。

「それはさておき、これにサインしてもいいです?」
「正気か?」
食い気味に聞かれた。
初めて一緒に無印良品に泊まった夜を思い出した。あの時も自分から言い出しておいて、こちらがもし受け入れたら正気か?という感じだった。そういえば結局私の顔は日車さんにとってドンピシャ好みで、そういう場合は術式が発動しないらしい。条件をつけてそれが自分に該当するか・しないか探るときに便利だな、と検証に付き合ってくれた日下部さんは言っていたが、あの時、日車さんは他人事のような顔をしていた。本当にこの人、私の顔が好きなのか?

「結婚はしてみたかったんで。日車さんはいいんですか?もしかして何もかも上手くいって罪も許されたら、私の夫になるわけですが」
「このタイミングであっても、好きでもない相手に財産を譲る気はない」
「……ホントに私の顔好きだったんですね」
「顔だけで判断したわけじゃないさ。しかし俺が万が一生き残ったら犯罪者の妻になるわけだが」
「そしたらその時考えましょうよ。レアケースを計算に入れると話が進まないってヤツです」
日車さんが呆れたように笑う。お互いが生き残って、司法が機能する程度に社会が回復して、自首をした日車さんが罪に問われる可能性は、一体何%だろうか。遺産目当てで結婚して即殺す事件の発生率とどっちが高いだろうか。
「君、鹿児島出身だったんだな」
書き上がった婚姻届を眺めて日車さんが言う。
「行ったことあります?」
「無いな。暖かいだろう」
「えぇ。雪国って冬は毎日雪かきするんですか」
「してるみたいだな。とはいえ俺はマンション暮らしだからあまりやらないが」

必要な書類を持って外に出る途中で虎杖君に会った。どこ行くん?と言うその声や態度、表情に、人懐っこい弟が重なる。
「婚姻届出してくるんだよ」
「え、みょうじさんの?」
「彼女と俺のだ。結婚する」
「え!!??マジ!?みょうじさんと日車結婚すんの!!?お祝いさしてよ!!」
虎杖君が言った数秒後、仲良くしてくれている三輪ちゃんが階段を駆け下りて来て「それマジですか!?」と呼びかけてきた。2階まで聞こえる声の大きさも弟にちょっと似てる。

▼ ▼

外は結界内とは違った悲惨さがあった。
高専にいるとみんな落ち着いていて冗談も飛ばすし、建設的な会話ばかりだ。精神的に落ち着いた人たちに囲まれていたことで自分も平静でいられたことを痛感した。
役所に行くための道を運転すると飛び込み自殺をしようとしている人に2人も遭遇したし、窓ガラスが割れたまま放置されている店に買い物に行く人々。平日の昼間なのに役所のカウンターの内側は人が少なく、聞けば職員がまあまあな数、出勤してないという。
「東京は狭い中に2つも結界があったからな。国の指示で避難した人も多いし、去年の新宿、今年の渋谷と続けてあんなことがあれば他県と比べて肌で危機を感じる。こうなるのもおかしくないだろう」
婚姻届の順番待ちをしながら、日車さんはそう語った。
高専に来てからはほとんど外出してなかったから、まざまざと見せつけられた現実に心の奥が波立つような不安感がして喉が乾いた。日車さんに一言告げて自販機に向かう。お茶を買おうとして、同じように役所に来ていた人と譲り合いになる。なんだかその気遣いが怖くて、胃が重くなった。

「日車さんもコーヒーどうぞ」
「ありがとう」
「そういえば微糖派なの会った時から意外でした」
「俺も君がずっとジャスミンティーばっかり買うから、美味いのか疑問に思ってる」
「飲んでみません?ハマるぜ」
渡すと日車さんは一瞬間を開けて、飲んで、「なるほど、結構美味いな」と呟いた。ジャスミンティー、わざわざ選ばないとあんまり出ないもんな。
お茶を飲む間、手持ちぶさたに自分の戸籍謄本を眺める。そういえばこれ、宿儺との戦いで死ぬだろうからと死亡届用に事前に取り寄せていた戸籍謄本じゃん。準備が良くて助かったな。
そう思うと、もうすぐ別れる社会の荒廃に自分が不安を感じている意味がわからないけど、でも自分が宿儺と戦おうと思った理由もわからないから、答えは探しても見つからないのかもしれない。正常でない世界で、私は私の制御を失っている。
順番が来て、婚姻届を受け取ってくれた職員は明るい口調で「おめでとうございます」と言ってくれたが、唇は切れ、目の下は黒ずみ、白眼は血走り、頬はこけて過労を隠せていなかった。何を聞いても「いいですよ」としか言わずに、右から左へ書類を流していた。


役所を出て帰りの運転をしてくれる日車さんに鍵を渡そうとしたとき、役所に向かい合って立つビジネスホテルが目に入る。別の方を見ていた日車さんの肩を掴んでホテルに向かせて「いっときます?」と尋ねれば「そうだな。流石に高専でするのはな」と1から10まで理解してくれた。
コンビニに行く日車さんと、先にチェックインする私で二手に分かれる。時間はそんなにない。虎杖君達がお祝いをしてくれるので19時までには帰ってくるように言われていた。

時間は15時過ぎだったが、フロントには誰も客がいない。どんなビジネスホテルでもこの時間はチェックインスタートを待つ人がいる。東京の惨状の影響がこんなところにも。
チェックインを済ませて部屋に向かう。サービスで部屋をグレードアップしてもらえたけど、いつもなら嬉しくてたまらないが今は部屋の広さが寒々しい。「人員不足のため、清掃等が行き届いておらず申し訳ございません。気になる点がございましたらお気軽にフロントまでお申し付けください」と書かれていた机上の紙を裏返す。
せっかくなら東京のキレイで面白いラブホに誘おうかと一瞬考えたけど、寒空の下で日車さんとスマホでラブホを選ぶ余裕はない。誘うのだって変に声が上ずっていたし、顔を見られたくなくて日車さんの視線を固定したし。
5分もしない内に部屋に来た日車さんは「コート、まだ脱いでなかったのか」と私からコートを回収すると自分のコートとジャケットとネクタイを一緒にクローゼットにしまった。ワイシャツ1枚の彼は何度も見てる。何もここで緊張することじゃない。

「先に一緒にシャワーに入らないか」

彼の声のトーンが若干、本当に少し、普段から話してないとわからないくらい、高くてそして遅い。
グレードアップしてもらったのでお風呂がユニットバスじゃなくて、バス・トイレが別のやつ。なんだっけ、家のお風呂みたいなやつ。頭が回らなくなってきた。
私は同意の返事の代わりに、日車さんの背中を押してシャワールームに向かおうと彼の背中に触れた。体温が指先に触れる。鼓動がする。心臓の鼓動が背中まではっきりと届いてる。なんだ、日車さんもめちゃくちゃ緊張してるんだな。そう感じたとき、足元が急に抜けたような不安感に襲われた。

怖い

正しくない。 “怖い”は正しくない。ただ1番近い感情がこれだった。
漠然とした恐怖が脳にへばりつく。胸がざわめく。理由もなくここから逃げなきゃという得体のしれない思考に頭が乗っ取られる。
突然動かなくなった私の異常に日車さんが振り返り、私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?鼻血が出てる。傷が開いたか」
「かも、しれないです」

死滅回游で術師のプレイヤーに鼻や喉の粘膜をやられたことがあって、家入さんに治してもらったけど気が高ぶると時々こうやって傷が開く。日車さんが部屋に用意されたティッシュで私の鼻を口ごと軽く塞いだ。
「一旦座ろう」
肩を抱かれる。その手から伝わる体温が、心底“怖い”。
「怖い」
「無理強いはしない。落ち着いたら出よう」
「違うんです。わかった、全部わかったんです。宿儺と戦いたい理由が」
ベッドに腰掛ける。30分もすれば鼻血はきっと止まるだろう。こんなのは問題じゃない。
「私の死滅回游での点数、知ってますか」
日車さんの返事は少し遅かった。
「最初に出会った時しか知らない。その後は見る必要が無かったからな」
「64点。8割方、非術師から奪った点数です」

あの結界での昼間。少しでもスマホの電波がつながる所を探して私は1人で行動していた。その中でずっと、もう助からない怪我をした人、心中相手を求めて襲いかかって来る人、自殺できなくて途方に暮れる人。そんな人にたくさん出会った。そして死を希望する人にとどめを刺し続けた。包丁が壊れたらガラスで、木の杭で、尖ったなにかの破片で。呪力を扱えるようになったせいで今までの私とは比べ物にならない腕力と耐久力がついたから、非術師を早く、苦しませずに楽にできた。高専に来て術式が暗殺向きと評価されたとき、今まで思い浮かびもしなかった手順が頭に浮かんだのも、この術式の開花のせいだったのかもしれない。
けど体や技術は進化しても、精神がついていかない。刺した肉の感触、手に残る骨が砕ける振動、血と脂肪のぬめり、鼻に残る鉄臭さ、冷めていく体温、縋る人たちの疲れ果てた柔らかい声。さっき役所の自販機で順番の譲り合いになったときに恐怖を感じたのもそのせいだった。あの人の疲れた声と表情は、殺してきた人々のその声、その表情と同じだった。
人間の温度、疲れた声、疲れた表情。それら全部が怖い。そんな人間と接する度に、殺した人とその時の感覚がよぎる。

「日車さんの気遣いはうれしい。でも、もうこの世界ではやっていけない」

解ったすべてを途切れ途切れに彼に話す。

「それに私の実家、桜島結界の中なんです」

毎日、他愛もないことを話してた家族グループLINEには弟からしか返事がない。両親は仲がいいから、お互いが残ったらマズイだろうって結界の中に残ったのだろう。

日車さんのタイミングによっては睨んでいるとも思われそうな三白眼が、じっと私を見つめている。熱と生気を感じない、落ち着いたその表情、声、態度にずっと救われていた。でも私はもう無理だ。こんな感情抱えて生きられない。さっさと全員が冷たい世界に行った方が楽だ。

「もう生きていけない。それなら最大限役に立つことをして死にたい。……弱くて、ごめんなさい」

こいつはもう駄目だなって諦めてほしいのに。だから今まで気を遣われたくなくて言わなかった両親の話もしたのに。日車さんの視線は変わらなかった。目をそらしたらいけないもののように私を見つめていた。と思った時、頭を掴まれた。
一瞬なにされたか分からなかった。血の味と一緒に、少しひんやりとしたコーヒー味の柔らかいものが口の中に入ってきた。それがなにか考えているうちに、鼻血が大分止まっていること、さっきまでの絶望的な不安が無くなっていること、そしてキスしてることを理解した。
日車さんは口を離すと、べろりと私の唇についている血を舐め取った。その感じが表情も相まって爬虫類っぽさを強く感じて、不安の底に落とされそうになったときから強張っていた体から力が抜ける。

「生きてる人間の舌がこんな冷たいことあります?」
「さっき間違えてコンビニで冷えた缶コーヒーを買った。そのせいだろう」
確かに彼の言う通り、ベッドサイドには飲みかけの缶コーヒーがあった。
「結構動揺してる?」
「さっき背中を触って解っただろう」
「……はは、あはは」
思わず笑いが出た。私だって、日車さんがコーヒー飲んでたの全然気づいてなかったんだから、半端なく緊張してたんだろうな。
「落ち着いたか?取っ拍子もないことをすれば気が紛れると思ってな」
「うん。大丈夫です。もう」
彼は立ち上がると、私にコートをかけて、自分も身支度をし始める。
「それは心的外傷だ。きちんと治療をすればある程度は緩和できる。家入さんに相談したか」
「いえ……」
「今すぐ帰ろう。相談するんだ」

▼ ▼

外は風が強くなっていた。
グレードアップしたのに30分くらいでチェックアウトした客に対して、ホテルのスタッフは特に驚かなかった。プロなのか、こういう変な客が増えているのか。駐車場にとめた車に向かう途中、日車さんは電話で家入さんにアポを取ってくれた。帰ったらすぐに話を聞いてくれるという。
車が走っていない道路で信号待ちをしている間、ぽつりと日車さんが呟いた。
「俺はこれから血の味がしたら、君を思い出すんだろうな」
「私も血の味の記憶はないですし、血とコーヒーで日車さんを思い出すんでしょうね」
信号が変わる。私は踏み出そうとして留まった。日車さんが立ちつくし、俯いていたから。

「みょうじさん」
絞り出したような声だった。

「人と接するのが怖いなら、過疎地でも、離島でも、選択肢は沢山ある。不自由がないようにできる限り俺が手配する。だから死なないでくれ」
「それなら日車さんも、宿儺と戦わないでください」
道路の向こう側にいる、母親に手を引かれた5歳くらいの子どもと目があった。青信号になっても渡らない私達が珍しいのかもしれない。
「戦いにでるのは弟や自分のためもありますが、純粋に世界のために宿儺を倒したい気持ちもあります。日車さんがいたほうが勝率は確実に上がるし、日車さんがもう決断してるから言わなかっただけで私だって日車さんに生きててほしいんですよ。きっとあなたが私に生きててほしいと思うのと同じくらい思ってる。だってあなたが好きだから。そうじゃなきゃ結婚なんてしません。戦わないで。無理なら止めないで」
子どもが私に手を振る。恥ずかしそうにはにかみながら振る。振り返すと、疲れた顔をした母親もそれに気づいて、楽しそうに笑ってくれた。

「……すまない」
「いいですよ。知ってましたから」

知っていた。日車さんがもう誰から何を言われても曲げることのない意思で決断したことくらい。私も同じことをしたのだから。

「勝手だが、それでも俺は君に死んでほしくない」

お互いなんと言えば、相手が考えを曲げるかなんてきっと一生分からない。死ぬまで意見は平行線だろう。でもその線の上で、私達はお互いを見ている。

2023-12-08
- ナノ -