早朝の凛とした空気に薄明が差した頃、淡藍は目を覚ました。
窓の外で次第に変わりゆく空の色を眺めながら、夜着を脱いで、裾の短い深衣と下履きを身に着ける。

男のような簡素な恰好ではあるが、何しろ動きやすい。
さすがに普段着ているようなひらひらとした上衣下裳では長距離を走れないので、鍛錬時は大目に見てもらっている。
髪を一つにまとめ、手持ちの紐で固く結びながら自室を後にした。

人気のない長い廊下を静かに進み、庭の井戸で顔を洗う。
震えあがる程の水の冷たさがむしろ心地良く、未だに抜けきらないでいる眠気を拭い去ることができた。
もう一度水を汲み上げると、口をすすいだ後で乾いた喉を潤した。



食客として王騎に迎えられたのは破格の待遇だと思う。
当初は使用人に混じって雑用でも何でもこなすつもりでいたが、それは間に合っているから自己鍛錬に重きを置くようにと言い付けられた。

城内の書庫にある蔵書の多さにも驚いた。
特に兵法書に関しては、全てに目を通しておくようにと命じられている。
一体いくつの木簡があるのか…考えただけでも気が遠くなりそうだが、期限は設けられていないので根気よく読み進めるしかない。

時々王騎や軍長たちに呼ばれて、地図と駒とを使って模擬戦を行うこともある。
戦歴の長い武人たちの容赦のない攻撃に、記憶と思考を巡らせながら必死で食らい付く。
すなわち読了するだけではなく、あらゆる軍略を常時頭に叩き込んでおけということだ。

兵士のように武器を取って勇敢に戦うことまでは求められていないが、戦場に出向くつもりで基礎体力は鍛えている。
早朝の走り込みもその一環だった。



宿直の門番に挨拶をして、頑強な門扉の端にある小さな戸口を開けてもらう。
早朝の陽射しを浴びている家々は、どこもまだ寝静まっているようだ。
家の中では朝餉の支度等で賑やかなのかもしれないが、外に出ている人は滅多に見かけない。

真っ直ぐに伸びた幅広の道は整然としている。
王騎の差配が隅々まで行き届いているのだろう。
彼の庇護下にある領地に住まう人々は幸せだと思う。

しばらく走り続けると、やがて大きな屋敷が見えてくる。
当初はそこを折り返し地点として家の周囲を巡り、城へ引き返す道程を日課にしていた。

立派な様式の割に敷地を取り囲む垣根は高くはなく、その向こう側には新緑が生い茂る木々と、淡い色の花が綻ぶ広い庭を眺めることができた。
時折その庭で一人鍛錬に勤しむ、副官の騰の様子も。

最初は挨拶を交わすくらいだったが、ある朝、彼に真顔で手招きされて応じた以降は、休憩地のように立ち寄らせてもらっている。
素振りを繰り返す騰のしなやかな太刀筋や、しっかりと伸ばされた真っ直ぐな姿勢に思わず見とれながら、傍らで柔軟運動を行う。
逆に興味深そうに見つめ返され、身体中の筋を日頃から柔らかく保っておく利点などを伝えると、何故か指南する羽目になったこともある。

時には朝食までご馳走になる有様だ。
私を餌付けしても何の得にもならないというのに、懐の広い方だと思う。
恐縮の限りではあるが、恐らく自分の部下に対しても彼は同様に振る舞うのだろう。



あまり長居することなく城へと戻り、広い湯殿を独り占めして朝風呂を堪能する。
この時間帯は誰とも被らないので泳ぎ放題だが、王騎とはかち合う可能性があるため、その都度誰もいないことを確認してから入るようにしている。

一度だけ湯気の向こう側から入っていますよォと当人の声が聞こえた時はさすがに驚き、謝罪の言葉を伝えつつ慌てて退散した。
後で淡藍は慎重ですねェと王騎にからかわれながら、事前の確認は大事だとあらためて実感した。

汗を落とす前に新兵の朝練に紛れることもあるが、演習に同行するようお呼びがかかることもある。
こちらも模擬戦ではあるが、実際の距離感や兵の動きを見て得られる情報はとても重要だ。

何も予定がなければ上衣下裳に着替え、自ら軽食と茶器を持ち込んで書庫にこもる。
こうしておけば、夜まで使用人の手を煩わせることもない。
それでも彼らは、お茶のおかわりや時々甘い菓子なども届けてくれた。

隅に設えられた卓上で未読の兵法書を紐解きながら、気になるものについては筆を取り、図解を描く。
秦に点在する城の位置と特徴、周囲の地形と距離の把握、各国の情勢や主な地域に至るまで、王騎や騰から教わった実際の情報と照合して戦略を練る。
書き留めた木簡は日毎に増えつつあった。

夕食後には王騎と話すこともあるが、彼は多忙なので、大抵は就寝前の遅い時間になってしまう。
お茶を飲みながら、日中に新しく学んだ箇所の疑問点を挙げると、王騎は丁寧な言葉でわかりやすく教えてくれる。
と言っても大抵は手掛かりや助言のみを与えられ、解答には自身で辿り着かなければならない。
それでも書以上に興味深い話がたくさん聞けるので、彼の私室でつい長居をしてしまうのが常だった。

雑談混じりに騰と柔軟運動をしたことなどを伝えた時は、ココココと不思議な声音で楽しそうに笑っていた。
城の主として、そして将軍としての威厳や貫禄に満ちた方ではあるが、同時に心から安心できるような包容力をも持ち合わせている方だと思う。
彼に心酔している軍所属の配下たちの気持ちが理解できるような気がした。



早朝、自己鍛錬中と思しき騰の元へ向かう。
今日は父の形見の長剣を携えているので、普段よりも走るのに難儀した。
稽古をつけてもらうなどおこがましいとも思うが、矛使いが多い王騎軍の中で、最強の剣使いは彼だ。
今までなかなか言い出せずに過ごしてきたものの、習うのならやはり彼しかいない。

手元の剣を一振りして鞘に納めた騰は、無言で淡藍に向き直る。
…これは即答で断られる前振りだろうか。

「とりあえず私から逃げてみろ」

陣地はこの庭の中のみだ。
そう言うや否や、騰の手が素早く伸びてきた。

半身を捻ってかろうじて避けた後で、淡藍は脱兎の如く駆け出した。
不意打ちにも程がある。
けれど実戦に即してはいる。

普段は騎馬で戦いに臨む騰の意外な俊足振りに、淡藍は驚いていた。
武人の基礎体力恐るべしといったところだろうか。

「騰様!木に登るのはありですか?」
「構わん!とにかく捕まるな!」

そう言う矢先に騰は容赦なく距離を詰めてくる。
走りながらの会話のやりとりに息が切れる。

目前に迫る大木を、けれど淡藍は直前で回避した。
後から登ってこられたら、結局は追い詰められて逃げ場がなくなるからだ。
木に登る騰を見てみたい気もするけれど。

彼の脇をすり抜ける際に、はためいた袖を掴まれそうになるが、素早く両腕を振り上げながら大きく跳躍して何とか逃れる。
…今のは危なかった。
何故鬼ごっこのような真似事をしているのかよくわからないまま、淡藍はひたすら広い庭を駆け回った。



しばらく逃げ回っているうちに息が続かなくなってきた。
毎朝走ってはいるが、更に持久力を鍛える必要性を感じる。
速さを増して胸を叩き続ける心臓が今にも飛び出そうだ。

不意に足がもつれて、派手に転んでしまう。
反転して素早く起き上がろうとしたところで、すかさず騰に押さえ込まれた。

背中を地面に打ち付け、一瞬だけ呼吸が止まる。
捕まった場所が石畳ではなく、草土の上で幸いだった。
けれど痛いものは痛いし、逃がすまいと伸し掛かった体格の良い騰の重みも骨身に応える。
荒い呼吸を懸命に整える淡藍の目に、じんわりと涙が滲んだ。

「…騰様。参りました」

両手首は強く掴まれたままびくともしない。
下半身もしっかりと押さえ付けられている状態だ。
そうしながら無表情で沈黙したままの騰に問いかけるように、淡藍はまばたきを繰り返した。

「騰様…?」

不意に彼の顔が間近に迫り、目を瞠った淡藍は息を呑む。
背後の空と同じ色をした青い双眸から目が逸らせない。
騰の肩から滑り落ちた亜麻色の柔らかな髪先が、淡藍の頬をくすぐる。

「淡藍」

低い声で名を呼ばれ、自分の口から漏れたのは力のない声だった。

「今のところ、お前に剣の稽古は不要だ」

聞き捨てならないことを言われたような気がする。

あれだけ身軽に動ければ上等だ。
いざとなれば必死で逃げろ。
今後も基礎の鍛錬を怠ることなく、まずは兵法の勉学を優先するべきだ。
あちこち中途半端に手を出した結果、器用貧乏では意味がないぞ。

…悔しくもありがたい助言ではあるが、こんなにも顔が近いのは何故なのか。
台詞と状況がそぐわない。
呼吸はとっくに整った筈なのに、鼓動が煩いし、頬が熱い。

わかりましたと小刻みに頷くだけで精いっぱいだった。
今のところと騰は言った。
そのうちを期待することにしよう。

「朝食は?」
「…まだです」
「一緒にどうだ」
「ありがたくいただきます」

現金なもので思わず笑顔で答えてしまう。
少しだけ頬を緩めた騰はようやく身体を起こしたものの、未だに平然と淡藍の上に跨ったままでいる。

「…騰様。とても重いです」
「だろうな。腹筋100回」

ここに本物の鬼がいた。
それでも素直に従うべく半身を起こそうとすると、すぐさま真顔で冗談だと切り捨てられた。

草の上で脱力しながら、怒るべきなのか安堵するべきなのかを考える。
感情の整理がつかないままの淡藍の両手を騰が掴んだ。
そのまま起き上がらせてはくれるが、彼が動く気配は全くない。
再び至近距離になり、動揺の中で目を泳がせていると、騰の右手が淡藍に伸びた。

思わず肩を竦めて瞼を閉じようとする傍らで、小さな花弁を摘んだ彼の指先が見えた。
髪に付着していたものを取り払ってくれたようだ。

「…ありがとうございます」

騰の手はそのまま淡藍の後頭部に回され、固く結んだ紐を器用に解き、この騒動で乱れたらしき髪を梳いている。
地肌を辿る彼の指先を感じながら、慈しむような仕草に益々落ち着かない有様だ。

騰の表情や自分に注がれている視線は心なしか穏やかだった。
これではまるで…。

「騰様!お腹が空きました!」

いたたまれない状況から逃れるべく、ようやく絞り出した言葉は、軍師見習いとは思えない程間の抜けたものだった。

「そうか」

淡藍の頭を軽く撫でた後、ようやく騰は立ち上がった。
自然な動作で手を伸ばし、淡藍が立ち上がるのを助けてくれる。
今しがたの彼女の滑稽な発言を笑い飛ばすこともなく、行くぞと言わんばかりに視線だけで淡藍を促した。

彼の背中を追いながら、子供のような催促が功を奏したことに、淡藍は心の底から安堵していた。
未だに騒がしい自らの鼓動を鎮めるべく、大きく呼吸を繰り返す。
その後の朝食時にも特に言及はなく、そして普段通り食事は美味しく、けれどどこか割り切れないもやもやとした感情と共に城へ戻った。



品行方正で通っている筈の王騎の副官が、早朝の戸外で子女を追いかけ回した挙句に押し倒していたという噂は密やかに広まった。
相手はあなたですよねェと王騎にあっさりと看破された淡藍は、お茶を噴き出しそうになるのを何とかこらえながら懸命に弁明した。

騰の方はいつも通りの無表情で言わせておけと意に介さず、虫除けにはなるかと口の端だけで笑ったのだという。



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20200822