訳の分からぬまま、幸村は勝手に歩き出す老人の後を着いていく。忍びの気配はない。それどころか、武田軍が迫っていることを知らないかのようにこの場所は静まり返っているのだ。
「貴殿は一体・・・」
前を歩く老人は、ある部屋の前で止まり、入るように幸村へと促した。
「わしは北条氏政じゃ」
「!!!」
当主、北条氏政。
その名前を聞いた幸村は、緩んでいた気を引き締め、表情を硬くした。
さくら殿に合わせてもらえないのだろうか。風魔が言ったことは嘘だったのか?彼女の名を出して、自分を陥れるつもりだったのだろうか?
段々と険しい顔つきになる幸村を見て、氏政は困ったように眉を下げた。
「お主は、少しばかり勘違いをしておるようじゃのう・・・」
「ッ何を申されるか!盲目の女子を一人残し放置するなど、貴殿には情というものがあるのでござるか!?」
激昂する幸村。だが氏政は顔色一つ変えず、落ち着いていた。
「甲斐の虎若子よ、お主はまだまだ若い・・・良いことじゃ」
「っ」
「ほほ、聞いてくれるか?わしはのぅ、あの子に何一つしてはやれぬ。簡素だが使いやすい屋敷を建てても、高い塀を作っても、飢えを知らない暮らしにしても、この老体ではあの子を支えることなどできぬ。わしは、あまりにも、多くのものを失い、そして背負いすぎた。
・・・じゃからこそ、お主に頼みたいと思っておった」
氏政の目に光が灯り、それは幸村を鋭く貫いていた。
「あの子を、
わしの可愛い孫を、
助けてやってくれぬか?」
この老人は何を伝えたいのだ。
それよりも、何を言っているのか理解できない。ああ、北条に捕えられているとばかり思っていた自分はどれだけ滑稽だったろう。先走っていた己の過ちだったのだ。
「(あの、優しい目は)」
氏政は隣りの襖を指差すと、風魔を連れてどこかへ行ってしまった。
「・・・・・・」
幸村は、氏政にいわれた襖の前で、正座をしたまま固まっていた。恥ずかしい。勘違いでこんなところまで来てしまった。会いに来たものの、何と言っていいか分からない。
笑ってくれるだろうか。それとも、怒るだろうか。泣かれるかもしれない。どうせなら、元気に声を張り上げて叱ってくれた方がいい。
意を決して、襖を開けた。
「っさくら殿・・・?」
いた。
会いたくて会いたくて仕方なかった彼女が。
向こう側の扉が開いていた。先ほどまで晴れていた空は鈍色の雲に隠され、冬に入りかけているせいか入ってくる風はひやりと冷たい。
彼女は、幸村に背を向けてどんよりと曇った空を見上げていた。
「さくら、殿?」
微動だにしない。
「さくら殿、さくら殿」
重ねた幾重もの着物の上からでも分かる、細すぎるその体。絹糸のような赤い髪を、風が攫っては流れた。
無言。
沈黙。
まるで―――人形のよう。
「ッ・・・さくら!!」
彼女が眺めていたのは空などではなかった。
そう錯覚させたのは
「幸村さん」
ぱっちりと開かれた目。
いつも閉じられていたはずのそこからのぞく瞳。
「幸村さん」
そして、穏やかな声で静かに「死にます」と言った。
信じられなかった。座っているとはいえ、まっ白い頬には程よく血が通っているのが分かるし、口調もはっきりしている。むしろ、前より具合がよさそうに見えた。
「そろそろ死にますね、私」
こちらを向いたその瞳には、小さく自分の姿が映っていた。
―――それでも、彼女が自分を見ることはないのだ。
庭に咲く満開の桜と同じ、薄い桃色の大きな瞳。素直に、綺麗だと思った。
それを自覚した途端、恍惚とした表情を浮かべていた幸村の顔が、絶望に塗りつぶされた子供のような、くしゃりと泣きそうなものに変わった。
「知ってたんです、全部」
「全部、とは」
「全てです。どうしておじい様が私をあの家に置いていったのか、どうして私は甲斐に閉じ込められたのか、どうして今まで会うことができなかったのか、どうして存在を隠されたのか・・・
全部、私を守るためだったことも」
それで、おじい様が苦しんでいたことも。
「な、」
「でも、幸村さんがあの虎若子だとは思いもしませんでした」
ふふ、と彼女は笑った。
酷く儚げで、脆そうで、壊れそうで、今にも崩れ落ちてしまいそうな、虚勢の微笑み。
何故こんな風に笑う?
「幸村さん?」
「ッさくら殿は」
幸村は涙を零した。
涙腺が壊れてしまったのかもしれないな、と頭の隅で冷静に考えながら、泣きながら怒鳴った。
「何故、そのように諦めるのでござるか!!?」
いつもいつも、笑って誤魔化し、答えてくれない。本当の気持ちなんて言ってくれない。家から出たいなら攫ってでも、綺麗な景色が見たいなら、外の様子が知りたいなら、俺がいつでも教えてやるのに。
「もっと、頼って下され・・・!!!」
不安だったろう。
唯一の肉親に嫌われているかもしれないと―――自分はいらない存在なのだと、一度でも考えてしまっては。
「・・・そう、ですね」
「ッ」
「真実から目を逸らして、自分を守りたかっただけなのかもしれません・・・だって、誰かのせいにすれば私は傷付かないから」
「さくら殿・・・」
頼ってくれ。
せめて、その美しい笑顔だけでも守らせて欲しい。
幸村はさくらを引き寄せ、自分の胸元に掻き抱いた。細くて柔らかい、自分よりはるかに劣る弱い体。こんなに小さな存在を、どうして見捨てることができようか。腕の中にいる彼女が愛おしい。霞むような声と同時に震える方も、縋りつくように鎧を掴む指も、胸元を濡らす滴も。何もかもが愛おしかった。
「さくら殿・・・」
体勢はそのままに、幸村は一つ一つ、ゆっくりと口を開いた。
「某と、めおとになって下さらぬか?」
小さな肩が、ぴたりと震えるのをやめた。
「某―――いや、」
「俺は、さくらと一緒にいたい」
「共に生きたいのだ」
さくらが顔をあげた。
そして微笑む。潤んだ瞳に見上げられ、幸村は頬を染めながらも停止した。
「待っていて下さい」
「いつか」
「いつか、きっと」
君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな(貴方に逢う為ならば惜しくないと思っていたこの命までもが、お逢いできた今となっては長くあって欲しいと思うようになりました)
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