榎木津が風呂に入っている隙に、僕と益田は帰ることにした。

 彼女も中禅寺宅にプディングを差し入れするからと言って、共に事務所を後にした。

 彼女は久し振りに榎木津に会いに来たというから、もう少しゆっくりしていくと思ったので、少し意外な感じがした。

 彼女が何も告げずにいなくなったことで、寅吉が八つ当たりを受けるのではないかと少し心配になったが、すぐに杞憂だと思い直した。

 何だかんだ言っても、彼はずっと榎木津の世話をしてきているのだ。

 その辺りは慣れている筈だと思った。

「いつか聞こうと思ってたんで、この際単刀直入にお伺いしますけど」

 何の前触れもなく、益田が彼女に言った。

「一体榎木津さんのどこがいいんですか?」

 もし今僕が珈琲を飲んでいたのなら、再び吹き出したに違いない。

 彼女は一瞬真顔になり、それから破顔して益田を見上げた。

「勿論、瑠花さんがあの人の外見だけによろめいたとは思っちゃあいませんが、貴方ならもっとマトモな人が選り取り見取りでしょ?」

 それにしても益田は、聞きにくいことをいとも簡単に聞いてしまう。

 やはり元刑事ということもあり、慣れているのかもしれない。

 でも実は、僕もとても気になっていたのだ。

「ではお伺いしますが、益田さんたちは彼のどこに惹かれたのですか?」

 そう言って彼女は、黒目がちの大きな瞳で僕たちを見つめた。

 思いがけない質問だった。

 僕たちまでもが、あの傍若無人な探偵に惹かれていると言うのか。

「きっと同じだと思いますよ。ジェンダーを超えて、彼は人を惹き付ける力があるような気がします」

「わははは。そりゃ買い被りですよぉ」

 益田は笑ったが、果たしてそうだろうか。

 榎木津の下僕という立場に甘んじていることが、何よりの証拠ではないのか。

 彼女は笑みを湛えたまま言った。

「私には、彼は眩しい光のように見えるんです。闇を切り裂く、鋭くも暖かい光に」

 彼女の持つ闇を、榎木津は切り裂いたのだろうか。

 それは、彼のあの特殊な能力とは無関係な気がした。

「うーん、どちらかと言えば玉砕って感じですよね。もうそれこそ闇まるごと。切り裂くとか、あの人にそんな器用なことできませんよ」

 切り裂くという行為が器用に値するかは甚だ疑問だったが、確かに榎木津には玉砕とか粉砕とかいう方がしっくりくる。

 恐らく、切り裂くのは中禅寺の方が上手いだろう。

 彼は色々な意味で鋭利な印象がある。

 僕がそう言うと、確かにお二人の仰る通りですねと、彼女は声を上げて笑った。

「いずれにしても私にとって、彼は太陽みたいな存在なんです」

 それから彼女は照れ隠しのように、…なんちゃってと、頬を染めて笑った。

「では瑠花さんは、その太陽の光を浴びて咲き零れる花ですね」

 その台詞を言った後で僕は激しく後悔した。

 二人共沈黙したまま僕を見ている。

「…君、確か理系ですよねぇ。今のは関口さんをも凌ぐような文学的表現でしたね。でも瑠花さん口説いちゃ駄目ですよ。まだ長生きしたいでしょ?それとも君も粉砕されたいんですか」

 益田は僕に詰め寄りながら意地悪く笑った。

 下僕だからこその忠告か、ただ単に面白がっているだけか、はたまた僅かばかりの嫉妬心か、僕には解らなかった。

 慌てて言い訳を考えたが、何も出て来ない。

「そんなつもりじゃなくて…」

「彼にとってそんな存在になれるといいな。本島さん、ありがとうございます」

 そう言って、心から嬉しそうに彼女が微笑んだので、僕は救われた気がした。

「瑠花さん、これ以上榎木津さんメロメロにしてどうするんですか。でもそのついでにもう少し扱いやすくしてもらえると、ヒジョーに助かるなぁ」

 いつもの軽い調子で益田が言うと、彼女は、益田さんこそ私を買い被り過ぎですよ、と言って笑った。

 僕たちは駅で別れた。





「こんにちはー」

 瑠花は京極堂に来ていた。

 店の方には骨休めの看板が下がっていたので、母屋の玄関口に回ったところだ。

「おや。試験は終わったんじゃないのかい?」

 暫くして出て来たのは主本人だった。

 相変わらずの仏頂顔だったが、これが彼の普段の表情なのだ。

「はい。おかげ様で今日無事に終了しました」

「君はてっきり榎さんの所だと思っていたが…とりあえず上がるといい」

「でも、お客様がいらっしゃるのでは…」

 瑠花は玄関に並べられた、複数の靴を見て答えた。

「客という程の客じゃないよ。それに一人は君も知ってる人物だ」

 遠慮せずに上がりなさい、中禅寺はそう言って踵を返した。

 中禅寺が居間の襖を開き、瑠花は促されるまま彼の背中から居間を覗いた。

「あぁ、瑠花ちゃんじゃないか」

「あ、関口さん。お久しぶりです」

 瑠花は居間に入ると丁寧に頭を下げた。

 それから隣りに座っている見知らぬ人物に目を向け、軽く会釈した。

 すかさず中禅寺が仲介してくれる。

「こちらは鷹月瑠花さんといって、僕の友人だ。彼は鳥口守彦君。雑誌の編集者だよ」

 二人はお互いに笑顔で挨拶した。

 関口は何故か、まるで見合いに同伴している保護者のような気分がした。

「師匠、顔が大き過ぎですよ。こんな可愛いお嬢さんまでご友人なんですかぁ。しかも師匠は分かるとしても、先生ともお知り合いとは…いやビックリです」

「鳥口君、それを言うなら“広過ぎ”だ。仮にも編集者なんだから言葉は正しく使いたまえ。それに、そのビックリってのはどう意味だい?」

「先生には言われたくないっすよ。しかも僕ぁ仮じゃなく、一応正式な編集者です」

 結局ビックリの意味が鳥口から語られることはなかった。

「君たち、揉めるなら余所でやってくれないか」

 中禅寺が腕組みしながら二人に言った。

「あぁ。瑠花ちゃん、すまないね。取り敢えず座ったらどうだい?」

 中禅寺の隣りで立ち尽くしたままの瑠花に、関口が声をかけた。

「今日は差し入れに伺っただけなので、これで失礼します」

 宜しければご用事の合間にでも皆さんで食べて下さいねと笑顔で言ってから、彼女は手にしていた白い箱を座卓に置いた。

「また時間ができたら来るといいよ」

 好意的な中禅寺の台詞に驚愕する二人に、瑠花は笑みを湛えたまま会釈をすると、その場を後にした。





「師匠」

「さて鳥口君。僕は野暮なことはしない主義だが、君の為に一応忠告しておこう。瑠花は榎さんの想い人だ。…僕の言わんとしていることは解るね?」

 早速プディングを食べながら、ニヤリと笑う中禅寺を見て、鳥口は首を竦めた。

「うへぇ。触らぬ大将に叩き無し。叩かれ損の儲け無しですな」

「そういうことだ」

「相手が悪過ぎるよ」

 その諺は、間違いと鳥口なりのアレンジによって、最早原形さえ止どめぬものだったが、彼の訴えたいことだけは明確に伝わったようだ。








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