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やたらと傾斜の高い、人が逆さになって落ちたら確実に即死であろう階段を駆け上がる。原因が何なのか考えたくもない汚れの染み付いた打ちっぱなしのコンクリートはいつ見ても愉快な気分にはなれない。無事そうな部分のみに足をつけて通り目当ての錆び付いたドアの前で一声鳴けば、ワガハイ一匹分、それだけの隙間が開く。中に入った瞬間に大袈裟な音を立てながらドアが閉まり、これまた大袈裟すぎる固い音で鍵が閉められた。

「おっそいんだよクソ猫」
「うるせー、文句言うなら最初からペット可の物件探せよな。出入口が不便なんだよ」

無造作に腹に手を突っ込んできた家主はこちらの都合もお構い無しで歩き出すものだからつい爪を立てて踏んばる。頭上から舌打ちが降ってくるが、これはこいつも悪いだろう。

「なあアケチ、腹減った、メシー!」
「俺は減ってないし、眠い」
「はあ?いや、ちょっ」

抗議を最後まで言う前に、アケチごとベッドに倒れ込んで毛布を被せられる。暴れれば暴れるほどにしっかりと抱き込まれ、倒れ込んだことで近づいた彼の顔がだいぶ憔悴していたため暴れ損ねて息を吐く。宣言の通り眠かったのだろう、すぐに聞こえた寝息に免じて、その胸の上で丸くなって眠る体勢に入る。触れる布の感触は固く、部屋着でもなさそうだったが、その布にどれだけ毛が絡もうともワガハイの関知することでもないだろう。
喧騒が下からも隣からも止まない、酒と煙草の匂いが染み込み過ぎたテナントの空き部屋、そんなどうしようもないような寂しい場所で、いつものように明智吾郎だった男とモルガナという猫のようなものが身を寄せあって眠りについた。

遮光カーテンなんて贅沢品あるはずもなく、隣接したビルからの照り返しというありがたみが皆無の朝日で目を覚まして伸びをする。幾度か転がったけれどもそのたびに引き寄せられたから当然のように伸びたのはアケチの上で、つい出てしまった爪に「ってえ」という不機嫌極まりない声が上がった。丁度いいのでそのまま顔を前足で殴りつける。もちろん爪は仕舞ったし手加減もしている。

「アケチー、メシ」
「うるっせえ猫だな……勝手に食えよ」
「食えりゃ苦労してねえよ。ほーら、起きろ」

後ろ足で立ち上がり前足両方でその顔を踏みつけてやれば、壮絶な唸り声を漏らしながらアケチが起き上がる。ベッドから徒歩二秒のキッチンで皿をひとつしか出さない様子に「お前も食えよ」と訴えれば無言でもう一枚の皿がシンクに並んだ。なんだかごちゃごちゃと乗せられた食パン片手に、猫缶を逆さにして出しただけの深皿を持ったアケチがベッドに腰掛けて膝の上に皿を置く。太腿の上に上がって皿に頭をつっ込んで食べていれば、時折尻尾を掴まれた。

「うわ……服、あちこち毛だらけなんだけど」
「昨日のこと覚えてないのか?」
「眠かったんだよ」
「言い訳でも何でもないだろそれ」
「うるさい。はぁ、洗濯……あと買い物……」
「シゴトは夜か」
「そう、予約二件」

明るかった地毛を暗く染めて、眼鏡なんて必要ないのに掛けているアケチは、戸籍も名前も変えたのに結局探偵紛いのことで生計を立てていた。紛い、というあやふやな表現になるのは示談の持ちかけが主で、表に出来ない案件が多いからだ。功績にもならない毎日食うのには困らないもの。彼を明智と呼ぶのはワガハイと両手を埋めない程の人間くらいだろう。それくらい「明智吾郎」という人間の関わった出来事はもうとっくに薄れていて、関連付けられもせず暮らしている。勿論、ある程度意図的に。
美味しいだとかごちそうさまだとかも言わずに食事を終わらせ、ダルいめんどい行きたくないをローテーションするアケチをせっついて着替えさせ部屋を出た。小綺麗な格好では「明智吾郎」になってしまうからサイズの合わない服にデカい鞄。鞄の中にはコインランドリーに突っ込む衣類の塊と猫と財布、厳重に囲まれた仕事の資料。あの頃のようだ、と口には出さずに懐かしく思う。こちらが揺れるのを全く気にしない今は前の飼い主よりも断然居心地が悪いけれども。
揺らすなと文句を言えば鳴くなと注意されるばかりだと分かっているので黙って揺られて、時折鞄から顔を出してアケチが見ているものと同じものを見る。耳元まで伸び上がってこそこそ交わす会話は軽くて黒い冗談ばかりで人には聞かせられない。
コインランドリーで時間を浪費し、乾いた服を詰め込め終えれば仕事中は邪魔になると言われて鞄から乱暴に落とされて別行動をする。数時間鞄に入れないでいるためだろうに、本当に素っ気なく落とされたのは恨めしく思いつつ、有難くひとりでゆったり出歩いた。

いつもの時間くらいを見積もってテナントの前で鳴けば、部屋着に着替えた彼がこれまた素っ気なく抱き上げて部屋へと入る。
コーヒーの匂いがする。あの、ジョーカーと住んでいた屋根裏で嗅いでいた匂いのコーヒーだ。
嗜好品とは無縁のこの部屋で、唯一のちょっと高めの豆に、安物のカップに安っぽいフィルター、水道水。同じ味にはならないと分かっていて毎度毎度同じ豆を買うアケチが顔を顰めてカップを傾けた。ワガハイを抱き上げたままでだ。

「うわ、まっず」
「大人しく飲みにいけよ」
「どの面下げて何処に行けって?」
「皮はぶ厚いだろ」
「おかしいな、仮面なんてもう被ってないんだけど」
「あーもうメンドくせーな!」

匂いばかりが似ているそれを飲み干して、シンクに突っ込んで灯りを消す。そのままベッドへ倒れ込むものだから、不快な浮遊感に腕の中から不満を訴える鳴き声を上げた。
仕事帰りにジムにでも寄ったのだろう、シャンプーかボディソープの人工的な匂いがアケチからする。明日はワガハイを洗えよ、と身体を踏みつけながら強請れば無言で背中を撫でられた。ともかく寝ろということだろう。当然のように返事は保留だ。
昨日の夜ほど憔悴した様子もなく、ジムにも行ったろうにそこまで疲れ果てた様子もなく、なのに昨日よりも丸くなって寝ようとする腕の中で足掻いて顔が見える位置まで毛布を這い出る。苦労して出てもその顔は腕で覆われていて、仕方がないので腕に乗っかるように丸くなった。あたたかいとは言いきれず、心地よくもないベッドの中で、アケチの深呼吸でゆらゆらと体が揺すられる。そのうち毛布がワガハイもアケチの顔も覆うほどに引き上げられて、とても狭い世界のように外の全てを遮断する。伸ばされた腕を受け入れて、引きずられるままにその頬へと身体をくっつけた。
この感情はなんと言うのだろう、何度も何度も考えていた。罪悪感のような、愛着のような、優越感のような、寂しいような気持ちは。これがある限りはきっと、彼から離れられないのだろうと彼の冷えた指先を舐める。
彼にくっついて体温をひたすら分けた。明智だった男と舞台から下りた猫なんて、そうするしか一緒に居られる言い訳もなかった。



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