ひとつに結んで編み込んでいた髪の端が崩れて、屋外用スチール倉庫のドアに挟まった。
1歩も動けない。
路地裏の細道の奥。すこし肌寒い風にのって鼻につく生ゴミの臭い。こんな私を見て笑う人は多いだろうけど、どうしてこうなったか聞けば気の毒に思ってくれる人はいくらかいるだろう。

みょうじなまえはそんなことを考えながら、乾燥した喉を唾液で湿らせようとして失敗した。元から喉が乾いていたのに、この状態になってから3時間が経つ。ありがたいのは尿意が起こらないだけで身体は刻一刻と脱水に向かっていた。挟まった髪のせいで座ることもできず、正しく経つこともできない。
倉庫の中から罵倒してくる男の声は3時間前と比べて具体性を失っていて、もはや悲鳴に近かった。
髪を切る刃物もなく、助けを呼ぶ相手もおらず、ただただまともなプレイヤーが通りかかることを祈ってみょうじは倉庫の前に立ちすくむ。

▲ ▲

みょうじが池袋で目覚めたのは、死滅回游が始まったその時からだった。
何度も出張で来ている池袋のホテルの1室で起床するとコガネと名乗る機械が眼前に浮いていて、テーマパークのスタッフのように“死滅回游”のルールを彼女に説明した。
彼女は夢だと思い適当に聞き流しつつ、身支度をして空腹を満たすために朝食バイキング会場に向かった。
時間は8時15分。パンケーキや卵料理を目の前で焼いてくれるサービスは長い列ができているだろう。楽しみにしていた朝食ビュッフェに夢の中とはいえ出遅れたことが少し残念だった。
しかし会場には誰もおらず、温かいビュッフェ料理が入った保温器やパンのバスケットだけが中途半端に並んでいる。中にはカートにのったまま通路の端に放置された料理もあった。
まるで用意していた人だけが消えたような会場に困惑し、ロビーへ向かうとそこにも人はいない。カウンターの呼び出しベルを鳴らしてもスタッフは出て来ない。
視線を外にやると正面玄関自動ドアの先の空からポタポタと血がしたたり落ちて、コンクリートに血溜まりを作っていた。遠くには人間を太らせて引き伸ばしたようなモノが歩いている。
彼女は朝食会場に戻って、コレは夢だと自分に言い聞かせる。声にまで出して更に言い聞かせた。思考の逃避に誰かがいた最後の形跡である、保温器にあったスクランブルエッグやパン、ヨーグルトを食べた。手が震えて、すくったヨーグルトが何度も器に落ちる。彼女にずっと付き添うコガネはおしゃべりで、この気が狂ったゲームの総則、彼女の術式、呪力の扱い、色々な情報提供をしてくれた。その中で彼女がわかったのは、これは現実で、このままだと自分がそう遠くない未来に死ぬということだった。
「生き残るには人を殺せってこと?」
「そー!!」
コガネは陽気に返事をした。

みょうじは朝食会場からつながるキッチンに向かい、レザーカバーがついた包丁を何本か拝借し、水が出しっぱなしになっていた蛇口を閉め、バックヤードにかけてあったジャンパーを借りてホテルの周りを偵察しに出かけた。
血がしたたり落ちていた正面玄関に向かうと血溜まりに倒れている人を見つけた。彼はかひゅかひゅと浅い息をして、右腕以外の四肢が自力では曲がらない方向を向いている。
自動ドアの真上の外壁がへこんで割れ、そこを中心に血が放射状に飛び散っていた。かなりの力で彼は壁に叩きつけられて、そこにへばりついたまま下に血だけ落としていたのだろう。そしてとうとう彼も地面に落ちた。
みょうじは真っ青な顔で彼を見下ろす。初めてもう助からない人間を見たことと、人間を壁にこれだけ強く叩きつけられる存在に恐怖していた。彼は薄っすら目を開けると、唇だけ動かした。
「……こうなってから超美人に出会うのとか、ついてなさすぎ」
そしてみょうじのジャンパーのポケットから出ている包丁の柄の部分を、震える右手で指さした。

みょうじはホテルの化粧室に戻り、手を洗いながら胃の中身を全部吐いて鏡を見つめた。
やはり目も鼻も口もほくろも知っている通りの位置にある。昨日と同じ「超美人」と言われるような顔ではないし、涙と汗で化粧は崩れ、顔色は茶色にくすんでいる。
振り返るとみょうじが作った真っ赤な足跡が続いていた。血はもう靴の裏にしかついていないのに、血と脂肪と死の独特の臭いが鼻から取れない。また吐いて鏡を見つめる。
頼まれて彼の首を切ったことより、事切れて安らいだ彼の顔の方が、みょうじに現実を突きつけてきた。本当にコガネがいう“私の術式”が発現している。

みょうじなまえは5ポイントを獲得した。


みょうじの術式は、相手が好ましいと思う顔に自分の顔を見せるという幻覚能力だった。本来なら密偵や暗殺向けに任意の顔に見せることが可能だが、彼女は術式を使いこなせず、生存本能から「相手が攻撃をしてこない顔」という条件を無意識に設定した結果「相手に好かれる顔」を見せていた。
おかげで行く先々で戦闘は避けられたがイヤな目に遭った。特に多かったのは結界内に絶望したり、治癒不可能な怪我を負って死にきれない人達にとどめを刺すことを迫られた。一緒に逃げようと追いかけられたり、目が合った途端に誰かを思い出されて泣きつかれたりもした。
今までの日常ならナンパや告白が起きるのかもしれない。けれどこの状況ではみんながみょうじの顔に助けを求め、死滅回游開始から4日で彼女は4人にとどめを刺し、5人に泣き止むまで付き添い、6人の心中を断った。

そして5日目の今日、声をかけてきた男が「妻が怪我をして動けないから助けてくれ。倉庫に隠れて介抱している」と言うのでついて行くと倉庫に閉じ込められた。
男は非術師で心中を望んでおり、倉庫の中には大量の煉炭があった。この状況で自分で自分を殺せる人間はほとんどいない。だから彼女はこの光景に失った日常を一瞬感じて「ここで終わってもいいかも」と思った。が、次の瞬間には振り払うように男を殴りつけ、急いで倉庫を出て、後ろ手でドアを閉め外鍵をかけた。
そして自分の髪がドアに挟まっていることに気が付き、今に至る。

▼ ▼

100人乗っても大丈夫ってのは、倉庫の横壁がすごく丈夫だから。だから、非術師である彼が中から破壊して出てくることはない。
もう10回は同じことを考えていた。殺したくはないし、殺されるのもいやだ。でもこんなところに人は来るだろうか。池袋のレストランの裏。ゴミを入れていたイナバ物置の中身を彼がわざわざ外にだして掃除して作った心中場所。左右を店の壁に囲まれた細い裏道の奥。でも道の入り口は大通りだから、運良く人が通る可能性はある。……前の日常なら。
池袋は物資争奪が起きていて、非術師や戦うことに抵抗がある人達は次々逃げ出して行ってる。だからここでピンピンしてる人は殺すことに容赦がなくて頭がおかしい。
私は仕事で何度も出張したおかげで池袋には土地勘があり、そしてここに集まる強者達は池袋に詳しくないから、こっそりと息を潜めていれば命はつなげた。

ここで死ぬのかな。
日が暮れてきて、光が差さない裏道が更に暗くなる。あと2晩くらいなら我慢比べはできそうだけど助けを呼ぶ声が出せる体力を保てるのは今晩までだ。首が引きつれて痛い。足も限界だ。喉も枯れて粘膜が引きつれる。
視線を落としそうになったとき、大通りとつながる道の入口を誰かが横切った。

「た、助けてください!こっちです!道の奥!!」

危険なプレイヤーかもしれない。だけどこのままここにいても死ぬ。必死で何度も声をあげていると、さっきの人は戻ってきて姿を現す。
スーツの男の人だった。変な格好をしているプレイヤーは大体頭も術式も変だから、少しだけホッとした。ただ、普通の格好をしている人が普通という意味ではない。前者よりまともな可能性が高いというだけだ。
「髪が倉庫に挟まって動けないんです!鋏か何か持っていませんか?」
呼びかけると男の人は乱れのない足取りで私の方へ近づいてきた。手には細長い棒のようなものがある。

「持っていたとしても、この状況で君に渡すと思うか?」
ひどく落ち着いた、滑舌のいい低い声だった。
「投げてくれればアナタがここを去るまで手にしませんから!」
「そこで何をしている?」
倉庫の中の男が火がついたように暴れ出したことに、彼は警戒した声を出す。光がなくてお互いの顔が見えない。私の術式は通らない。
状況を話すと彼は「なるほどな」と頷いてこちらに向かってくる。そして「ちなみに俺は弁護士で相談すると30分5,000円かかる。すでにもうかかっているが金はあるか?」と言ったがすぐに「冗談だ」と付け足した。
「弁護士ってそういうジョーク言っていいんですか?」
「良くはない」
彼が私の髪の様子を見る。「しっかり噛んでるな」という手からはあの棒が消えている。術式で作ったものなのだろう。彼は私の前に立つと私を見下ろした。お互いやっぱり顔は見えない。私の術式は使い勝手がいいのか悪いのか。

「君はここの土地勘はあるか?」
「え……?」
「ゆっくり休める場所を探している。俺はこの辺りの土地勘がなくてな。人に聞こうにも信憑性に欠ける。今晩無事に眠れそうな所を知っているなら手を貸そう。あと俺は現在85点持っている。この状況が俺を陥れる罠であれば、君が無事で帰れないことを保証する」
淡々と冷静に、でも語りかけるように話すさまは本当に弁護士相談に来た気分だ。彼の足元から湧き出るような呪力に実力の差を実感する。
「地元民じゃないけどそこそこ……私がベースにしてるところは、アナタの希望に添うと思う」
「交渉成立だな」
彼の手にさっきのとは違う小さなハンマーが現れた。そして次の瞬間にはそれは細長く伸び、彼は倉庫のドアの鍵を開けて私の髪を抜き取ると、そのままハンマーを倉庫の真横に向けて振りかぶった。倉庫に接触するギリギリでハンマーは膨れ上がり、遠心力と重さと呪力が倉庫に激突する。
金属がひしゃげる音、倉庫が建物にぶつかって砕ける礫が私の頬をかすめ、舞う砂埃の中で私の腰は抜けた。

肩を貸してもらって路地裏から出ると、夕日が出ていた。
彼と目が合う。眠そうにも厳しそうにも見える三白眼に、高く突き出た鼻梁、黒髪は清潔そうに整えられている。彼も食い入るように私の顔を見つめた後、顔ごと逸らされた。
「まずその靴をどうにかするか」ヒールが折れてどこかに行った私の右足について彼は言う。
「靴はベースにあるので大丈夫です。ところで私の顔、どう思います?」
「突然だな…………まぁ、魅力的だと思うが」
目的地に向かう道すがら、私は彼に自分の術式を語った。私へ攻撃意思がない人には明かしてもいい手の内だし、むしろ彼にとって無害な存在であるということを印象づけておきたかった。
「なら、みょうじさんの今の顔は本当の顔じゃないのか」
日車と名乗った弁護士は、今まで出会った人間の中で1番理性的に私の顔を見てくれた。そして私の術式は格上の人間にもきちんと機能しているらしい。

▼ ▼

「ここです」
日没直後のルミネ池袋は反射する光が無く、ただ黒くそびえ立っていた。そして暗い中でも分かるほどの大穴がガラスにあいている。また何かが外壁にぶつかったんだろう。きっとプレイヤーのタケコプターおじさんの仕業だ。他のエリアに行ってほしい。同じガラス外壁の東京劇場はきれいに残っているのに、運が悪いビルだ。
「これ使ってください。中は電気がつきません」
ルミネ池袋1階、店頭に置かれたバッグの中に隠しておいた懐中電灯を日車さんに渡す。ヒールの折れたパンプスを捨てて、スニーカーを拝借する。日車さんを先導してエスカレーターを昇ると、彼は薄暗い辺りを見回し「探検してる気分だな」と言う。ちょっと天然なのだろうか。
電気が止まっていてエスカレーターはただの階段になり、光が届かないせいで屋内は奥まるほどに真っ暗になる。エレベーターも停止中のため、人が上階に向かうルートがエスカレーターに限定されたのは夜襲を警戒しなければいけない今はありがたいけど。

目的地に着くと彼は目を丸くした。ルミネ池袋7Fの無印良品、ここが私のベースだ。生活に必要な物資がほぼすべて揃い、店内は死角が多く隠れやすく、フロアに対して店全体が開けているので誰かが上がってきたら音で気づきやすい。
「確かに……ここなら衣食住すべてあるな。しかし本当に人がいないのか?真っ先に誰かが根城にしそうだが」
「池袋は強いプレイヤーが多い。そういう人はスーパーや民家みたいな分かりやすい所で悠々と物資調達できます。逆に強いプレイヤーの使いっ走りにされる人や非術師は、この建物は死角が多すぎて避けます。池袋に人が集まってなかった1日目や2日目は日車さんの言う通り立てこもってた人が多かったんですけど、別の大きな商業施設で非術師狩りがあってたくさん死者が出てからは、ここには私しかいません。あと1番大きい要因は、池袋にいる強いプレイヤーのほとんどは男で、女性向けのビルの上階には詳しくないんですよね。だからスルー」
それに真っ先に私がフロアガイドを隠して回ったのもあり、ネット環境がない今は土地勘がある人間しかこのビルに何が入っているか分からない。
「なるほどな。確かにここなら数日ゆっくり眠れそうだ」
「日車さんでも夜襲されるんですか?」
「されなくても人が近づくだけで今は目が覚める。まともに熟睡できていない」
彼は辺りを照らしながらぐるりと店を1周すると、店の外に出ていった。
「他のお店で休むんですか?」
「いや、少し気になることがあってな。君は休んでてくれ」

カセットコンロでお湯を沸かしながら今晩はカレーにしようかと棚を物色していると、激しく何かがぶつかる音がする。恐る恐る音の元を探りに行くと、エスカレーターの前に日車さんがいた。彼は床にモバイルライトをばらまいて、近くの店から持って来たのであろう空っぽにした商品棚を、エスカレーターの上から下に向かって次々蹴り落としていた。
「な、なにしてるんですか」
「やらないよりマシな程度だがバリケードを作っている。他のフロアにも落として来た。誰かが上がってくるならこれを越えて大きな音が出る。死滅回游が長引けば、ここも虱潰しにあたられる可能性が高くなるからな」
確かにそう。私も一応エスカレーター周りにはガラスを撒いて、踏まれたら音が出るようにしていたが、ここまでのことは思いつかなかった。顔と話し方に似合わない荒っぽさに商品棚は蹴られ、殴られ、いい感じの形にされて落下していく。
「やってみるか?」
日車さんは私に向かって言う。ライトの明かりが微かな火みたいに下から彼の表情を照らす。彼は薄っすら笑っていた。
エスカレーターの上から棚を蹴り落とす。その一見マヌケで、そして恐怖を感じる暴力的さ。平常時にやったら警察に捕まる行いが、暗がりで光に照らされることで一種の儀式のように見えた。
私も棚をひとつ下に蹴り落とした。下に溜まった他の棚にぶつかって跳ね、耳を塞ぎたくなるような音を立てて視界から消えていく。
「……エスカレーターの上から物を落とすのは意外と楽しいな。君はエスカレーターの逆走はしたことあるか?」
「無いですけど」
「俺もない。一度やってみたかったな。まあ、どこかまだ電気が通っているだろ」
最後の1番大きな棚が落とされた。派手な音がして、日車さんはやっぱりちょっと笑っていた。この人思っていたよりやばいかもしれない。
「あの……レトルトカレー温めてますけど、食べます?」
「いいな。食べる」
はっきりとした滑舌の抑揚の無い即答がフロアに響いた。

▼ ▼

「思ってたより本格的なカレーだったな」
キーママタルというエキゾチックなものを食べた彼は、私に話しかけているのか独り言なのかわからない曖昧な声量で話した。夕食を終えて私と日車さんは展示品のベッドにそれぞれ横になる。私達の間にあるベッドに置いたモバイルライトの塊は手元を照らすには十分だが、遠くまでは届かない。光が商品棚の影を薄黒い壁に見せた。
前にベッドを探してここに来て、このベッドの寝心地を確かめた時に「もう無印の天井をじっくり見ることは無いだろうな」と思ったが、まさか寝泊まりすることになるとは思わなかった。

「日車さんは無印にはあんまり来ないんですか」
「仕事の一環で何度か来たことはあるがプライベートでは1度もない。……子供の頃、学校に泊まるというのをやってみたくて、実現はしなかったが運動マットを教室に敷いて寝たり、家庭科室で夕飯を作る妄想をした。この状況はそれに近いな」
「私はクレヨンしんちゃんでデパートに泊まるのを見て、こういうのには憧れましたね」
「分かる」
分かるんかい。
「ところで君はさっきから何を書いてるんだ?」
日車さんが体を起こして私に視線を向ける。驚いた。彼は私に興味なんてないと思っていたから。
「物資を拝借した店の名前と拝借した商品金額をメモしてます。出られたら返したいので」
「この状況だ。ほぼ無罪か減刑になる」
「弁護士に言われると心強いですが……これは気持ちの問題なんで。ここではみんな人間性を失って行く。そうなりたくないんです。そしてここでの出来事をしこりとして日常に持ち帰りたくない。こんなこと忘れて普通に生きて行くために全部精算したいんです」

彼は「そうか」とだけ呟いて口元を覆って俯いた。しばらく何か考えていたようだが、また私の方へ視線を戻す。
「みょうじさんの側にあるそれは財布か?…………相談料を払えじゃない。あの時は急に嫌な弁護士を演じたくなっただけだ」
「実際に相談したら30分5,000円かかるんですか?」
「あぁ」
「正規費用を言ってしまうあたり、悪いことしなれてないのでは?」
「そうだな。だからここに来てから今までやってはいけないと思っていたことをやり始めた」
「壊れてないビルならエスカレーターも動いてると思いますよ。電気自体は生きてるので」
「明日探してみる」
そこまでするんかい。

「話を戻すが、免許証はあるか?写真にまで君の術式が及ぶのか気になってな。それにもし君の術式が発動しなくなったら、俺は君の顔が判断できない」
「なるほど……。免許証ありますよ。過去の写真に術式は及ばないので、免許証には本当の顔が写ってます」
ベッドサイドに来た日車さんに免許証を伏せて渡した。「好みじゃないからってビビんないでくださいね。その辺にいそうなフツーの顔ですから」と保険をかける。
過去の彼女や妻の顔に見られて心中を迫られた時、免許証の写真で私の本当の顔を証明してきたからその件については確認済みだ。みんな術式でできた幻覚の顔を見ているのでがっかりした顔をされる。そんな私ダメか?けど、その落差のお陰で心中を免れたのだけど。
彼は隣のベッドに座り、モバイルライトにかざして免許証を確認し、右手で目元を覆って上を向いた。
「…………俺に抱かれる気はないか?」
「きゅ、急〜〜〜」
え、そういう人?意外と軽く女性と一晩熱い夜を過ごす人?急過ぎて週刊誌の見出しみたいな言い回しになってしまった。
日車さんは目元を覆ったままうつむく。自分で言っておいてそんな反応されると私が言ったみたいな気分になってきた。

「結婚前提じゃない人とそういうことするのは、ちょっと」
「俺もだ。断っても断らなくても、ここで抱かせてもらう気はなかったから安心してくれ……すまない」
「じゃあなんでそんなこと聞いたんですか?」
「性の不一致は俺にとって好みの大きな要因の1つだ。もし君が承認してくれた場合、俺の君の見え方に影響するんじゃないかと思った」
「…………もしかして、私の術式……最初から日車さんに効いてなかったんですか?」
「どうだろうな。他の人間を入れて証明する必要はあるだろう。効かなかったわけではなく、俺の外見の好みがピッタリ元の君の顔と同じだったから術式発動の必要がない、と判断された可能性があるからな」
日車さんが今見えている私の顔と、免許証の私の顔が同じ。そして日車さんは私が今ここで抱かれてもいいと言った場合、彼の好みから外れる人間性のため、術式が発動していれば彼の私の見え方に変化あるのではないか……ということか。
確かに私の顔以外の要因が、相手の好みから外れた場合にどうなるかは分からない。そこまで深く話す前に、殺すか殺されるかの数日だったから。確かめておく必要はありそう。でも本当に私の元の顔がドンピシャ日車さんの好みで術式が発動してなかったら面白いな。……面白いという感想で濁しておこう。そうでないと今日の眠りが浅くなりそうだから。


日車さんは私に免許証を返して彼のベッドに戻り、寝転ばずに私の方を向いてベッドに座る。
「ここがマトモな日常なら君を食事に誘いたかったが、マトモな日常の俺は仕事にしか興味がなかったから、もし街ですれ違っても君のことは1日も経てば忘れていただろう」
「……そ、そうですか」
さっきちょっとだけ生まれた私の小さな喜びがもう息絶えそう。
「歳が行ってからの恋愛は衝動的ではなく、もっと打算的になるものなんだがな」
「いやいやそれは50代くらいの人の恋愛感でしょう。日車さん何歳ですか?」
「36だ」
「全然じゃん」
「そうなのか?」
「そうですよ」
「……そうか。ちょっと出てくる」

答えの出ない会話を切り上げるように彼はモバイルライトひとつ持ってベッドを離れた。音からして店の外まで行ってる。夜は明かりを消すか漏れないようにして、完全にレイアウトが分かっているこの店内から出ないようにしていたけど……彼なら問題ないだろう。
数分して戻ってきた彼の手には、何かのボトルとワイングラスがふたつあった。

「食事に誘った気分だけでもと思って探したら梅酒があった。飲めるか?」

頷くと、梅酒がワイングラスに注がれる。それが置かれた私達の間にある白いベットは、まるで白いクロスが引かれたテーブルの代わりのようだった。口寂しさを解消するために拝借していたイカ足カルパッチョを器に盛ってベッドの上に出す。するめシートと迷ってこちらにしたのは、白いテーブルクロスにあうのは横文字の料理だろうから。お酒は梅酒だけど。
差し出されたグラスを受け取ると、モバイルライトに映し出された影が床に伸びる。影だけ見れば、いいレストランで乾杯をしているように見えるかもしれない。けど外は血と死体に遭遇する街並み。これが首都東京の夜だなんて誰が信じるだろうか。
でも私達はそんな中で無印良品に泊まって、デートのフリして梅酒を飲もうとしている。それが変で、怖くて、絶望的で、非日常的で、思わず笑ってしまった。「死滅回游が終わったら食事に」と言わない所、本当に私達気が合いそうだ。でもだから私も言わないけど。

キン、とグラスをぶつけると、日車さんのグラスからうっすらと水滴がにじみ出て、シーツにシミを作った。
「きっと元からヒビ入ってたんですよ。死滅回游2日目になにか大きなものがこのビルにぶつかって停電したとき、ビル全体が揺れたから」
彼は黙ったままグラスを見つめる。なだらかな眉と眠そうな目は少しこの状況を残念そうに思っているように見えた。しばらくすると私のグラスもじんわりと水気が滲み出てくる。
「私のグラスも割れてます。もう瓶ごと回し飲みしましょうよ。ワイルドに」
「……いや、酒をもう1本持ってくる」
日車さんはまたさっきと同じようにモバイルライトひとつ持って闇に向かって行く。その背中には何か使命感のようなものを感じた。
ライトを持つ彼の右手だけしか見えなくなった頃「やったらいけないと思っていたこと、やるんじゃないんですか」と声をかけると、光は止まって、こちらに引き返してきた。

2022-06-08
2023-11-30 加筆修正
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