中央の大部屋で開かれている宴の賑やかな様子は、離れの居室にいる淡藍にも微かに届いていた。 この城の主の酒豪振りは有名だ。 そして客人に対する豪快な振る舞いも。 半ば強制的に満たされた大杯を気合と根性で飲み干した結果、今夜も前後不覚に陥る者は少なくないのだろう。 自身も饗の一つであることを淡藍は理解していた。 香油を含んだ彼女の黒髪は高く結い上げられ、金の簪でまとめられている。 簪の飾りから伸びた細い鎖の先端には、爪留めされた翡翠が微かに揺れていた。 幾分小振りな耳飾りの細工も同じ意匠だ。 くつろげた襟元まで白粉をはたき、引き結んだ唇には赤い紅。 鮮やかな蘇芳の襦裙と薄手の羽織を身にまとった彼女は、宴の終わりと共に客人へ供されるであろう我が身を振り返る。 これが役目なのだと割り切ってはいた。 権力闘争の果てに没落した武家の生き残りの子女が、糊口を凌ぐ方法はそう多くはない。 嫁ぎ先がないではなかったが、その名家は何人もの妻女が失踪しているという悪名が轟く家でもあった。 女一人で安易に家出などできる筈もなく、恐らく彼女たちはもう生きてはいないのだろう。 たとえ絶望の只中にあったとしても、一方的に虐げられた挙句、殺される羽目に陥る結末など誰が望むものか。 そうして紆余曲折の末、今に至る。 慰み者とは言え相手は将軍なのだからと言い聞かせては見たものの、何の気休めにもならず、淡藍は溜息を吐く。 客人は秦の怪鳥、王騎。 良くも悪くも噂の絶えない人物だ。 甚だしい武勲でその名を中華全土に知らしめた英雄は、ある時から表舞台に顔を見せなくなった。 王の命でさえ唯々諾々とは従わず、参戦にも同意しない。 かつての六大将軍には、王の裁可なしに開戦の権限が与えられていたと聞く。 それでいて、時折軍を率いて戦場に忽然と姿を現すことがあるらしい。 神出鬼没で不可解なその挙動に、彼にまつわる噂には益々尾ひれが付くばかりだった。 得体の知れない相手であることをあらためて自覚した淡藍は、俄かに緊張を覚える。 室内の隅の棚に束ねられた木簡に何気なく目を向け、手を伸ばした。 …少しは気が紛れるかもしれない。 紐を解き、乾いた木片の連なりに記された文字を辿ると、自らの所作に懐かしさが込み上げた。 手燭ひとつで父の蔵書を読み漁った日々を思い出し、胸が詰まる。 書に親しむ機会など、逼塞以降は滅多になかった。 いつの間にか周囲には静寂が満ちていた。 宴は終わったのだろうか。 気を紛らわすどころか、随分と長い時間没頭してしまったようだ。 長々と広げられた木簡から顔を上げた淡藍は、強張っていた半身と両腕を伸ばしながら何気なく周囲を見回した。 不意に感じた人の気配に、短い悲鳴のような声を上げてしまう。 「…おやァ、ようやく気付いたようですねェ」 居室の入り口付近に佇む偉丈夫、王騎の姿に息を呑んだ淡藍は慌てて額ずいた。 大きな失態だったが、今の言葉だけでは、将軍がどのように捉えているか察することができない。 そのまま動けずにいると、ココココと不思議な笑い声が聞こえた。 「そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよォ」 恐る恐る顔を上げると、自分のすぐ近くに跪いた王騎としっかり目が合ってしまう。 自分を直視する力強い漆黒から目が逸らせない。 その奥で静かに揺らめく炎が見えたような気がした。 「…詩経ですね。夢中で読んでいたようですが、そんなに面白いですかァ?」 王騎の視線の先、自らの足元の木簡に目を落とした後、淡藍は再び彼を見上げた。 「はい。とても興味深いです。人の幸福や懊悩は、時代や身分を問うことなく、何も変わらないのですね」 「ンフフフ…そうかもしれませんねェ」 口元に笑みをたたえたまま穏やかに頷く王騎の様子から、どうやら機嫌を損ねた訳ではないようだと淡藍は安堵した。 「王騎様、お座りになりませんか?不調法な出迎えにはなってしまいましたが、どうぞおくつろぎください」 許可を得て、慎重な手付きで甲冑を外すのを手伝う。 理不尽に討たれた父をふと思い出し、視界が滲んだ。 唇を噛みしめ、上を向いて目元の涙を零さぬように努める。 王騎からは酒の残り香が漂うものの、特に酔っている様子は見られない。 この方は今夜の主賓だ。 強い酒で満たされた大杯を最も受けたに違いないというのに、見事なものだと思う。 「酔い覚ましに橘皮のお茶はいかがです?それともおやすみになりますか?」 「お茶が飲みたいですねェ。もうヒョウ公さんの酒は十分です」 そのお気持ちはよくわかります。 口にこそ出さなかったが、彼には伝わったようだ。 どちらからともなく、苦笑めいた笑みを浮かべる。 茶器等を整え、淹れ立ての茶を差し出した後、あらためての挨拶と共に名前を名乗った。 互いの手元の茶杯からは、爽やかな香りの湯気が立ち昇っている。 最初は王騎だけに供したところ、一緒に飲みましょうと言ってくれたのだ。 今夜の宴の経緯を尋ねてみると、合戦中の様子を偵察していたところで捕まったのだという。 さすがの王騎でもヒョウ公の誘いは断り切れなかったらしい。 「厳密には断ったんですけど、誰かさんは全く聞く耳を持たないんですよねェ…」 王の命令でさえ、納得できなければ従わないという王騎を招くことができたのは、実は凄いことではないのだろうか。 「私はお会いできて嬉しく思います。奇妙な噂ばかりが蔓延しているので、少なからず払拭できたかと」 「…それはどのような噂ですかァ?」 「申し訳ございません!大変失礼なことを申し上げました」 思っていたよりも話しやすい人物だったので、つい油断してしまった。 「ココココ…あなた自身が撒き散らしている訳ではないのだから、別に謝らなくてもいいですよ」 人の口に戸は立てられません。 言いたい輩には好きなように言わせておけばいいんですと、王騎は笑みを崩すことなく茶杯を口にしている。 戦場では自身の判断が多くの将兵の命を左右し、自らの実績を以て武功に繋がる。 長年壮絶な場所を駆け抜けてきた彼にとって、軽佻浮薄な口先だけの噂など、取るに足りないことなのかもしれない。 心身共に強靭な方なのだと思う。 「ところで、あなたは書が好きなようですが、他には何を読みましたか?」 「五経は一通り。書経は終始真面目な印象ですが、こちらの詩経は日常に近しい内容で親近感を覚えました」 そうですかと、王騎は穏やかな様子で耳を傾けている。 そこまでは、ただの雑談だと思っていた。 「では、兵法書はどうです?」 淡藍は思わず目を見開いて彼を見つめる。 「…ヒョウ公様からお聞きになったのですか?」 「たとえ尋ねたとしても、あの方は何も仰らないでしょうねェ」 かつての淡藍の生家には、多くの兵法書があった。 武家らしく、むしろその方面に特化していたような気がする。 子供ながらに、戦略と戦術の組み方、特に展開されている陣形の数々が面白かった。 実際の兵の命が掛かっている訳ではない分、遊戯のような感覚で夢中になった。 歌や着物に興味を示すことなく、無骨な書に読み耽る娘を、父は笑って見守ってくれたのだ。 今でも淡藍の頭の中には、多くの作戦や謀攻の記憶が刻まれている。 「あなたの出自を探ってどうこうするつもりはありません」 今のあなたは無力に等しい。 例え私の敵だったとしても、王族ではないのだから、その血を絶やす意味もない。 そもそもその手の諍いには興味がないんですよねェ。 「…では、何故」 未だに不安が払拭できないでいる淡藍に王騎は向き直った。 笑みを収めた真摯な表情で、心許なくさまよう彼女の視線を捉える。 淡藍。その小さな籠から出てきなさい。 このままではどこにも飛び立てないと、あなたが一番理解している筈です。 今後更に広がりゆくこの国を、いつしか中華の覇権を握る様を、自分の目で見届けたいとは思いませんか? 鼓動が強く胸を打つ。 息をするのも忘れる程の驚きの中で、淡藍は王騎の言葉を聞いていた。 それは、父の夢でもあった。 だからこそ高みを目指し、更なる権力を手に入れるために骨身を惜しまなかった。 長年蓄えた戦うための知識で、いつしかその手助けができればと思っていた。 けれど、私腹を肥やすことにしか興味がない欲深い者たちの策略によって、父は斃れた。 目の前の将軍は、同じ夢を持っているのだ。 そして未だに諦めてはいない。 この方は、私を救い出そうとしてくれている。 そして父の夢を、否、自分の夢を叶えようとしている。 そう信じてもいいのだろうか。 「今からでも、羽ばたけるでしょうか」 「…あなた次第です」 哀悼や苦悶や悔悟のためではない、今までとは違う類の涙が溢れ、頬を伝い落ちる。 疲れ切った心身を引きずりながら、さまよい歩いた際限のない闇の中で、唯一の小さな光を見つけた希望ゆえだった。 「書は私の城にもたくさんありますよォ。読みたい放題です」 優しく涙を拭いてくれる訳でも、抱き寄せて労わってくれる訳でもないけれど。 どこか茶化すような王騎の微笑みに、釣られるように笑ってしまう。 まるで泣きじゃくる子供を甘い菓子で宥める親のようではないか。 似たようなものかもしれないと、良い意味で肩の力が抜けた。 涙を強く拭い去った淡藍は、顔を上げて王騎を真っ直ぐに見つめる。 「お役に立てるよう、誠心誠意励みます」 どうか、お連れください。 覚悟はできたようですねェと、王騎は満足げに頷いた。 「雛は口説き落とせたか?」 「一晩かかりましたけどね」 「…情熱的じゃのォ」 淡藍の記憶を掘り起こしながら、模擬戦を何度か行っているうちに空が白み始めた。 長考中にとうとう眠ってしまった彼女を寝台に横たえ、居室を出たところだった。 深酒後の徹夜明けはさすがに目が眩むが、戦場での連日に渡る強行に比べれば何のことはなかった。 「ヒョウ公さんもお人が悪いですねェ」 普通に紹介してくださればよいのに…。 王騎が睨め付ける隣で、当人はまさしく人の悪い笑みを浮かべている。 「愛でるだけでは惜しい娘じゃろォ?」 儂は手を出してはおらんからなと王騎の背中を勢いよく叩きながら、豪快に笑い飛ばす。 この方には、無力な雛の奥に潜む炎の片鱗が見えたのかもしれない。 本能型の武将の感の鋭さに内心で舌を巻き、それは重畳ですと冗談交じりに返しておいた。 暗い夜の闇を彼方へと追放した暁の空は、尖った月を残したまま藤色から橙色へと移り変わる。 たなびく雲を赤く染めながら、やがて見えた眩い陽の光を、王騎は目を逸らすことなく見据えた。 20200801 |