「言葉が通じないため憶測の域を出ませんが、恐らく彼女は記憶を失っています」 名前を付けた旨を伝えると、犬や猫じゃないんですからとどこかで聞き覚えのあることを言われたが、便宜上ですと真顔で答えた。 起き上がれるようにはなったが、今でも頻繁に頭の痛みがあるようだ。 医師は打撲の後遺症かもしれないと言っていた。 彼女の一連の言動に虚偽は見られず、したがって危ぶむ存在ではないことを先んじて報告する。 体調が良い時に、少しずつ言葉を教えている旨も合わせて伝えた。 主な教師は雨涵だが、彼女のように流暢に話す淡藍の姿は全く想像がつかない。 但し達者になり過ぎても、彼にとっては頭の上がらない相手が増えるだけで、あまり嬉しくはない。 …いや、案外愉快なことになるやもしれぬと心中で思い直す。 「一度話してみたいですねェ」 「ハ。それでは調子が良い時を見計らって連れてまいります」 「…怖がりませんか?」 咄嗟に俯きながら、思わず笑い出したくなるのを何とかこらえる。 華々しい武勲で中華全土を轟かせた大将軍の言葉とは思えなかった。 同時に、思いやりのある方なのだと改めて敬意を抱く。 主には、淡藍が男に対する恐怖心があり、その自覚がないことを既に伝えていた。 その際、厳しい表情で報告を聞いていた主は、彼と同様に想像したくもない考えに至ったようだ。 その件を配慮した上での発言だろう。 「私が一緒であれば問題ないかと」 「ンフフフ…何だか惚気のように聞こえますねェ」 「ハ。随分懇意になりました」 彼自身に他意はなかったので、あくまでも淡藍が自分を恐れていない旨を主張するべく、平然と言ってのける。 やはり惚気以外の何ものにも聞こえませんよと、主は軽やかな笑い声を立てた。 「とうさま。おかえりなさい」 遠征から屋敷に戻ると、笑顔で駆けて来た淡藍は勢い余って彼の懐に飛び込んだ。 彼女を受け止めながらも予期せぬ出迎えに戸惑っていると、取り澄ました表情で雨涵が姿を見せた。 「おかえりなさいませ。ご無事で何よりでございます」 家の方もつつがなくとの、いつも通り手回しが良い雨涵の報告に彼は頷く。 「それにしても、随分上達したな」 「まだ挨拶程度です」 騰様にお披露目したい一心のようでしたよと雨涵は笑っている。 決して本人には言えないが、孫の成長を見守る祖母のようだ。 「そうか」 思わず淡藍の頭を無造作に撫でると、当人は嬉しそうに彼を見上げた。 自分に対する警戒心が解けた以降、彼女の振る舞いはまるで親に甘える子供のようだった。 年齢も不明のままだが、仮に十代だとしたら、彼にしてみれば充分に子供の域だ。 いずれにしても、当初の憂いに満ちた表情に比べれば、遥かに状況は改善している。 時折身体の不調を訴えることもあるが、目に見える傷は癒えて、今しがたのように走れるようにもなった。 雨涵と一緒に外出した旨も聞いている。 そろそろ主と会わせてもいい頃合いかもしれない。 言葉に関しても、こちらの言うことは大体理解できているようだ。 淡藍に言わせれば、聞き取るよりも喋る方が難しいらしい。 彼女の拙い言葉の羅列で判明したのは、彼の当初の見立て通り、以前の記憶がないということだ。 本人の考えは確認できていないが、無理に思い出させる必要はないとも思う。 淡藍の歩んできた過去はともかく、満身創痍で意識を失う直前に起きていた何かは、恐らく碌な出来事ではない。 「淡藍。殿がお前に会いたいそうだ」 「との…おうきさま?わたし、おれい、つたえたい」 …余計な心配はしないで済みそうだ。 主の珍しい表情を反芻し、彼は口元を緩める。 「雨涵、殿も私もしばらくは領地内にいる予定だ。淡藍の体調が良い日でいい。手筈を整えておいてくれ」 「かしこまりました」 使用人が手綱を引いて来た彼の馬に、淡藍は目を輝かせた。 主と会うため普段よりも着飾り、化粧も施されてはいるが、無邪気に喜ぶ様はやはり子供のようだった。 物怖じすることなく馬に声をかけながら、その身体を優しく撫でた彼女は、馬には乗ったことがないと片言な言葉で口にした。 馬車はどうだと聞いてみると首を横に振ってみせる。 本当に経験がないのか、記憶がないだけなのかはわからない。 この馬に乗るのは厳密には二度目だが、あの時は意識がなかったので本人は知る由もないだろう。 経験がないのであれば転げ落ちてはかなわない。 彼女を鞍の前方に乗せて、後ろから手綱を取ることにした。 「おうきさま、はじめまして。淡藍ともうします」 「随分お喋りが上達したようですねェ」 「とうさまと、うかんのおかげです」 淡藍は主に対して朗らかな笑顔を見せている。 当初、主が危惧していた恐怖心は微塵も感じられない。 そばに控えている彼は心中で安堵の息を吐く。 「…まだ、何も思い出せませんか?」 身体の調子を尋ねたり、日常の雑談などを交わした後、主は何気ない様子で淡藍に問いかけた。 淡藍はどこか哀しそうな笑みを浮かべながら、首を横に振った。 少し考える様子をみせた後で、主に向けて深く頭を下げる。 詫びのための適切な言葉が思い浮かばなかったのだろう。 「ンフフフ…別に責めてはいません。騰の元で十分に養生なさい」 主を見上げた淡藍は、あらかじめ練習してきたらしき感謝の言葉をたどたどしく伝え始めた。 …我が子の初陣を見守る親のような気分だ。 「あなたの想いはしっかりと受け止めましたよ」 黙って耳を傾けていた主は悠然と頷いた後、それにしても、まるで童のように稚いですねェとひとしきり笑った。 「淡藍、あなたに見てもらいたいものがあります」 主が広げた地図には中華の国々が描かれていた。 それを見た淡藍の目が次第に大きく見開かれる。 国の話をしたことはあるが、地図を見るのは初めての筈だ。 何か思い出したのだろうか。 驚いているようにも見える彼女の表情の意味を捉えるべく、彼は動向を見守った。 「ここが秦です。こちらが王宮のある咸陽。そして私の城は、おおよそこの辺りでしょうか」 大陸の中央から西側付近を指差しながら主が告げる。 「淡藍、あなたの国がどこかわかりますか?」 大きな地図に身を乗り出した彼女は、やがて東側の海へと指を伸ばした。 言葉にはせず、地図からはみ出した何もない場所に斜めの楕円を描いている。 「…遥か東方に神仙が住まう山があると聞いたことがありますが、ココココ…まるでおとぎ話のようですねェ」 『ここがどこなのか、ようやくわかりました』 淡藍が小さな声で呟いたそれは、久し振りに聞いた異国の言葉だった。 「淡藍。殿と私にもわかるように話せるか?」 地図から顔を上げた淡藍は、彼と彼の主を交互に見つめた。 その眼差しは、どこか途方に暮れた迷い子のように見える。 「ここに、くにがあります。わたしがいたところ」 全てを思い出した訳ではないが、これくらいは理解していると彼女は懸命な素振りで話した。 「…帰りたいですか?」 主の問いに答えることなく黙って俯いた淡藍は、声も上げず、やがて静かに涙を零した。 地図上の海に、幾粒もの雫が落ちては滲んだ。 彼の主君は、意外な程の優しい声音で帰りたいかと聞いてくれた。 言葉さえ通じない見ず知らずの異国の地にいるのだから、普通なら郷愁を感じるのかもしれない。 そう思えなかったのは、過去の記憶がないからだろうか。 そして城の主が示した地図がまやかしでないのなら、知らない間に自分は時間をも飛び越えてしまったようだ。 到底信じられる出来事ではないが、ここでの毎日の生活を振り返れば納得せざるを得ないとも思う。 高く頑丈な城壁で囲まれた城郭都市、馬や馬車での移動、建物の様式、日常で使用する用具の数々。 まだ紙さえも普及していない時代を示唆する、木片や竹で編まれた書物。 燭台で心許なく揺れる小さな火だけが、かろうじて暗い夜を照らし出す。 夢だと思い込むにはやけに鮮明で、現実感がともなう日々を過ごしてきた。 失われた記憶は未だに戻る気配がない。 思い出したくない程、おぞましい出来事があったのだろうか。 身体に残る多くの傷痕は、まるで長期に渡って虐待を受けていたようにも見える。 持病になりつつある頭痛は、抜け落ちてしまった記憶をどのように処理しているのだろう。 得体の知れない存在であるにもかかわらず、彼らは私を受け入れてくれた。 何かを強要することもなく、衣食住を提供し、言葉を教え、生きる場所を与えてくれた。 思い出すことが怖くて、帰りたくなくて、ずっと彼らのそばにいたくて、私は泣いたのかもしれない。 それとも、帰りたいと思うことさえできない、何も持たない空っぽな自分が憐れで泣いたのだろうか。 「淡藍」 長い思考の淵に沈んでいた淡藍は、背後からの呼びかけに顔を上げる。 城からの帰路の途中のため、二人は馬上にいた。 馬の歩調は緩やかで、夜道をゆっくりと進んでいる。 「大事ないか」 心配してくれているのだ。 先程は情けない姿を見せてしまったと恥ずかしくなる。 振り返りながら、努力して浮かべた笑顔で頷いてみせる。 「お前が望むのなら、ずっとここにいればいい」 自分を挟み込むようにして手綱を取る、彼の逞しい腕と手に視線を落とした。 彼は戦乱の世を生きている人だ。 文化や信仰や価値観、考え方は大きく異なる筈なのに、こんなにも優しい。 思い返してみれば、初めて出会った時から彼はそうだった。 自分に怯える私の様子をすぐに察知し、だから雨涵を下がらせようとはせず、そばにいさせてくれた。 今でも多忙な毎日の中で時間を割いて、覚束ない私の話に耳を傾けてくれている。 彼には何の利点もないというのに。 また涙が溢れそうになるが、何とかこらえながら上を向く。 見上げた星の美しさに淡藍は目を奪われた。 濃紺の夜空一面に、きらめく銀砂をまぶしたかのようだ。 周囲の明かりは皆無で、大気も澄んでいるだろうから綺麗な筈だ。 何故、今まで気付かなかったのだろう。 目元の涙を拭い去り、あらためて夜空にまたたく幾多もの光を眺める。 「…そらのひかり、きれいです」 「星のことか」 「ほし?そうです。ほしが、とてもきれい」 「お前の国も同じような夜空ではないのか」 数千年程度では星は変わらない。 大きく変わりゆくのは人々の生活様式だけで、人自身は何も変わっていないのかもしれない。 彼の問いかけにどうやって答えようかと、空を仰いだまま考える。 話すのはまだ難があった。 聞き取りは随分できるようになったが、わかりやすく話してくれているのだろうとも思う。 「…よるのそら、ほかのひかりで、とてもあかるい。ずっと。だからほしが、ちいさい。みえない」 果てしなく広がる夜の闇は濃く深い。 雨天時や新月なら尚更だ。 その夜を延々と灯し続ける、星の光が霞む程の眩い明かりとは何なのだろう。 淡藍は夜空を指差しながら何かを呟いている。 その指先の位置を変える度に零れ出る短い言葉は単語のようだ。 星の名は覚えているというのに、自分の名が思い出せない状況がどれだけ心細いか、彼には想像もつかない。 主の問いかけに、結局彼女は答えなかった。 あの時と、今しがたの涙の理由はわからないが、これからも力になってやりたいと思う。 彼が知る範囲で星の名を上乗せすると、淡藍は言葉を覚える時のように彼の発音を繰り返した。 Next |