星を眺めながら帰途についた以降、夜更けの中庭に佇む淡藍の姿を時々見かけるようになった。 飽きもせずに夜空を見上げているようだ。 今夜は月が明るい。 ふと中庭に立ち寄ってみると、果たして彼女がいた。 寝間着姿で部屋を抜け出す行為は褒められたものではないと、自分のことは棚に上げながら彼女に近付く。 「雨涵に見つかると事だぞ」 背後から忍び寄って耳元で囁くと、淡藍は短い悲鳴と共に飛び上がって驚いた。 その反応の良さに噴き出しそうになるが、言ったそばから露見してしまえば二人共々間違いなく説教だ。 素早く人差し指を立てると、淡藍は自分の口元を両手で押さえて何度も頷いてみせた。 「…うかんにおこられる。とうさまがわるいです」 口に添えたままの両手を開き、小声ながらもひそひそと苦情が寄せられる。 もし見つかった時は私のせいだと言いたいのだろう。 ココココと笑って誤魔化すと、にていませんとすげなく返された。 誰の真似なのかは理解しているらしく、笑い出したいのを何とか我慢しているようではあった。 …素直に笑えばいいものを。 彼と彼の主君が軍を率いて領地を不在にする都度、ここが戦国の世であることを否応なく思い知らされる。 出立した将兵の武運を祈りながら、その帰りを待ち侘びる家族や恋人や友人たち。 残された者たちは既に心得たように、表面上は変わりのない毎日を過ごしている。 その胸中で幾度も繰り返されたであろう葛藤や覚悟の程を、私は知らない。 「今日は騰様が付き添ってくださるそうです」 雨涵から町へのお使いの目録を渡され、彼と共に外へ放り出された。 時々雨涵に付いて出かけることはあったが、今回は彼を連れて行けということらしい。 では行くかと素直に応じた彼は、初めての状況に戸惑っている淡藍を促した。 彼は常時多忙な人で、大抵は早朝から登城しているが、今日は自由な時間があるのだろう。 甲冑をまとうこともなく、深衣に羽織の姿をしている。 家の主である筈の彼が雨涵には頭が上がらないことが、最近少しずつわかってきたところだ。 居丈高な態度で振る舞ったとしても、彼の立場であれば誰も意見はできないし、まかり通ってしまう筈だ。 そのような素振りを一切見せることなく、雨涵に小言を貰いながら(聞き流しながら?)穏和に日々を過ごしている彼を、淡藍は好ましいと思う。 町を行き交う人々の様子は賑やかで明るい。 強い領主に守られているからこその平穏な日常だ。 危ういものを感じないと言えば嘘にはなるが、何気ない毎日ができるだけ長く続いてほしいと切実に思う。 人々の様子以外にも、広い道の端に並び立つ様々な店が興味深く、無意識のうちに淡藍の歩調は遅くなる。 「はぐれそうだ」 そう言って彼が差し出した大きな手に、鼓動が跳ねる。 ためらいながら自分の手を伸ばすと、彼は淡藍の手をしっかりと掴んだ。 その力強さや、節くれ立った固い皮膚の感触、そこから伝わる彼のあたたかな温度を感じる。 手を引かれながら歩いているうちに、騒がしい鼓動はやがて治まり、羞恥心よりもはるかに勝る安心感が淡藍の胸中を満たしていた。 「みんなのようすを、みていました。あかるい、たのしい。おうきさまと、とうさまのおかげ」 「…だからこそ、負ける訳にはいかぬ」 穏やかな表情で告げられた短い言葉から、彼の強靭な意志を感じる。 どれ程の重責なのか、淡藍には想像もつかない。 「おふたりは、とてもつよいです。とうさまは、まけません」 「淡藍はよくわかっている。その通りだ」 繋いだ手をわざと大きく振りながら、彼女は笑顔で頷いてみせた。 雨涵に渡された目録に目を通し、時々彼に文字の意味を教えてもらいながら、ひとつずつ用事を済ませていく。 淡藍自身は頻繁に接しているので気付かなかったが、どうやら彼は随分と人目を引くようだ。 城の主に仕える副官という彼の立場を、領地内の住人たちは既に知っているからだろうか。 それとも外見的な要因からだろうか。 すれ違う人々は、やはり黒い髪と黒い目の風貌の者が多い。 それでもこの国は西洋諸国と地続きなので、中には彼のように渡ってくる者がいるのかもしれない。 遠方の異国の人は少ないのかと、覚えている言葉を懸命に並べて彼に尋ねる。 淡藍の問いかけをすんなりと汲み取ってくれた彼は、そう言えばあまり見かけぬと、何でもないことのように答えた。 「子供の頃は、よくからかわれたものだ」 碧眼児だの白髪鬼だの言いたい放題だ。 すぐさま力技でやり返して、剣の師匠に容赦なく説教されたな。 そう語る彼の表情は、どこか懐かしそうに見えた。 彼が投げ付けられた言葉の意味はわからなかったが、喧嘩沙汰になったのであれば、恐らく悪口の類なのだろう。 不意に立ち止まって隣の偉丈夫を見上げると、彼は何事だと言わんばかりに大きな目をしばたたいた。 「とうさまのめは、きれいです」 そらのいろ、うみのいろ、らんぎょくのいろ。 わたしのすきないろです。 彼の視線がふっと柔らかく細まり、無言で頭を撫でられた。 そうされることに、以前は嬉しいような面映ゆいような感情を抱いていた。 何かにつけての子供扱いを、最近は不服に思う。 背後から淡藍を驚かせたり、自分の主君の特徴のある笑い方を真似したり(似ていない)、真顔でわかりにくい冗談を言ったりと、日頃から茶化されている自覚がある。 子供はどちらだと反発したくなるが、決して不快なのではない。 それどころか。 …自分はいびつな形でこの世界に存在している異分子だ。 こうして何の苦労もなく生きていられるだけで幸福だというのに、これ以上何を望めるだろう。 途中で軒下の長椅子に並んで座り、休憩した。 少し苦めのお茶を飲みながら、店の者が運んできた皿を受け取る。 焼き目のついた団子のようなものに、とろりとした蜜がかけられている。 口に入れると餅のような食感と共に、蜂蜜の香りと味が広がった。 無意識に笑みを浮かべながら咀嚼していたようだ。 いい顔をしているなと彼に笑われた。 先程から沈んでいた胸中を見透かされたようではっとする。 彼は鋭い人だ。 自分の様子を見かねて、甘いもので励ましてくれたのかもしれない。 彼があっという間に完食している様を見て、単に好物なのだと、そう思い込むことにした。 慈しむような優しさが幾重にも降り積み、胸が苦しい。 …とうさま。 こわいのです。 くろいなにかが、おいかけてくる。 何も心配はいらぬ。 …泣くな、私がそばにいる。 鍛錬や軍務のため、大抵は早朝に起床する彼の寝床に、今朝は見慣れぬものがあった。 波打つ褥に散らばる琥珀色の長い髪。 寝起きにしては敏捷な動きで自分の隣を確認すると、寄り添うようにして淡藍が眠っていた。 枕まで持参している様を間近に眺めながら、色々な意味で彼は頭を抱えたくなる。 夢だと思っていた薄闇での彼女とのやりとりが、そうではなかったことを理解してもいた。 「騰様。起きていらっしゃいますか?」 程なくして居室の扉の向こう側に雨涵の声が聞こえた。 その時機の良さに溜息を吐いた彼は、仕方なく寝台から起き上がると扉に向かった。 寝間着は着崩れているし髪も乱れたままだが、さすがにこの状況では身だしなみについて煩く言われることはない筈だ。 「朝からお騒がせして申し訳ございません。淡藍が部屋にいないのです。屋敷中を探しているのですがどこにも…」 「ここにいる」 腹を括って部屋の奥の寝台を指差すと、雨涵はまあと呟きながら驚いたように彼を見つめた。 この家の重鎮とも言える彼女が慌てることは滅多にないので、少しだけ愉快な気分になるが、まずは潔白を弁明しなければならないだろう。 「…誤解するな。私も今しがたの起床時に気付いたばかりだ」 「騰様がご無体な真似をなさるとは思っておりませんが、忍んできた際はお気付きにならなかったのですね」 さすがに痛いところを突いてくる。 夢うつつでは気付いた範疇には入らない。 「そうだな。迂闊だった」 もはや淡藍が刺客だとは思わないが、もしそうであれば寝首を掻くのは容易かった筈だ。 「何事もなくて安心いたしました」 どうやら雨涵の説教からは逃れられたようだ。 しかし、それはどちらの意味でだろう。 事情は聞いておきますので心置きなく軍務に精励なさってくださいと、早々に部屋から追い出される。 …まだ着替えてもいないというのに。 彼女の前では大将軍の副官も形無しだった。 暗闇に潜む影が怖いのだと、片言の言葉で淡藍は告げたのだという。 頭痛がひどい時に悪夢を見るとも。 それは失われた記憶に関係するのだろうか。 当初はそのような話はしていなかったので、徐々に戻りつつあるのかもしれない。 回復に向かっているのであれば喜ぶべきなのだろうが、幻や悪夢に怯えることが良い兆候だとは思えなかった。 その日の夜、淡藍は凝りもせずに枕を抱いて彼の私室にやってきた。 雨涵には何も言われなかったのだろうか。 礼儀や作法に厳しい彼女なら、小言の一つでも零しそうなものだが。 中庭の件と同様に、人知れず抜け出してきたのかもしれない。 無下に追い返すこともできず、知らないうちに忍び込まれるよりはましだと甘受することにした。 そうして添い寝の今に至る。 不思議と疚しい感情は湧かなかった。 女というよりも子供と接している感覚の方が近いからだろう。 …或いはそう思い込もうとしているのかもしれない。 「海を隔てた遠い国まで追っては来れぬし、実体をともなわない影などただの腑抜けだ」 褥に横臥し片肘を付いた彼は、上掛けを強く握りしめながら仰向けで天井を睨んでいる淡藍に話しかける。 「安心しろ。お前が言った通り、私は強いし殿はもっと強い」 やがて彼の側へ寝返りを打った淡藍は、沈黙したまま彼に向き直った。 今の言葉が理解できなかったのだろうか、それとも返答の語句を考えているのだろうか、しばらく無言で見つめ合う。 暗闇を恐れる彼女のために、明かりは灯したままだ。 静かに揺らめく小さな炎が、自分を見上げる瑞々しい目に映っている。 言い直すべく口を開こうとした時、空いている方の彼の手に淡藍の手が重なった。 思わず息を呑んだのは、彼女の手があまりにも冷たかったからだろうか、それとも。 「つよいとうさまといっしょ。あんしんです」 ようやく表情を緩めた淡藍は、彼の手に触れたまま、おやすみなさいと呟き目を閉じる。 上掛けを肩まで被せてやりながら、彼はひそやかに溜息を吐いた。 危ういものを感じたのは、警戒心皆無な彼女の様子に対してだけなのだろうか。 埒もない考えに捕らわれながらも、自分に寄り添った淡藍の体温がことのほか心地良く、やがて彼も眠りに就いた。 その夜以降、淡藍が彼の私室を訪うことはなかった。 自分が安堵しているのか、それとも落胆しているのか、彼には判別がつかなかった。 彼女と共に眠ったのはそれが最後だった。 Next |