「皆さん仲が良いのですね」

 優しく微笑みながらカップを配る彼女を見て、僕は罪悪感を覚えた。

 陰口ではないにしろ、彼女自身の話を本人に隠れてコソコソとしていたのだ。

 僕たちが彼女を目の前にしてかなり動揺してしまったのも、その後ろめたい気持ちの表れだろう。

「そう言やぁ、瑠花さんは関口先生の本も読んでるんですよね?」

 動揺を上手く押し隠して益田が言った。

 確か彼女は、関口が出て来た辺りからの話しか聞いていない筈だ。

 従って益田の話の振り方は不自然ではないだろう。

「はい。ご本人からサインもいただいたんです」

 そう言って、彼女は本当に嬉しそうに笑った。

 あの陰鬱な小説家は、幸薄そうに見えて、実はそんなに不幸ではないのかもしれない。

 僕は何故か、ほんの少し関口に嫉妬を覚えた。

「あの先生の書いた話ってのは面白いんですかい?」

 寅吉が茶を飲みながら聞いた。

 彼に至っては、動揺すらしていなかったのかもしれない。

 あの奇天烈探偵と長い間一緒にいると免疫ができて、多少のことでは動じないようになるのだろうか。

「とても興味深いです。幻想小説のカテゴリーに入ると思うのですが、少し異なる感じもします」

 先程までの笑顔はなりを潜め、彼女は真摯な瞳で僕たちを見つめた。

「幻想…架空。即ち現実ではないのですが、私には、関口さんが見ているもう一つの現実のようにも思えました。誰もが抱えている闇を抽象的に表現したものだと。そう考えるとどの作品も酷く胸が痛むのですが、直に心を揺さぶられた気がしました」

 僕の彼女に対する印象は、ここに至って大きく変化した。

 明るい光の中で綺麗なモノだけを見て、汚濁に塗れることなく生きてきた…そんなイメージがあったのだが、彼女の思慮深い回答によってそれは払拭された。

 彼女は、僕の浅はかな考えには到底及ばない程色々なことを経験し、見聞きしているのだろう。

 己の闇を、客観的に観察できる程に。

 それでも斜に構えることなく真っ直ぐに生きている。

 周囲を魅了する笑顔で。

 早苗といい彼女といい、女性はなかなか打たれ強い。

 その強さが羨ましく思えた。

「いやぁ流石ですねぇ。瑠花さんみたいな読者がいれば、関口さんも浮かばれますよ」

 相変わらず軽い調子で益田が言った。

「浮かばれるって…あの先生は亡くなった訳じゃあるまいに」

「だっていつも救われないような、沈んだ顔してるじゃあないですか」

 榎木津や中禅寺の関口に対する扱いはそれは酷いものだが、どうやら下僕からも同等の待遇を受けているらしい。

 以前益田から、同病相憐れむ云々と言われた僕は、内心複雑な気分だ。

「あの猿の言動は常に浮きまくっているぞッ。フラフラでフワフワだッ!だからちょっと位は沈めておいた方がいいのだ」

 勢い良く開いたドアの元に仁王立ちした人物、榎木津礼二郎の帰還だった。

「下僕が下僕の話をしたって全然面白くないぞ。あの猿の話はその中でも一際つまらない!」

 黒いスーツが長身に映える。
 
 白いシャツは第二ボタンまで外れていたが、元々見栄えがいいので何を着てもそれなりにキマるのだ。

 そう、後は喋りさえしなければ。

「あッ!瑠花じゃないかッ、瑠花だ瑠花♪」

 下僕三人には目もくれず、榎木津は子供のように燥ぎながら、ソファから立ち上がった彼女の前に颯爽と近付いた。

「お久しぶりです。…お元気なようですね」

 彼女は僕が見た中で、一番幸せそうな笑顔を浮かべて(少なくとも僕にはそう見えた)榎木津を見上げた。

 榎木津も満面の笑みで彼女を見つめている。

「いつもながら瑠花は可愛いッ」

 榎木津は腕を伸ばして彼女を抱き締めようとしたようだが、彼女の動きの方が早かった。

 意外な程素早くソファの後ろに回り込み、

「テストが終わったので来てみたんですけど…おかえりなさい」

 そう言って、ますます笑みを深くした。

 成程。益田が言った通り確かに逃げている。

 榎木津は仕方無く(?)彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「…また京極の所で居眠りしてただろ」

「こ、今回は寝てないですよ。ちゃんと勉強してました」

 少し身を乗り出して、膨れたように彼女が言った。
 
 心無しか頬が赤い。
 
 それにしても彼女には色々な顔がある。

 勿論誰もがそうなのだが、彼女の場合格差が大きく、周囲の人間はそのギャップに驚かされるのではないだろうか。

 大いなるギャップ。

 僕は、榎木津と彼女の共通項を見た気がした。

「勉強しすぎるから眠くなるのだ。あとは本の読み過ぎ―あッ、それはプディングだな!たくさんあるじゃないかッ」

 どうやら何かが視えたようだ。

 榎木津はプディングプディングと騒ぎだした。

 僕らはなす術もなく二人を見ていたが、彼女は榎木津のそんな様子を、微笑みを湛えたまま見つめていた。

 益田が先程言っていた通り、相思相愛なのだろう。

 彼女は恐らく学生で、榎木津とは即ち一回り程年が離れていることになるが、この様子だとどちらが年上かわからない。

 だいたい榎木津が、いい年をして子供みたいな大人なのだ。

 その後、彼女が作って来た榎木津の大好物のプディングを僕たちまでご馳走になった。

 榎木津は食べている時でさえ、美味い、流石瑠花だ等と延々騒がしく、食べ終わると今度は急に風呂に入ると言いだした。

「瑠花も一緒に入ろう」

 僕は口に含んでいた珈琲を吹き出した。

「またまたご冗談を」

 彼女が何か言おうとするよりも早く、益田が軽い調子で言った。

 軽い割には素早い応答だ。

 寅吉も唖然としている―どうやら僕が吹き出した珈琲は、全く目に入っていないようだ。

 彼女が大丈夫ですかと言って、布巾を渡してくれた。

「プディングのお礼に背中を流してあげよう」

 それは断じてお礼にはならない。否、なっては困る。

「お気持ちは嬉しいのですが、また今度」

 嬉しいのか…そして今度があるというのか。

 僕は彼女の断りの返事にかなりの疑問を抱きつつも、そお?と榎木津があっさり諦めたので、何故か安堵の溜め息を吐いた。

 両隣りの二人も、僕とほぼ同様の仕草をしたに違いない。








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