※「09.過去を夢に見る」からのif分岐


時間は22時を過ぎていた。みょうじなまえは首都近郊のオフィスビルで、書類仕事の息抜きに買った新作缶コーヒーがあまりにまずくて顔をしかめた。席を立ち、ブラインドの隙間から外をうかがうと雪がちらついている。気に入っているコーヒーはビルの外の自販機にあった。
彼女が働くフロアのほとんどはサーバールームが占めており、事務室は10畳ほどの狭さに彼女のデスクがひとつだけ。外に向かった窓にはしっかりとブラインドが降ろされ、サーバールームに続く廊下側の壁は全面ガラス張りである。
そしてサーバーのセキュリティのために、彼女と総務部以外はフロアに自由に出入りができない。彼女はこのフロアに常駐するただ1人の社員で、サーバールームの受付兼、サーバーエンジニア兼、雑務をやっている。だから口から出るため息も他人を気にしない大きさだった。
ぼんやりと雪を眺めていると内線が鳴る。取ると別フロアにいる社員からで、もう会社を出るので施錠を頼むということだった。
早く帰ってもなにもすることがないので、彼女はここでずっと仕事をしている。ここ2年間、毎日最後に帰る社員だが体力は人並み以上にあったので苦しくはなく、そのせいでどんどん業務も肩書きも増えている。

みょうじはドリップパックコーヒーをひとつ持って、スーツの上にジャンパーを羽織り真っ暗な廊下に出る。給湯室と廊下は暖房が入らないし、電気スイッチはなぜかサーバールームの中にあり、わざわざつけに行くのが億劫で真っ暗な中を突き進む。給湯室にたどり着き、切るような風の音を耳にすると、お湯を沸かすためにつけたコンロの火の青さまで寒々しく感じた。
沸騰を待つ間、捨てるつもりで持ってきた缶コーヒーを無意識に口に運んでまたみょうじは顔をしかめた。流しに中身を捨てると、銀色のシンクに黒いものが滲み出るようにゆっくりと流れて行って、寒さとコーヒーの不味さがそれを別のもののように錯覚させた。みょうじはまずいコーヒーがとにかく嫌いだ。
「私と一緒に、理子ちゃんを殺したヤツらを潰しませんか」
そう夏油傑に言われた、あの冬の日を思い出すからだ。

▲ ▲

「理子ちゃんは星漿体になってません。殺されました」
そうみょうじに言ってタクシーを見送らせた夏油と一緒に、みょうじは空港近くのファミリーレストランに来ていた。眠りかけていた双子の子供は店内の明るい照明と食器がふれあう高い音で完全に目を覚ます。
みょうじはドリンクバーのコーヒーのまずさに顔をしかめながら、夏油の語る星漿体護衛任務の顛末、夏油の追放の経緯、彼のこれからの方針について黙って聞いていた。夏油はこういう嘘をつかないと知っていたから、この話が疑うことさえできない事実であることが増々みょうじの胃をかき混ぜる。落ち着いた穏やかな語り口はまるで子どもを寝かしつける読み聞かせのようで、実際子供らは自分たちについて語られる前に夏油の膝で眠ってしまった。

話し終えた後、夏油は冷めきったコーヒーをすすった。
「なので私と一緒に、理子ちゃんを殺したヤツらを潰しませんか」
「教団員を殺して回るってこと?」
みょうじが知る夏油には無い選択肢だが、今ならしかねないなと1番確率が高そうなものから聞いたが、夏油は静かに首を横に振った。
「色々考えてることがあって。そのためにあの教団の構造や信者は利用したいんです。信者は頭の悪い猿ばかりで理子ちゃん殺害を企てたのは幹部のみ。そこを潰します。ただ、そこまでのセッティングにそれなりの資金が必要で、それを先輩にお願いしたい」
「非術師を殺すのに協力してほしいとか、理解を求めに来たわけでは?」
「そこまでは。賛同して仲間になってもらえれば1番嬉しいですけど」
星漿体護衛任務後、ずっと浮かない顔をしていた夏油の顔には今は影ひとつ無く、晴れ晴れとした笑顔を浮かべてみょうじに笑いかける。
他人に理解を求める段階だったらここまでなってないか、とみょうじは思いながら静脈の浮いた夏油の腕をじっと見つめていた。
夏油がみょうじは金を持っていると踏んだのは、彼女が術式で御三家の呪具修理や趣味で呪具収集をよくしていたからだ。事実、それにより彼女には贅沢しなければ一生働かずに生活できる金があった。身を削る術式のせいで有事の際の蓄えとして稼いでいたものである。
「ゆっくり考えてください」
そう言って夏油はパスタのフォークを持ち、眠る子供達を見つめた。その眼差しはかつて、被害者の非術師に接するものと同じだった。
自分より感情的な人間を見ると逆に心が閉じる性があるみょうじは、そのせいで冷静に夏油の話を理解することができた。彼に協力して起きること、その後の自分の未来、残してきた後輩のこと、その全部をきちんと考えて口を開く頃には夏油の皿は空になり、みょうじのコーヒーは最初の一口しかすすんでいなかった。
「傑の気持ちはわかる。理子ちゃんを殺した教団の件も賛成。でも私は非術師や術師の括りだけで人を見てない。最低な人間はどちらにもいて、分母数の問題だけだと思ってる。だから教団の件だけ手伝うよ」

ファミレスを出ると雪が降り始めていた。街灯でぼうっと浮かび上がる綿雪を見ながら「つもるかな」「つもらないといいですね」と話すふたりは血なまぐさい約束を交わしたもの同士には見えなかった。
「私ってどうなるんだろうな。突然の失踪からの処刑対象に手を貸した罪でついでに処刑とかかな」
「まあ、資金提供がバレなければそれはないでしょうけど。やめときます?」
「呪具のほとんど売り払ったこのタイミングで言う?」
「え。もう売れたんですか」
「ほしがってる人は前からいたからね」
「ハハハ。……でも意外でした。もっと先輩は驚くと思ってましたから。だから人が多いファミレスに入るか迷ったんですよ」
「最初ちょっと渋ったのそれ?非術師多いからかなと思ってたよ。ありがとね」
みょうじが深く吐いた息は白くなり、すぐにかき消えた。タクシーがあまりに来ないので配車を頼もうかと携帯に電源を入れると、不在着信に「五条悟」の名前が3つ並んでいた。
「今はなぜか、怒ったり悲しんだりする気持ちが沸かないんだ。きっといつか出ると思うけど。……星漿体の仕組みを知ったときから、ずっと呪術師界に不信感はあった。それに傑の言う通り、このまま行けば術師の死体が積み上がる」
しばらく無言で佇んでいると暗がりの中から白いライトがふたつ向かってくる。夏油が手を上げると運良くタクシーで、みょうじは携帯を握った手をおろした。
「……悟とは会わないでくださいね。私に協力したことなんて知ったら絶対捕まえられますよ」
「そう思う?とりあえずお金は早めに渡す。……どうするかな。人里離れて野菜でも作るか」
「都内で隠れて水耕栽培とかにしてくれません?この子たち女の子ですし、事務方も欲しくなると思うので」
夏油はタクシーを譲ろうとしたが、みょうじは彼の背中の双子に視線を送って1歩下がった。夏油は会釈してタクシーに乗り込み、窓越しにみょうじに軽く手を振ると、茶髪の子供が薄く目をあけて夏油の真似をする。みょうじは手を振り返しながら、夏油の笑顔が安心を含んでいることに気がついた。
(資金の目処がついたからか、子供たちの成長の助けを手に入れたからか、私を殺さずに済んだからか……)
自分のタクシーを待つ間しばらく考え、最後のは違うなと結論を出し、携帯を握りつぶしてバッグの奥にしまった。
(呪術師を辞めるって何度も考えて、その度何度も持ち直してきたのに、終わりがこんなに突然になるとは)
寒風吹きすさぶ雪で視界が白くベールを被る。それはまるで別世界に迷い込んだようだった。ただの感傷だと理解しながらも、考えていた未来も今までの過去も雪の中でおぼろげになり、浮遊して消えていくのをみょうじは感じた。

▼ ▼

沸騰を知らせるヤカンの甲高い音に驚いて肩が窄まる。
ドリップコーヒーにお湯を注ぎながら窓を見ると、風も雪も強くなり街全体が白んでいた。電車止まるんじゃないか?徒歩通勤でよかった。
コーヒーをちびちびとすすっているとスマホが震えた。表示されたのはここ1ヶ月連絡がなかった相手で、彼とのつながりがなければ私もうフツーの会社員だな、と再認識した。
『お疲れ様です、先輩。まだ職場ですか?』
「おつかれ。うん、仕事」
『いい加減、転職はどうですか?もっと楽で儲かるのを紹介しますよ』
「いやー……これ性にあってるし。オフィスの環境もいいし。それでどうしたの?なんか後ろキャッキャしてない?」
『今日は新しい家族の歓迎会ですき焼きを食べに来てます。今日連絡したのは美々子と菜々子が先月からずっと先輩に会いたがってて、そろそろコチラに来られないか電話してほしいとせがまれまして』
「都内近郊移動アレルギー設定もう効かない?」
『流石にもう中学生ですからね。やはり悟を気にしているんですか」
「気にしてるのは悟じゃなくて冥さんの烏だよ。烏捜索年間契約が止め忘れたサブスクみたいに続いてる可能性がある」
『ウチに来てもらえれば烏は入れなくしますし、それより、また呪霊で迎えに行きましょうか?』
「ペリカンは目立つでしょ。“窓”とかに見られるとまずいし。そうだなー……関西の方に2人を私が連れて行くのはどうかな。USJとか」
『なるほど、いいですね。それで話しておきます。……ではまた連絡しますね。A5和牛を食べなければ』
「り、リッチマン……」
『東京に来てくれたらいくらでもごちそうしますので。家族も喜びますよ。待ってますからね』
では、と通話が終わる。菅田さんが傑の皿に肉を盛りまくっている光景が容易に浮かんだ。

私は、園田に手を下すことも、アイツが死ぬところも見なかった。見ても気分は晴れないし、むしろ悔しくなると思ったからだ。1回死んだら全部済むなんて楽すぎるだろ。
傑が教団を乗っ取るためにまとまった金を渡した。後にも先にもそれしかしてない。資金提供後は悟を避けて国内外をさまよっていたが、いくら六眼でも悟の視界に入らない限りは見つからないのだから、人に隠れて定住するほうが安全だと思いついた。
そして今から3年前。傑が冥さんに偶然出会って、悟が私を探すのを冥さんに依頼していると聞いた。冥さんは探している理由は知らないけど「みょうじさんがもし生きていたら、年契約で結構おいしい額だから隠れるの頑張ってねと伝えておいて」と励まされた。
だから灯台下暗し的に東京近くのこの街で、傑の紹介をもらって今の仕事についた。この会社の社長は傑をかなり崇めており、事あるごとに私だけのこのフロアに来て傑への感謝と信奉する心をハキハキと語る姿はまあまあ恐ろしく、すぐに会社は潰れるだろうと思っていたが経営の腕はマトモで倒産どころか業績は上がり続けている。そして売上はほぼ傑に流れているらしい。
ここに就職を決めたのは職種でも社風でも売上でもなく、オフィス環境だった。高層ビルの上階で烏はほとんど来ず、サーバーフロアはセキュリティのため人の出入りを制限しているので誰かが来る前には必ず連絡があり、悟に任務が振られる可能性が高い1級呪霊が出る素地も街にはない。身を隠すにはうってつけだった。

しかし、冥さんから話を聞いてから3年も立った。もう悟は私を探してないだろう。探す理由がわからないから断定できないが、傑から聞いた噂では彼は高専所属で相当忙しいらしく、呪術師界では失踪理由不明、生死不明の人間に構っている余裕はきっと無い。ただそれでも、漠然とした不安があった。
そんな客観的な考えと精神的な問題が対立し続けて、気力を失った私には決断ができず、ただただこのオフィスにいる。気力の回復を待ったが今日まで少しも良くならない。理由はわかっている。
あの日の後も沸き上がってこなかった。理子ちゃんが殺された悲しみや怒り、呪術師界への憤り。それらが四季の移ろい、太陽の傾き、夜の静けさ、日常のすべての底に貼り付いてずっと毒のように気力を削る。非術師の生活をし始めたからこそ、今までごまかせた感情や疑問が浮き彫りになって忘れることができない。
……雪とマズいコーヒーのせいでどうも感傷的だ。やめよう。コーヒーを飲み干して、もう1杯淹れて給湯室を出る。
吹き付ける風の鋭い音がしてビルが揺れる。外はずいぶんと荒れているようだ。この天気の中で帰るのは億劫だし、気分がマシになるまで仕事をしていようか……こんなに雪がひどいなら、明日の会社は休みかもしれないし。

廊下を曲がり、仕事部屋がガラス越しに見えた。あるのはいつもの無人の私のデスクか、傑について語りに来た社長がいるかなのに、違った。誰かが私の椅子に座っている。こちらに向けられたのは椅子の背で人の身体は見えないが、リクライニングの固定をわざわざ解除して背もたれを前後にゆらゆらと揺らしていた。
消去法で専用カードキーを持つ総務のだれかだろうが、みんな帰ったんじゃなかったのか?いや総務にあんな楽しげな人いた?いい機会だからここで知り合いの1人でも作っておくのがいいかも、と思ったときに、椅子が回転してこちらを向く。
男だった。金具ボタン以外は真っ黒なトップスに白い髪、目元を包帯で巻いて封じて、さらにヘアバンド代わりにして前髪を上げている。足元は見えないが、肘置きに置かれた腕の長さからも相当な長身だろう。オフィスビルにいるのはどう考えても似合わない風貌は、黒と白のコントラストが効いていて、上質なサスペンス映画のポスターみたいだった。
だからその現実感のなさに判断が遅れた。光に目が慣れて、その整った顔立ちを思い出し、彼の口角が上がった時にやっと状況を理解した。
何度かこうなることは想像していた。ただ実際その時が訪れると予想とは大きく外れた動きになる。真っ先に落とすと思っていたカップは手の中にしっかりとあったが、腹の奥に鉄でも詰め込まれたような感覚が私を逃げ出させなかった。
悟は立ち上がると、恭しく椅子の背に両手をかけて無言の笑顔で座ることを促した。

「久しぶり。なまえ先輩」
ドアはカードキーで制御されている鍵の部分だけが破壊されていただけで、部屋の中は私が席を立ったときと同じだった。部屋には入ったが椅子に座る気にはなれず、手近なところにカップをおいてドアに寄りかかった。
「確認だけど、任務関係で偶然来たとかではない?」
「ないよ。探しに来て、ここにいる」
私の視線に気がついたのか悟は包帯の縁に指を置いて「サングラスの代わり。かっこよくない?」と口元だけで笑う。
「子供に怖がられるのでは?」
「あんまりコレで子供に接したことないな。僕は先輩のスーツ姿もいいなと思ってたのにまさか過ぎない?」
昔より声のトーンがあまり上下せず、一人称も話し方も呪力の流れも随分変わったのに、ノリだけは高専の頃と同じで話す歪さが嵐の前の静けさのようだ。鈍らないように身体は鍛え続けていたけど、人の心を読み取る力はずいぶん衰えたなと実感する。
「なんで出て行ったの?やっぱ天内の件?……単刀直入すぎ?それ以外のことは大体調べがついてるからさ。うわって顔しない。ずっと聞きたかったことなんだから教えてよ」
「……理子ちゃんの件と呪術師界のやり方」
「僕の存在って歯止めにならなかった?」
「……なった可能性もあった。でもあの時はどちらを優先したかじゃなくて、どちらに先に会ったかが重要だったんだ」

もしあの時、傑と何もなく高専に帰って理子ちゃんのことを知ったとしたら、やっぱり呪術師界を出ていく選択をしたと思うが、悟に強く引き止められたらそのまま残っただろう。
家族の願い、大切な同級生や後輩、呪術師界のやり方への積もる憤り。それらを考えて呪術師界に留まること、出ていくことのどちらを取るか在学中いつも考えていたが、自分では決められなかった。ただいつか誰かに、何かに、強く背中を押された時にどちらに行くか決意が固まるだろうと思って、ただレールに乗ったままだった中で先に傑に背中を押された。
そう語ると、悟は「わかった」と軽く明るい声でシンプルな返事をした。想定の5倍軽かった。
「もっと責められると思った」
「今の聞いて責める気無くなった。見つけたら言いたいことあったんだけど、いざこうなると何にも出て来ないね。ついさっきまでアタマん中あったのに、先輩の声きいたら途端に滅茶苦茶ゴチャゴチャし始めて、それで先輩の話きいたら」
悟は一瞬固まった後「安心してどうでもよくなった」と呟いた。
「コーヒー飲めば?冷めるよ」
「……なんで今探しにきたの」
「そろそろ僕から逃げるより、会いたくなるんじゃないかって思って」
「コーヒー吹いたからちょっとそこのティッシュ投げて」
「嘘。硝子が口座の情報教えてくれた」
ティッシュボックスを投げると、悟は早口気味に言った。

口座情報。傑の希望資金よりやや多く稼げたので、硝子ちゃんに残りを送金したときに使った口座。それっきり使ってないが、傑関連で調査を申請すれば銀行から情報を引き出すこともできるだろうと思っていたが、何年もされなかったのでもう無くなった手だと思っていた。硝子ちゃんが口座情報をそもそも隠しててくれたのか。
「でも硝子、相当嫌だったみたいだけどね。非術師として生きてるなら邪魔するなよって釘をかなり刺された。まあ口座情報なくても、冥さんに本気だしてもらうくらい金積む予定だった。……僕さ、今、色々考えることやしなきゃいけないことが増えて、だから先輩に会いたいって硝子に愚痴ったら、オマエの顔ひどすぎるから教えてやるって」
かっこ悪いところ聞かせたくないから、一部カットしてる、と悟は指で作ったハサミを動かして椅子に腰掛けなおす。
「疲れたら好きな人に会いたくなるでしょ」
「私のこと調べた悟なら、気持ちに応えられないことはとっくに……」
話すのを中断するように悟は右手を突き出すと「もう1回」と呟いた。
「私のこと……」
「俺の名前をもう1回呼んで」
「悟」
「うん」
うつむいた小さな返事は嘘のように高専の頃と全く同じで、幼さと勝手さと少しの甘えが混ざった声だった。
「……あのさ、なんで俺には何も残してくれなかったの」
「何残していいか分からなかったんだ。私が残せたの、あの時はお金くらいしかなかった」
「最後に1回、会ってくれるだけで良かった」
「傑とそれして、悟は傷ついたろ」
包帯で目元を隠していても悟の顔が少し変わったことが分かる。好き勝手世界を変える力があるのに、彼の方が責任や使命で世界に変えられていた。
生きてる先輩、いなくなった先輩。それらを見ていて、みんなこうなることはわかっていた。だから硝子ちゃんにはもし呪術師界と縁を切っても当分暮らせるお金を振り込んだ。彼女には何度か自分の心の内を話したから、何を言わずとも理解はしてくれると思ったが、悟には語ってなかった。
悟はお金を持ってるし、御三家の彼は呪術師界から抜けないだろうし、1度直接話そうかと思ったが、あの親友と呼べるほど仲が良かった傑と悟が最後に1度会って修復不可能な決別をしたと聞いてから、私と会って同じことが起きる可能性を考えると、何も残せるものはなかった。
「先輩の家のことは家族から聞いた。知ってもずっと探してた。俺だって先輩を忘れた方がいいだろうと思ったけど、先輩以上が見つからない。だからここまで来たし、何も残されなかったことに妬いて理由を聞きたかったってのもある」
「……ごめん」
「俺のこと考えて、アレがその時のベストだったんだよね?」
「それだけは間違いない」
「……そ」
それ以上は無言だったが、しばらくして悟は「あーー」と呻いて椅子の背が折れそうなくらいのけぞると立ち上がった。
「理由分かったからいい。謝らせたかったわけじゃない。……あー……この話しの続き、こんな辛気臭い狭い部屋でするの無し。場所、変えようか」
悟は言葉遣いこそ最初のここでの振る舞いに戻ったが、雰囲気は完全に高専の頃の彼に戻ってしまい、デスクにかけていた私のバッグを持って私の両肩をつかんだ。
「帰ろ。なまえ先輩の家。いま部屋ひとつ余ってるでしょ」
「そこまで調べたの」
「いや調べるでしょ普通。会いに行っていいか色々気を遣ったんだよ」
「普通か……?」
「そこ、僕が住むから。部屋片づけよう」
「え?今高専所属で何やってんの。ウチから都内に毎日行くつもり?」
「高専で教師やってる。平日は高専の寮に住むかな」
「教師?!」
悟に肩を押されるまま部屋を出て、エレベーターボタンを押されると止まることなく籠は上がって来ている。
いいのか?私は悟を傷つけたのに、こんな簡単に、何もなかったみたいに戻っていいのか。
そう考えていると悟が「いいよ」とつぶやく。……そういえば、人の心が分からないのだろうかと出会った当初は感じたけど、付き合いが長くなるに連れて私が考えていることを鋭く当てることがよくあったな。

「……もし次、悟の前から姿を消したらどうする?」
「それは確実に僕から逃げてるから今度は躊躇なく探すよ。断られても説得するし、何度でも探すからやめたほうがいい。あ、監禁とかするって思ってた?しないよ。アレ、マトモな人間なら好かれたい相手にしないでしょ。ヤバい映画の見すぎ」
「呪術師界は気軽に監禁、捕縛するでしょ」
「確かに。まあ僕は絶対にしないけど」
エレベーターのドアが開き、先に乗った悟が手招きをする。
「なまえ先輩は今のままでいてよ。呪術師界に帰って来なくていい。僕の帰るところになまえ先輩がいてくれれば良いから」
重い足を上げてエレベーターに乗り込むと、あの日掴まなかった手がひどく強く私の手を握った。

2022-10-09
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