これ のつづき


最高に最低だと思った。
少女がそんな矛盾じみた言葉を使ってまで毒を吐くほど捻くれてしまったのは、無理もないことである。少女は物心つく依然の赤子の時代から世間に蔓延るありとあらゆる賞賛を欲しいままにしており、その影響が不幸にも彼女を疑心の鬼と変貌させることになった。
彼女は世界の誰よりも、賞賛と嘘を嫌っていたと言っても過言ではないだろう。
木曜日の旧校舎が取り壊されるとその少女と少年が聞いたのは、Xデーの二週間前だった。



月初めに一度行われる全校集会で、校長直々にアナウンスがあったのだ。夏は生徒の肝試しの会場として使われるほどおどろおどろしくもあるその古びた校舎を壊し、ここ数年実績を伸ばしている野球部のために専用グラウンドを新設するといった旨の説明をしたのち、その旧校舎が設立されたのは百年近くも前で、雨の日も風の日も雪の降る寒い日も一日も欠かさずそこへ聳え立ち生徒たちを暖かく見守ってきたそれが、どんなに歴史と威厳を誇った尊い存在かという、実にくだらない御高説を得々と話しはじめた。そんな校長に対し、少女夢山夢子は反吐が出る、とその誰よりも誉高く見目麗しい尊顔を不快に歪ませた。薄く滑る上辺だけの取り繕った言葉を何よりも嫌う彼女にとって、自身の聖域を穢されたような気分になったし、その旧校舎を誰よりも尊く想っていたのは自分自身ともう一人だという自負もあった。

けれども先に音をあげたのは彼女ではなかった。

数百人に及ぶ生徒が秩序を守り整列する隙間からスッと、さりげなく外れ、少年降矢竜持は集会所である体育館を抜け出した。誰よりも素早く彼を見つけた夢子は、ゆらりと長い肢体を揺らして、彼の後を追った。

「竜持」

体育館裏で竜持を見つけた夢子は、先ほどまで耳に溢れていた雑音のような校長のダミ声とは程遠い、張り詰めた弓のように凛々しく場に透き通る声で、彼の名を呼んだ。

「どうしたの?」

竜持は踵を返し、夢子に向き直った。

二人の間を風が通り過ぎた。
揺蕩うのは、彼の髪と瞳か。赤い瞳がいつもより濃く見えたのは、おそらく竜持が不機嫌に目を細めていたからだろう。夢子はその姿を、ひどく美しく思った。夢子は、時折見せる竜持のその表情を、愛おしく思っていた。目は口ほどに物を言う、と言ったのは誰だっただろうか。彼の瞳は嘘をつかない。それは、夢子にとってどうしようもなく尊いものだったし、感情を示される時が最もその人の人間味を感じる瞬間だったからだ。ただ、彼女がそういった人の感情の機微に気付けるようになったのは、ごく最近の話である。

「竜持、怒ってるの?」

夢子の問いかけに、竜持は「怒ってる……とは違うと思います」と言って、見慣れた自嘲じみた笑みを見せた。

「ただちょっと、聞くに耐えなかったんです。呆れてものも言えませんね。これだから、大人は……」

それを怒っていると世間一般では言うのではないか、と内心夢子は思ったが、竜持の言葉に水をさすまいと黙った。竜持の嘘のない言葉を聞きたいと思った。彼は夢子が唯一、疑心もなにも持たずにその言葉を受け入れられる人物だったからだ。

「口先だけではなんとも言えますね」
「ええ、私の一番嫌いなことよ。嘘つきは嫌い。だから誰も、竜持以外は誰も、信用できないわ。学校で一番お偉い方まであんな、 紙よりも薄っぺらい演説しかできないのだから」

そう話しながら、二人の足は無意識に旧校舎へ向かっていた。二人で喋るときは大抵あそこを使っていたのだから、習慣づいてしまっていたのかもしれなかった。

「確かにボロいですねえ」

今にも吹けば崩れ落ちてしまいそうな廃校舎を見上げ、竜持は独り言のように呟いた。しかし一人ではなかったため、側にいた夢子がすかさず「そうね。事実だわ」と同意を込めて相槌を打った。取り繕ってこの校舎を褒め称えても、なんの意味もないことを知っていたし、なにより、それは彼女が最も嫌ったことだった。
二人で玄関正面から伸びる階段を一段ずつ、ゆっくりと登った。二階へ続く踊り場に、大きく薄汚れひびすら入っている鏡が置いてある。普段は自身の気に入らない顔を視界へ留めたくない夢子はここを脇目も振らずに通り過ぎてしまうのだけど、竜持が立ち止まり、鏡の中をジッと見つめるので、同様に立ち止まって鏡に映る自身たちを見た。

「でも、私はここが好きよ」

――ここの匂いが。音が。寒さが。静けさが。好き。
依然に比べれば、竜持の存在のため、少しは愛着はもてるようになったものの、幼い頃よりの刷り込みは強く、未だに受け入れ難い自身の容姿を見つめながら、夢子はこの今にも崩れ落ちてしまいそうな校舎への想いを呟いた。鏡の中の自身の唇が動くのを見て、鏡の中でこちらを見ている人間が紛れもない自分自身だということを確認する。
隣に映った竜持がこちらを見ているのに気づき、鏡越しに視線を合わせた。

「奇遇ですね、僕もです」

竜持くんが口の端を吊り上げて笑う。よく浮かべる笑みだった。
更に二人で階段を登り、音楽室へ行く。二人の、密会部屋だった。
竜持が指定のピアノの前に座ると、夢子もすぐにピアノに一番近い、窓際先頭の席に着く。
窓から見える木が、いつの間にか賑やかになっていた。寒い冬を越え、季節は大分春めいていた。彼女が好きな、アンデルセン。雪の女王が住む城のように、凍えるほどの冷たさと寂しさを孕んでいたこの音楽室も、陽気が差し込むようになった。まるで、竜持の涙が夢子の心臓に刺さった破片を落としてくれた時のようだと、夢子は思った。

「こんなボロいところ、初めは気にいるなんて思いませんでした」

竜持が調律されていないピアノに人差し指を滑らせた。指先に埃が溜まり、口の端を吊り上げる。

「確かに、竜持は現代っ子だものね」
「馬鹿にしてます?」
「ふふ。少しね」

イタズラ地味た笑みを浮かべる夢子。これは珍しい表情だった。

「そうですね。時代遅れの建物だって、最初は思ってました。でも、ここは煩い人がいませんから。校長みたいに、カエルみたいな声で無駄話する人とか」
「そうね、嘘つきもいないわ」

夢子はそっと瞼を閉じた。
静けさが響く。光が射すのがわかる。包み込むような暖かさもあった。
立ち入り禁止と規律をつくり除け者にしておきながら、この校舎への感謝を述べ、そして無慈悲に取り壊そうとする。嘘つきの考えることは全くわからない。これこそ壮大な矛盾ではないか。夢子は竜持の息遣いを微かに感じながら、薄ぼんやりと考えた。

「どうにかしようと思えば、できますよ」

竜持が、少々窺うような音色で言った。
閉じていた瞼を開けた夢子が、訝しげに彼を覗く。正面に向き合うように腰掛けていた竜持が目線を床に伏せ、虚ろ気に言った。

「どうにか?」
「ええ、この校舎の取り壊し」
「そんなこと」
「できないはずない、って?」

――僕、端からそうやって決めつけるの、嫌いなんですよね。

竜持が一度瞬きをしてから、夢子を射抜くような瞳で見た。竜持に「嫌い」と言われたのはこれで二度目であり、また彼女の短くも長い十五年間の人生の中でも、たった二度目の出来事であった。一度目は二人が初めて会話をした体育の授業でのことあり馴れ初めでもあるのだが、割愛。とにもかくにも、誰よりも誉れ高い彼女に対しこのような物言いをすることができるのは、竜持以外におらず、他人からすると畏れ多い行為に他ならなかったのだが、自身への聞き飽きた称賛を素直に受け取ることのできない彼女にとってはそれが一等尊い行為だった。

「けれど」

逆説の接続詞を持ちいり否定の意を示したのは、竜持だった。

「僕たちのエゴで、未来ある野球部の栄光とかいうやつの機会を奪っても構わないのか、という気持ちも、ないことはないです」

ひどく回りくどい 言い方をするのには、迷いがあるからだろうか。
今でこそ文学部ではあるが、嘗ての竜持は兄弟たちと共にピッチを駆け回ったスポーツ少年であった。それは彼の価値観及び人生を変えたと言っても過言ではない経験であり、そのことからも、野球部に対して忍びない気持ちがあった。専用グラウンドがあれば、もっと効率の良い練習ができることだろう。竜持は捻くれてはいたが、鬼ではなかったし人並の情も持ち合わせていた。

「僕たちは、もうすぐここを卒業しますから」

夢子は春の陽気に微睡むようになってから、一日一日が短く速くなったと感じていた。
もうすぐXデーがやって来る。その日、答辞を読むのは、問題児でありながら主席をキープし続けた竜持だった。もちろん竜持の意向ではない。彼はこういう、いかにも優等生の役割を毛嫌いしたし、柄でもないと自負していた。だから竜持も「興味がない」という理由で最初こそ断ったのだが、父母の勧めもあり、受けることにした。竜持は両親(特に父親)には滅法弱かった。(また、もちろん誉れ高い夢子にもお呼びはかかったのだが、捻くれ者の彼女はまた馬鹿にされたと思い、謙遜ともとれる皮肉の言葉で断ったのだった)
竜持が言った「どうにかできないこともない」とは、このことではないか、と夢子は推理した。この答辞を使い、何かをしでかそうと。竜持のことだ、卒業式を台無しにしても、自身の考えを貫くこともあるだろう、と。また、自身の言葉ひとつでそれが実行に移されるかどうかも、察することが出来た。

「竜持」

夢子が名前を呼んだ。呼ばれた少年は「はい」と同じ音色で応えた。まるで呼ばれるのを待っていたようだった。

二人にしか分からない空気が、そこにはあった。

「私は、この校舎が好きよ」
「ええ、そうですね」

――静かで、寒くて、寂しくて。まるで雪の女王のお城みたい。私は、女王に魅せられてしまった、少年カイだったの。

「でも、私の鏡の破片は、竜持が取り出してくれたわ」


――今だって、これからだって、この校舎が好きよ。でも、それ以上に、竜持が好きよ。私は、竜持の傍に帰るのよ。カイがゲルダの元へ帰ったのと、同じように。私が帰るのは、この校舎じゃないのよ。だから、誰も後悔しないことがいいわ。竜持は意外と、優しいから。


夢子は薄く笑った。
竜持は、一度驚いたように目を見開き、そして同じように薄く笑った。



「そろそろ行きましょうか」

竜持が立ち上がって手を差し伸べる。夢子は瞬間、目を丸くしたのだけれど、彼の意図に従うように至極ゆったりとした動作で彼の手に自身の指を乗せた。まるで春風にのったタンポポの綿が、地面に着地する時のように軽く。
そのまま竜持に体をひかれるので、夢子は慌てて席から出て彼の前に立った。
竜持と向き合う形になる。竜持が首を傾げた。竜持を見上げて、竜持は自身よりも背が高かったことを夢子は実感した。
竜持が目細めて、夢子を見つめる。夢子は目が離せなくなった。先程まで濃い色をした彼の赤い瞳が、今は眩い。
目は口ほどに物を言う。
夢子は実感した。

――ここは静かで、寒くて、寂しい。それでもここが愛おしいのは。

夢子が目を瞑るのと同時に、竜持の唇が彼女の額に優しく落ちた。



その日、Xデー。厳かな雰囲気が取り巻く体育館の壇上に、生徒代表として竜持が上がった。
高い舞台から見下ろすと、生徒の個性が見える。既に泣いてる者がいる。飽きている者もいる。同い年の兄弟があくびしているのを竜持は捕えて、思わず笑みを浮かべた。

「答辞」

竜持が三つ折りにしていた紙を広げた。この日のために書き上げた言葉がずらりと並んでいる。そんなに長くはない。もう見なくても覚えてしまっていた。視線を遠くに移す。同級生の波から、一際目立つ夢子を見つけた。どこにいても目につく。彼女は誰よりも美しい。
こちらをジッと、強く見ていた。

「今日のような麗らかな春の日には、この学校へ入学した時のことを思い出します」

何度も行ったリハーサルで聞いた通り、寸分違わない彼の答辞が体育館に響く。
竜持の男性にしては高くない、けれども夢子のそれよりはずっと低い、聞き慣れた心地よい声が、夢子を誘う。

「(ああ……)」

うっとりと、夢子は入学した時のことを思い出す。

――あの時は、竜持のことなんて知らなかった。竜持に声をかけられた時を思い出すと、場所はこの体育館じゃないの。私を嫌いと言った彼に、興味をもったのよ。嘘のない言葉だと思った。それからはずっと竜持と一緒。あの校舎で。そんなこと、誰も知らない。私と、竜持以外は。
私のことを好きとも言った。嘘つきだと思った。今までで一番苦しかった。
好きだったからよ。

夢子は珍しく感傷的になっていた。それは、生まれて初めて好きだと思えた他人との別れにあった。
夢子と竜持の進学先は違っていた。
たかが進学先一つで互いの関係など簡単に変わるはずもない。そうは思っていたが、竜持と廊下でアイコンタクトをすることも彼の噂を人から聞くことも気に入らない教師を揶揄しあうことも、もうないのかと思うと、彼女のビー玉のような瞳に薄い膜ができた。

――こんな風に、私が感傷的になれるのも、竜持のおかげね。


最後に彼女の脳裏に浮かんだのは、あの日、泣いた竜持に抱きしめられながらひどくみっともない姿をした、自分だった。


「最後に」


竜持の声が高らかに響いた。リハーサルとは違う締めに、気付いた数人が顔をあげた。



「時代遅れの学び舎に、最上級の感謝の意を。大好きでした。おやすみなさい」





日和日さん
企画に参加していただき、ありがとうございました!
いつも感想いただいて、本当にありがとうございます。一つ一つがとても嬉しくて…感謝しています!;;;;
続きということで、どうでしたでしょうか…。少しでも楽しんでいただければ幸いです…!
社会人設定のほうは…竜持くんの将来がまったく想像つかなかったというか…^^
いつもお世話になっているうえ、サイトも覗いていただいて企画にも参加していただけて、本当に嬉しいです。ありがとうございます!
これからもよろしくお願いいたします^^
それでは失礼いたしました!
(20130924)
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