その少女と少年が生徒立ち入り禁止の旧校舎で、俗にいう密会紛いのことをするのは、決まって木曜の放課後だった。毎週木曜は職員会議が行われていて、教員の目を盗むことが容易だったからである。本校舎の裏庭の体育館倉庫のまた裏に位置するその旧校舎は、都心ではすっかり見なくなった木造建築で、いつからそこに構えているのだろうか、触れては崩れ落ちてしまいそうなほど年季が入ったその出で立ちからは不気味なものが感じられた。本校舎の裏に面していることもあり、昼は日陰、夜は闇に照らされて、年がら年中冷たい風が吹き込む、寂しい場所だった。夏休みに子供たちが面白半分に肝試しを行う以外、ほとんど人が立ち入ることなどなかった。人目を避けるには、絶交の場所だった。
密会と言うとやましく如何わしく訝しく思うかもしれないが、恋人関係とは縁遠い、一同級生という以上以下の関係を持たない二人が人目を忍んでこの旧校舎で会うことに、なんら意味はなかった。所詮は密会紛い。紛い物だ。通ったところで何をするわけでもなく、ただ時間を共有するだけの仲であった。特に約束をしているわけでも強要されているわけでもない。けれども、二人にとって「木曜の旧校舎」は暗黙の了解だった。互いを似たもの同士として認識していた少女と少年にとって、外界から切り離された二人きりの「木曜の旧校舎」は、ひどく落ち着きをもった心地の良いものだったのである。二人はそれがまるで、生まれたからの定めであるみたいに、そこに足を運んだ。

今日は十二月第一週目の、木曜日。密会紛いの日である。

ギシイ、と旧校舎から人知れず古びた木の床が軋む音がする。これは少女の足音であった。触れては崩れ落ちてしまいそうな年季の入った校舎ではあったが、未だ建物としての役割を細々と果たしているそこは、華奢な少女の身体を支えるには充分だった。時々先ほどのようなギシイと悲鳴のような声を上げたけれども、それは木造故の宿命であり、特に崩壊の危機に陥っているわけでもなかった。
軽い足取りで、いつも二人が落ち合う、二階の音楽室に向かう。時折、開いていないはずの窓から隙間風が吹いて、少女の頬を叩いた。これは桃山中学校の七不思議の一つとして数えられていたのだけれど、実際は閉まった窓から吹いているのではなく、古びてしまった木の隙間から吹いていただけだ。が、そんなことまだ義務教育中の幼い子供たちからしたら、ただ白けてしまうだけの事実でしかなく、誰もがその可能性について考慮することはなかった。
少女が突き当りにあてられた音楽室の扉をそっと開けると、既に少年がいた。弾けもしないピアノの前に座って、少女に向かってうっすらと微笑みかけた。

「やあ、夢子さん」
「こんにちは、竜持」

短い挨拶だけかわし、少女は少年のすぐ傍の席につく。「今日は遅かったですね」と丁寧な言葉で少年が問いかけた。同学年に対してこの言葉遣いは違和感を覚えるだろうが、これは彼の癖みたいなもので、そんなこと遠の昔に知っている少女はそれについてとくに言及することもなく「担任の御教示が長かったのよ」と答えた。

「そうですか。あの教師はお話ばかりが長くその実中身がないので災難ですね。時間の浪費が趣味なのでしょう、全く持って迷惑な方ですね」
「そうねえ、せめてもう少しエコならばいいのだけれど」

同意するように薄く笑った少年がふと窓の外を眺めた。一緒になって少女もその視線を追う。窓の外には、葉が枯れ落ちた、やはり寂しい一本の木が立っていて、風に枝先が揺らされた。

「今日は、寒いのでしょうね」

家に籠っていたわけでもない少年が外の寒さを知らないはずなどなかったので、まるで他人事みたいな言い方をする不思議がそこにはあった。寒かったのはどちらさま?陽の当たらなくなった旧校舎に寄り添う木を想い「そうね」と短く返事をすると、少年は小さく微笑んで、また窓の外をぼんやりと眺めた。特に会話がなくなったので、少女は学校指定の鞄から読みかけの本を取り出し、読書に耽った。二人揃ったところで、何をするわけでもない。ただ傍にいるだけであった。しかしそこには、気まずい雰囲気などは微塵もなく、寧ろ二人にとって穏やかな空間であった。

少女の名は夢山夢子。少年の名は、降矢竜持と言った。



夢山夢子は才女だった。聡明で知識に溢れ、成績も常に上位。文武両道。何事にも秀でた夢子は、たった十五歳の少女であったが物静かな性格も手伝って、既に気品すら感じられた。心地よいソプラノ声で紡ぐ夢子の言葉には、誰もが耳を傾けた。加えて容姿端麗であった。立てば芍薬座れば牡丹とはまさしく彼女のことであり、花のように美しかった。赤ん坊のように柔らかく白い肌に可憐に染まった桃色の頬。ビー玉のように大きい黒目がちな瞳と長い睫毛はまるで作り物のようで、頭のてっぺんから足の爪まですべてが完璧としか言いようがなかった。同時に、細く長いしなやかな肢体は握れば簡単に折れてしまいそうな儚さも兼ね備え、それが一層美しさを際立たせた。一挙一動が溜息の出る眩さであり、読書中に髪を耳にかける些細な仕草でさえ、見惚れるものがあった。
誰もが夢子を羨望の眼差しで見つめた。嫉妬といった、人間が当然のように持ち合わせる感情すらも、彼女の前では完全に平伏した。夢子を嫉妬の対象とすることは、あまりにも烏滸がましいことだった。
人は彼女を、さながら聖女のような人だと呼んだ。
夢子は誰からも愛された、神聖な存在だった。

ただし自身は除く。

夢子は誰もが羨む存在でありながら、誰よりも自分のことを疎ましく思っていた。不快にも思っていた。それは、人々が彼女を崇めれば崇めるほど、比例するように大きくなっていった。完璧だと謳われた彼女に唯一暗澹たるものがあるとすれば、その旋毛曲がりな性格だ。
美人は三日で飽きると言ったのはどこかの落語家だったそうだが、まさしく夢子自身がそうだった。鏡を覗き込むたびに、この非の打ちどころのないほどに整った美しい顔がある。夢子が鏡を覗いたのは三日どころの話ではなく、物心つかない時間さえも含めれば単純計算で五千四百七十五日で、一日に三回鏡を見たと仮定すれば、更にこの三倍である。飽きを通り越す。夢子は鏡を覗くたびに見える、誰もが見惚れるこの顔が嫌いだった。なんの面白味もない、つまらない顔だと思っていた。生きた顔ではないとも思っていた。目は死んだ魚のように生気がなくて、黒目がちの瞳は陰鬱としていた。なんの魅力も華もないこの顔が、誰よりも嫌いだった。隣のクラスに高遠という女子がいたが、夢子は彼女を羨ましく思っていた。好きなものに猪突猛進で、はつらつとした性格。生き生きと動く身体にも、それに合わせて陽気に跳ねる髪にも、瞬きするたび目まぐるしく変わる表情にも、いつも目を奪われた。魅力的というのはああいう人を言うんだろう。いつも遠巻きに見て、そんなことを思っていた。
けれどもそのような想いを知らぬ人々は、夢子を讃えるのを決して止めはしなかった。夢子は最初それを社交辞令や媚びだと受け取った。否定もした。そんな高尚な人間じゃないと言った。その度に人は、驕らない奥ゆかしい人だとまた夢子を褒めた。悪循環。褒める褒める褒める褒める。夢子が受け入れられない言葉を、お構いなしに浴びせてくる。いつしか夢子は人々の言葉を、辟易するようになった。そしてそれは、夢子の中で猜疑心へと変貌していった。自身にとって嫌悪の存在である彼女を褒め続ける人々を、夢子は疑うようになった。嘘つきと思った。疑心に囚われた。誰の言うことも、信じなくなった。

ただし竜持は除く。

降矢竜持もまた、拗け者だった。言葉の粗を探し揚げ足を取っては他人を嘲り、時々自身すらも皮肉った。自分が認めるごく少数の人間以外のことを、馬鹿にしていた。夢子に比べ言葉としてそれを表す彼は、慇懃無礼な物言いをしてはしばしば他人からの反感を買ったが、一切気に留める様子もなかった。弱者の僻みだと、一蹴した。実際彼は実力も才能もあり、去年は数学オリンピックの代表にも選ばれた。数学以外の成績も常に上位で、幼少期に明け暮れたサッカーでは所属チームのレギュラー要因として世界一になった。頭の回転も速く口達者で、誰もが彼の前では舌を巻いた。その性格を除けば十二分に、人から一目置かれる存在であった。
竜持のそういった性質の悪い性格が夢子を例外とすることは、決してなかった。

初めて話しかけてきたのは竜持の方からだった。去年の隣のクラスとの合同体育で、二人一組を作らされた時だ。隅っこで余った夢子がぼんやり立っていると、同じく余ったらしい竜持が「一緒に組みましょうよ」と声をかけてきたのだ。周りを見渡せば皆同性同士で組んでいるのに、この少年は気にしないのだろうかと思ったのを、夢子は覚えている。クラスの仲が良い男女が一緒に帰っただけで次の日に冷やかされているのに。けれども口達者な竜持をからかう人間はそうそういなかったし、同じく、憧憬の対象とされた夢子をからかう人間もいるはずがなく、竜持の行動はそれを理解してのことだった。

「夢山さんって、友達いないんですか?」

人からそんな風に直球且つ痛いことを尋ねられたのは初めてのことだったので、少なからず彼女は動揺した。密かに、コンプレックスに思っていたのだ。同性異性問わず慕われることはあったが、誰も近寄っては来なかった。親しくなろうとする者は、一人もいなかった。それは人が彼女に対して畏れ多く思っていたからに過ぎないのだが、夢子は知る由もない。そのことも、彼女の猜疑心を助長させる要因となっていた。
「あなただって友達がいないから余ったのではないの?」そう尋ねた。すると竜持は「質問に質問で返すのは嫌いです」ときっぱりと言った。嫌い、と。これまた、十四年生きてて初めて投げられた言葉だったので、またも彼女は面食らうことになった。

「嫌い?私?」
「また質問ですか?あなたしかいないと思いますけど?」
「そんなこと、初めて言われたわ」
「まあ!なんとご立派!自分がそんなに高尚な人間だとでも?大した御身分ですね」

わざとらしく驚いたように目を見開いた後、楽しそうに顔を綺麗に歪めて微笑む竜持に、夢子が受けた衝撃は計り知れない。同時に、初めて本当のことを言ってもらえた気がした。取り繕ったり媚びたりしない、真っ直ぐな言葉だと思った。

――この人は、嘘をつかないかしら?

夢子が竜持に興味を持った瞬間だった。


意外にも、二人が親しくなるのに時間はかからなかった。二人は同年代の少年少女より幾らか落ち着いており、どこか似たところがあった。それに加え二人とも賢かったので、互いの考えていることをなんとなく理解することができた。夢子にとってそれは初めての経験でとても居心地のいいものであった。同時に、初めてできた友達とも思うようになった。竜持の言葉だけは、ストンと心臓に落ちてくるように、夢子の心に落ちてきた。
二人は互いの教室を行き来するだとか、一緒に下校するだとか、休日に出掛けるだとか、そういった同学年の親しい男女がしているようなことは一切しなかった。校舎で擦れ違っても、互いに視線を合わせるだけで、特に声をかけたりもしなかった。ただ放課後、図書室に通う竜持を訪ねて、度々夢子が足を運んだ。竜持は「また来たんですか?」と少ない言葉をかけて困ったように微笑むだけで、追い返したりはしなかった。夢子も、竜持の傍に座って、外を眺めたり、物思いに耽ったりして時間を過ごした。

「旧校舎、行ったことあります?」

ある日竜持が言った。夢子は首を横に振った。特に用事もないのに立ち入り禁止の旧校舎に近寄るはずがない。「僕昨日行ったんですけど、きっと夢子さんも気に入ると思いますよ」と言う竜持の言葉に夢子は少しだけ驚いた。成績上位者で真面目な印象をもたらしながら、意外と規則破りなことをする。自由で羨ましいと思った。竜持のそういう囚われないところが好きだとも。
その日の放課後、竜持に連れられて旧校舎に立ち寄った。
ギシギシと鳴る床。隙間風の吹く窓。立て付けの悪い扉。音の狂ったグランドピアノ。古びた寂しい学び舎。隔離された、不安定で脆い世界。
竜持の言った通り、夢子もすぐにそこが気に入った。それから二人は、示し合わせたわけでもなく、旧校舎に通うようになった。次第に木曜が教員に見つかり難いと気付いてから、通うのは木曜日となんとなく決まっていった。



「夢子さん、何を読んでるんです?」

本を読む夢子に竜持が声をかけた。緩やかな声に促されて顔を上げる。夢子は竜持に表紙を見せるように持ち上げて「雪の女王」と言った。

「雪の女王?アンデルセン?」
「そう、小さい頃絵本で読んだのよ。文庫になっていたから、懐かしくて」
「へえ、まあ僕は読んだことないですけど」

え、読んだことないの?
夢子が驚いたように声をあげると竜持は「うちは家にいるより外で遊ばされていたので。数学関係の本なら腐るほどあるんですけど」と言った。

「私の一番好きな童話よ」

夢子が慈しむように静かに笑った。その姿はさながら聖母のようだったけれども、ここには竜持しかいないので、そう彼女に言う人は誰もいなかった。

「カイという少年の目と心臓に刺さってしまった鏡は、物事を捻じ曲げて映す鏡だったのよ」

夢子がぱらぱらとページをめくった。竜持は相槌を打つことはなかったが、彼女の言葉に静かに耳を傾けた。

「悪魔の割った鏡のせいでね、優しかったカイは拗け者になってしまうの」

可哀想なカイ。と夢子はまるで自分のことのように悲しんだ。実際彼女は、カイと自分を重ね合わせていた。きっと自分にも鏡の欠片が刺さっているんだと、幼心に思ったことがある。だから自分は人を信じられない、寂しい人間なんだと、何度も嘆いた。そしてその度に、やはり自分が嫌いになっていった。

「カイはどうなるんですか?」

まるで子供がお話の続きを強請るときのように、竜持は彼にしては珍しく無垢な瞳で結末を待った。

「最後はね、ゲルダという幼馴染の少女がカイを想って流した暖かい涙によって破片が流されて、元のカイに戻れるのよ」

夢子は静かに瞳を閉じて、少女ゲルダに想いを馳せた。彼女は待っていた。自分のために暖かい涙を流してくれる少女ゲルダのような存在を。自分を救ってくれる存在を。自分にとって一番と成り得る存在を、待っていたのだ。
そしてそれは竜持がいいな、と朧気に思った。

「なら僕は悪魔ですね」
「悪魔?竜持が?」

一通り話を聞いた竜持による予想外の配役に、少しばかり驚いた声をあげた。

「ええ、だって僕、三つ子の悪魔って呼ばれてたんですよ。あれ、知りませんでした?」
「ええ、初耳。もっと言えば、三つ子ということも初めて聞いたわ」

これだけ竜持と一緒にいるのに、案外知らないことだらけだと、夢子は思った。それを少し寂しいと感じた。竜持は「そうでしたっけ?」と少し首を傾げて笑った。

「弟も桃山中ですよ。ほら、五組の、大きい人がいるでしょう?柔道部の。案外僕たち似てると思うんですけど、知りません?降矢凰壮っていう、だらしない感じの」
「……私、あまり他人に興味ないのよね」
「だから友達がいないんですよ」
「しょうがないじゃない、好きだと思える人がいないのだもの。みいんな、嘘つきばかり。私のこと煽ててはいるけれど、きっと陰で馬鹿にしてるんだわ」
「おや、随分お偉い発言ですね。いやだなあ、そんな卑屈にはなりたくないなあ」
「何よ、竜持だって私と似たようなものじゃないの」
「一緒にしないでくださいよ、僕は馬鹿にしているだけで卑屈なわけじゃないですから」
「一緒よ。だって竜持も、好きだと思える人なんていないでしょう?」

夢子は本を閉じて、首をゆっくりと傾けた。彼女の艶やかな髪が揺れる。その仕草さえも、目を魅かれるものがあった。
竜持は彼女の問いについて少し考えるように黙った後「いませんねえ」と顔を歪めて笑った。その答えに、夢子は満足そうに微笑んで「ほらね」と言った。

「でも、その割には僕のところには足繁く通っていましたね」

竜持は目を細めて、試すように夢子を見つめた。この問いかけに、夢子がなんと返答するのか、興味があった。すると夢子は、先ほどの竜持のように考えることはせず、ほとんど反射的に答えた。

「竜持は特別」

照れも恥じらいもしない。夢子は真っ直ぐ竜持を見た。これは彼女の本心で、竜持に対する友好の証だった。反対に、竜持は視線を逸らした。竜持は、こういった人から受ける真っ直ぐな感情を居心地のいいものと素直に思える性質ではなかった。

「……そう、ですか」
「ええ、そうなの」

――だって私のたった一人のお友達ですもの。お友達でよき理解者で、捻くれた、正直者。
私、あなたの言葉なら信じられるのよ。信じたいのよ。

人知れず心の中で、夢子は竜持に語りかけた。



日が暮れてそろそろ帰ろうか、と二人で音楽室を後にした。階段を降りると、踊り場のところに二人の全身がすっぽり入ってしまう大きな鏡があった。あまり綺麗ではない。随分昔から使われていないのだ。埃がついて曇っていた。少し割れ目もあった。夢子はその鏡を覗きこむ。嫌いな自分の顔と目が合って、しかめっ面になった。どうしたんですか、と竜持が問いかけるので「竜持、私って綺麗?」と日頃人々に繰り返し言われる言葉を問い返した。
夢子は竜持を試すように見上げた。
けれども竜持は、どこかで聞いたことのあるような決まり文句に思わず噴き出してしまった。クスクスと忍ぶように笑うけれど、夢子は至極真面目な顔で黙っていた。

「いやだなあ夢子さん、いつから口裂け女になっちゃったんですか?綺麗って言ったら、どうなっちゃうんでしたっけ?」
「質問に質問で返すのは嫌いよ、竜持」
「ああ、すみません。ええと、べっこう飴でしたっけ?それともポマード?懐かしいですね」

真面目に取り合わない竜持に思わず夢子は溜息を吐く。からかう竜持を横切って、ギシギシ音を立てる階段を降りていった。

「ごめんなさい、怒らないでくださいよ」
「怒ってないわ、呆れただけ。竜持って、案外子供っぽいのね」
「あれ?知りませんでした?僕案外子供っぽかったと思うんですけど」

未だクスクス笑う竜持に「もういいわ」と小さく言い、二人は旧校舎を後にした。やはり外は寒く、身が震えた。髪の毛が冷たい。頬にあたる風も吸い込む酸素も、すべてが凍えるような寒さだった。これではいつ雪が降ってもおかしくない。
本校舎の裏を抜けて、裏門から下校する。夢子と竜持の家は反対方向であるので、門を出たところでお別れだった。「さよなら」といつものように短い挨拶を交わし、夢子は竜持に背を向けた。

「夢子さん」

竜持が夢子を呼び止めた。返事はせず、ただ振り向く夢子。竜持は眉を下げて笑った。

「綺麗じゃないって言われても、夢子さん、嬉しくないでしょう」
「……」
「夢子さん、愚かですね」

愚か。
夢子は竜持の言葉を反芻した。そして一人、心の中で呟いた。

――そうね、私は愚かかもしれない。綺麗だと言われたらきっと竜持のこと見損なってしまうのに、竜持に綺麗じゃないって言われるのは、少し悲しいと思うもの。矛盾しているけれど。
竜持は、いつも、一番欲しい言葉をくれるのね。一番、あなたが思ったことを言ってくれるのね。
私、竜持なら信じられるのかしら。





夢子が初めて異性から愛の告白を受けたのは、次の日の話だった。昼休みの屋上に上がる階段。呼び出した相手はクラスメイトの男子で、夢子自身は名前も知らなかった。美しく聡明で誰からも羨望された夢子が今まで誰からも告白されなかったというのは意外な話かもしれないが、必然的な話でもある。高嶺の花。夢子は聖女のような存在であり、誰もが手の届かない存在として認識していた。それ故誰もが彼女を見つめるだけで満足していたのだ。しかしそれは賢明な判断である。拗け者の彼女が愛の言葉を囁かれれば、どのように受け止めるかはもはや言うまでもないだろう。猜疑心の塊である彼女は真剣な男子の言葉さえも疑い、罵倒さえしたい気持ちになった。うそつき、と。

「あなたは、私のどこが好きなのかしら?」

夢子の問いに、男子は懸命に思いの丈を伝えた。「物静かなところ!」「品のあるところ!」「美しいところ!」「それを鼻にかけないところ!」どれもこれも、反吐の出るものだった。聞き慣れた誉れ。それ故に、夢子にとっては、疎ましいものでしかない。

「物静か?品がある?私あなたと喋ったことないのよ?よく言えたものね!美しいところ?このつまらない能面顔が?あなたって、センスがないのね」

一息に言い放ち夢子は踵を返して階段を降りていく。面食らった男子は何も言えずその背中を見送ったが、しばらくすると怯まず追いかけてきて、夢子の前に立ちはだかった。夢子よりも段下にいる男子を、必然的に見下す形になった。

「何かしら?」
「君、最近降矢と仲が良いんだって?」

突然現れた竜持の名字に、心臓が嫌な音を立てた。どうしてこの男子から竜持の名前が出てくるのだろうか、と先ほどまで全く興味のなかった男子に、初めて関心を持った。

「だとしたらなんなのかしら?」
「降矢、彼女いるよ」

夢子の黒目がちの大きな瞳が一層大きく見開かれた。彼の予想外の台詞に、ただただ言葉を失ってしまった。狼狽える夢子を見て、男子はさらに追い打ちをかける。

「隣のクラスに高遠ってやつだいるだろ、あの子。よく一緒にいるの、知らなかった?休みの日もデートしてるの色んな奴が見てて、結構噂になってんだよ」

知らなかった?と言われたところで、夢子には竜持以外の話し相手が特にいなかったので、誰から聞くこともなかった。また、今まで竜持と旧校舎以外で親しくすることはなく、せいぜい廊下ですれ違いざまに視線を交わす程度だったので、竜持の交友関係について知る由もなかった。友達すらいないものだと、勝手に認識していた。
しかし高遠とは、夢子が密かに羨ましく思っていた女子ではないか。竜持と知り合いだったのか。夢子がそのような話を竜持から聞いたことはなかった。

「だからさ、そういう二股野郎を相手にするのはやめてさ、俺みたいに、君のこと一番に好きだと思う奴と付き合えばいいと思うんだよね」

彼の必死な形相から覗く笑い顔に、吐き気を催した。他人を貶めてまで自身を持ち上げようとする姿勢が、何より気にくわなかった。夢子は自身のことは決して好きではなかったが、ある程度の自尊心は失くさずあった。それは彼女が賢くあるが故、自尊心の高い人間の醜さも低い人間の卑しさも、周囲の人間から学んできたことである。故に、いかに自身のことをつまらない人間だと詰っていたとしても、好意の持てない相手と付き合うことなど、到底できなかったし望まなかった。

「そうね、私みたいな捻くれた醜い人間は、あなたのような低俗とお付き合いするのがお似合いかもしれないわね。けれどもお生憎様。私、嘘つきは一番に嫌い」

ゆっくりと声も荒げず淡々と言い放ち、夢子は今度こそ、面と向かって「嫌い」と言われ茫然とする男子生徒を横切って、階段を降りた。

まだ昼休みの終わりを告げるチャイムは鳴っていない。廊下を夢子は無意識に辺りを見回して、生徒の中から竜持を捜そうとした。
誰も彼もを疑ってかかる夢子は、唯一、竜持を信じていた。信頼していた。彼だけは、嘘を吐かないと。彼だけは、いつも本当の言葉を自分にくれると。昨日竜持は「好きな人なんていない」と、そう言った。ならばあの噂は、真実ではない。竜持が誰と付き合うことなどあるはずがない。なぜなら竜持は、誰も好きではないからだ。嘘つきはさっきの男。嘘つきは、竜持以外の人間。だから例え竜持にどんな噂が流れていても、それを竜持の口から聞かないことには、夢子にとって虚言以外の何物でもなかった。
では何故夢子は竜持を捜すのだろうか。
竜持に会って、どうしたいのだろうか。きっかり竜持の口から「そんな馬鹿げたこと」と言ってほしいのだろうか。その噂が嘘だと、目の前ではっきり言ってほしいのだろうか。何故?彼女にとっては竜持そのものが真実であるはずなのに、どうして彼女は、いちいちそんな確認を求めるのだろうか。
それは彼女にも分からなかった。ただ、言葉に出来ない焦燥感が、彼女を支配していた。一言だけでいい。どうしても、竜持の否定の言葉を、聞きたかったのだ。
その不安がどういう感情から生まれるのか、彼女は気付いてないのだけれど。


竜持の教室を覗くと、彼の姿はなく、日直で先生に呼ばれ職員室に行っているのだとクラスの人間から聞いて、職員室に向かった。
一階にある職員室。階段を軽やかに降り、夢子は一階の廊下に辿りついた。まだ昼休みということもあり、辺りは騒がしかった。すれ違う人の中から、いつも見ている人影を捜す。同学年の人間より上品で凛とした姿勢は、いつだって夢子の視界にいの一番に飛び込んできた。こんなに捜して見つからないのは初めてのことだと、夢子は少し気が沈むのを感じた。

――私がカイなら、竜持は彼の言う通り、悪魔なのかしら。それとも。



「竜持くん!」

耳についたのは、捜していた人の名前だった。呼び止めるようなものだったが、取り立てて大きな声だったわけではない。ざわめく煩さの中では、特に目立たないものだった。けれどもその名前は夢子が待ち焦がれていた人のものだったので、聴覚が敏感になっていたのかもしれない。埋もれてしまう中から、その声を拾った。
振り向いた先にいたのは、まさしく名前を呼ばれた、夢子の捜しているその人だった。その人、竜持は、開いた保健室の中に視線を送っていた。夢子が駆け寄ろうとすると、それより先に竜持が「エリカさん」と、保健室の中にいるであろう、おそらく彼を呼び止めた人物の名前を呼んで、微笑みかけた。
夢子はその場で足を止めた。心臓が、嫌な鳴り方をした。少し、手に汗をかいた。

――エリカさん、と言った。竜持が。微笑んで。

竜持は保健室に入っていってしまった。それを見て、夢子は忍び足で、保健室に近づく。中から見えないように、壁際に寄った。どうしてこんな風に、隠れないといけないのか。どうして盗み聞きのような、品のないことをしなければならないのか。夢子自身にもそれはわからなかった。ただ、無意識にそういうことをしてしまっていた。

「どうしたんですか、また怪我したんですか?」

竜持の声が聞こえた。中の様子は見えず、壁に凭れて、会話だけを聞いた。

「ちょっとサッカーしてたら転んでしもうて」
「気を付けてくださいよ、ただでさえいない嫁の貰い手が本当にいなくなっちゃいますよ」
「もう、竜持くんうるさいわ」

あはは、と竜持の無邪気な笑い声が聞こえて、夢子は思わず眉を顰めた。確かに、仲がよさそうに聞こえる。あの噂が、夢子の前にちらついた。心臓の辺りが靄つく。

「そういえば竜持くん、また告白断ったってほんま?」

ハッとした。エリカの台詞に夢子は一瞬だけ驚いて、すぐに胸を撫で下ろした。
この言葉から、夢子はあの噂が真実ではないことを察した。「断った」ことの真偽を尋ねるこの質問は、恋人なら出てこない。恋人ならば、「告白」の真偽は問うても「断った」ことの真偽は問わないだろう。竜持に恋人がいてそれが自分なら、断ることは当然のことであり、わざわざ尋ねることでもないだろうからだ。

「ええ、まあ」
「なんでなん?まあ好きじゃない子と付き合えって言うつもりはないけど、竜持くん、他に好きな子でもおるん?」

エリカの問いに、夢子は「いないよ」と竜持の代わりに答えてやりたかった。

――私は知っている。竜持に好きな人がいないことを。竜持には、好きだと思える人なんていないのよ。私と一緒。そんな心開ける相手もいない竜持に、好きな人なんて、いるはずない。

夢子は、どこか得意気だった。それは竜持と仲がよさそうにするエリカに対しての対抗心なのだけれど、夢子は気付いていなかった。気にも留めていなかった。ただただ、竜持のことをエリカよりも知っているというちっぽけ優越感と、竜持と自分が同族であることへの親近感に浸っているだけだった。

竜持の返答を聞くまでは。


「……ええ、いますよ」


え。
予想だにしなかった言葉に、夢子は一瞬何も考えられなくなった。真っ白になった頭の中にすぐ昨日の「好きだと思える人がいない」という言葉が思い出されて、指先が震えた。
矛盾した竜持の言葉。つまりはどちらかが嘘ということになる。答え次第では、夢子にとって裏切りになった。
夢子はうるさく鳴る心臓を押えた。一度だけ深呼吸し、恐る恐る保健室の中を覗くと、そこにいた竜持は、ひどく真面目な顔でエリカを見ていた。
夢子の視界が歪んだ。足元がふらつき、ドアを軽く蹴ってしまった。小さくではあるが、ドアが音を立て、それに反応するように中にいた竜持がこちらに視線を送った。

二人の視線がぶつかる。竜持が、その切れ長の目を、驚きで見開いた。そしてすぐ、夢子が話を聞いていたのを察して、顔を顰めた。その中に、夢子は後ろめたさを見た。


どちらが嘘か、瞬時に察した。


気付けば、夢子はその場から走って逃げていた。すぐさま「夢子さん!」と慌てたように声を荒げた竜持が追いかけてきて、夢子は振り向くことなく全力で走った。

――嘘を吐いた。竜持が、私に。好きな人なんて、いないだなんて言ったのに。私と同じだと、思ったのに。竜持も、他の人と一緒だったんだわ。私のこと、騙して嘲笑ってたんだわ。
私は結局、一人ぽっちなのだわ。

休み時間ももうすぐ終わる。廊下にはまばらに生徒がいて、その間を縫うように夢子は走った。廊下を抜け昇降口に辿りつくと、夢子は靴を履きかえることもなく、外に駆けだした。彼女が向かったのは、旧校舎であった。
夢子はスポーツ万能で、もちろん短距離も例外ではない。無我夢中で走る彼女のスピードは大したものだった。けれども竜持だって負けてはいない。彼は今でこそ文化部だったが、小学生の頃は兄弟とサッカーに明け暮れたスポーツ選手であり、運動神経には自信があった。ましてや男女の差というのは、大人になるにつれて顕著になるものである。いくら夢子が短距離走に自信があったとしても、男の竜持が相手では追いつかれてしまうのは時間の問題だった。

旧校舎に辿りつき、乱暴に鍵の壊れた扉を開ける。入口のすぐ先にある階段を一心不乱に駆け上った。脆い校舎がギシギシと、痛そうな悲鳴を上げた。
二階に上る階段の踊り場に差し掛かった時、遂に夢子は竜持に捕まった。後ろから思い切り腕を引かれ、そのまま後ろ向きに倒れこみそうになったところを、竜持に抱きしめられた。竜持は腕を夢子の腹に回し、力一杯に抱きしめた。

「離して!」

夢子の叫び声が、静かで寂しい旧校舎に響いた。

「夢子さん!」
「嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき!」

竜持の言い訳めいた呼びかけを遮るように、夢子はヒステリックに叫ぶ。その黒目がちな大きな瞳は暗澹たるものとなり、止めどなく雫が零れ落ちた。

「嘘つき、信じてたのに、竜持だけは嘘を吐かないって、信じてたのに!」
「夢子さん」
「やだ、嫌い!竜持なんて嫌い!私のこと、馬鹿にしてたんだわ。笑ってたんだわ。可哀想な奴だって、醜い奴だって!それをしかも、あんな、可愛い子の前で……!」
「夢子さん!」

巻きついた竜持の腕を、夢子は泣き喚きながら必死に解こうと手にかける。けれども男の力でしっかりと巻きつかれた腕は、びくともしなかった。むしろ、竜持が彼女の名前を呼ぶ度に、その力は強くなっていった。

――好きな人なんて、いないって言ったじゃない。私と同じだって。竜持が一緒だったら、私心強かったのに、私、結局一人なんだわ、誰も救ってくれないんだわ。

――竜持、好きだと思える人がいるの?私にはいない、友達や心開ける相手がいるの?それは誰?五組のだらしない弟?それともあの可愛い高遠さん?それとも他にもいるの?私にはいない、好きだと思える人が、竜持にはいるの?


――竜持、さっき言ってた、好きな人って、だあれ?


「離して、嫌い、竜持なんて、竜持なんて」
「夢子、さん」
「きらい、よ……」

夢子を後ろから抱きしめていた竜持が、首筋に顔を埋めた。先ほどまで夢子を宥めるように呼んでいた声が、消え入りそうなくらい小さくなる。

「夢子さん」

彼女を呼んだ竜持の声が、一層大きく震えてから、聞こえなくなってしまった。
誰もいない旧校舎に、夢子のすすり泣く声だけが響いた。

そうしてしばらく嗚咽を漏らしていると、ふと、もう一つの苦しい声が重なっていることに夢子が気付いた。

「……うっ」
「……竜持?」

夢子は自身の肩に触れる暖かいものを感じた。

「竜持、泣いてるの?」

雫のようものが流れる気配がして、夢子は思わず巻きついた腕を解こうとしていたのを止めて、彼の腕に手を置いた。

「夢子さん」
「竜持?」
「嘘ついて、ごめんなさい」
「嘘……」
「ずっと、好きだったんです」


好きな人いないだなんて、嘘ついて、ごめんなさい。


そう竜持が震える声で、小さく言った。好きだと言ったら嫌われると思った、と。そう言った。

「嘘よ、竜持は嘘つきだもの。私のこと好きだなんて、嘘だわ。そうやって、私のことを馬鹿にしてるんだわ」
「ごめんなさい」
「やめてよ」
「好き、好きです、夢子さん」
「や、やだあ」

夢子は首を左右に小さく振る。
竜持は、今度は「ごめんなさい」と「好き」を交互に繰り返した。

ふと、夢子が顔を上げると、踊り場に飾ってある大きな鏡に、二人の姿が写った。
疑り深い少女に、嘘つきの少年。愚かだったのは、一体誰かしら。

鏡に映る自身の顔と、目が合った。
彼女の美しい顔は、涙でぐちゃぐちゃで顔はしかめっ面、走り回って髪は乱れていて、お世辞にも綺麗なものではなかった。
けれども夢子は、今までで一番、自分の顔を綺麗だと思った。


――ああ、生きてるって、こういうこと。魅力的って、こういうことを言うんだわ。


旧校舎の窓から、隙間風が入り込む。昨日よりも冷え込んだ今日は、木曜の旧校舎よりも幾らか寒い。
どうして気付かなかったんだろうと思えば、なんてことはない。竜持に抱きしめられているからだ、と気付いた。竜持の腕は、暖かかった。


竜持の涙は、暖かかった。


「……竜持」
「……」
「もういいいよ」
「……え」
「もう、謝らなくて、いいから」

涙が暖かいから、竜持の言うことなら、私信じてあげる。
だから、もう嘘吐かないでね。


夢子がそう言うと、竜持は抱きしめていた腕を解き、今度は正面から彼女を抱きしめた。









日和日さま!
こんにちは、いつもお世話になっております!
この度はリクエスト本当にありがとうございました!
いかがだったでしょうか……?
精一杯書かせていただきました!
少しでもご期待にそえられるものとなっていれば幸いに思います。
今回リクエストにあった捻くれた女の子、
というのが今まで書いたことのないタイプのヒロインだったので書けて楽しかったです!
本当にリクエストありがとうございました!
遅くなってすみませんでした><
これからもどうかよろしくお願いします。
それでは^^
(2013.01.10)

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