01

番外編

『緊急事態のため、高専1年生3名が派遣され、内1名死亡』
その知らせは現実味のなさから名前の耳を素通りした。
今朝、西東京市に向かう彼らを送り出したばっかりだったし、今日の夜は虎杖の部屋で東京観光の予定を立てる約束をしていた。
東京観光と言いつつ虎杖が希望したのは横浜中華街であり、横浜は詳しくなかった名前は虎杖のために観光客向けの情報雑誌を買ってきたばかりであった。
「虎杖くんの遺体は……」
伊知地の事務的な報告は何一つ頭に入ってこない。
書類を持ったまま立ち尽くす名前の様子を伊知地は気の毒そうに伺った。虎杖と名前は同郷で長い親交があったと五条から聞いていた。
「名字さん、あの、お気を確かに……。虎杖くんにお会いになりますか?それとも、伏黒くん達のお見舞い行かれますか?」
「いえ、まだ業務が終わってないので……」
カラカラに乾いた口の中からそんな言葉が溢れ出た。だって、信じられない。
ぎこちない動作で席に座り、書類を引き出しにしまった名前は、デスクトップの画面に並ぶアイコンを呆然と眺めた。
暫く様子を伺っていた伊知地は、名前の後ろからマウスを掴み、電源ボタンへとカーソルを動かした。
「定時は過ぎています。今日は休んでください」
強制的にシャットダウンされ、暗転したパソコンの画面に名前の顔が映る。無表情のその顔としばらく見つめ合っていた名前であるが、伊知地に促されてようやく立ち上がった。
「伏黒くんは医務室にいますので」
「ありがとうございます……」
名前は幽鬼のようなおぼつかない足取りで医務室に向かった。夕立の痕跡が残る道をゆっくりと歩きながら、医務棟の中に入った。
「……家入さん?いらっしゃいますか?」
そっと名前は医務室の主に声をかけたが留守のようで返答はない。
診察室の奥にはカーテンに区切られた6つのベッドがあり、どれも閉まっていた。名前は奥から2番目のカーテンをそっと開けた。
「…………」
そこには眠る伏黒がいた。
起こさないように足音を殺しながらベッドの側に寄り、椅子に腰掛けた。
重症だと聞いていたため心配をしていたが、既に家入の治療を受けた後のようで、伏黒は静かに穏やかな寝息を立てていて、そのことに名前は胸を撫で下ろした。
名前は布団から出ていた伏黒の手に自分の手を重ねた。伏黒の手は名前の手より二周り大きく、熱かった。

 
 
翌朝、五条が高専へと戻ってきた。1年生の担任教師である五条が高専にいることはおかしなことではない。それなのに五条が高専にいるだけで空気が締まるような感覚を名前は感じていた。
英集少年院の事件の補助監督をしていた伊知地は、五条と共に虎杖の解剖に立ち会うらしい。
伊知地から聞いたのではない。今朝、伊知地と並んで歩いていた際に、五条が「伊知地、悠仁の解剖15時からだから」と声をかけたのだ。
伊知地は気を遣って名前の前で解剖について触れなかったのに、その気遣いを五条は一瞬で無に返した。
五条悟とはそういう男であった。

「名前さん、少しは胃に物を入れないと倒れますよ。顔色、良くないです」
事務室で高専が保有する車の定期点検についてのスケジュールを確認していた名前は、伏黒の声に顔を上げた。
「ゼリー買ってきたんで、食べてください」
「ありがとう。食欲無かったから助かる」
伏黒はコンビニの袋から何種類かのパウチゼリーを取り出して机に並べた。
名前はその中から、10秒チャージのキャッチフレーズが有名な銀色のパウチのキャップを開け、本体を潰すように握り、マスカット味のゼリー喉の奥に流し込んだ。
名前の喉が上下し、ゼリーを飲み下すのを確認した後、伏黒も同じシリーズの適当な味を手にとった。
「……虎杖の件、すみませんでした」
「どうして伏黒くんが謝るの?経緯は報告書で読んだけど……悪いのは宿儺で、仕方ないことだったんでしょう」
「俺がもっと強ければ、虎杖を死なせることはありませんでした」
「そっか……」
伏黒の言葉に名前はなんと返していいのかわからなかった。経緯はどうであれ、虎杖を殺したのは宿儺だ。伏黒を責めるつもりはなかった。
最近、死が身近になってきている。祖母の死、虎杖の祖父の死、そして虎杖の死。
名前は俯く伏黒の手をそっと握った。
「伏黒くんは、長生きしてね」
「…………」
「いやそこは私を安心させるために嘘でもいいから頷いてよ」
名前は黙ってしまった伏黒に苦笑いを浮かべた。冗談を言ったつもりではなかったのだが、何も言わずに立ち尽くす伏黒の表情は固かった。
気まずい沈黙に戸惑い、彷徨っていた名前の視線は伏黒の頬で止まった。右頬には白い湿布が貼られている。いつかの時も伏黒の頬には怪我の名残があった。
「……怪我はもう大丈夫?」
「家入さんに治療してもらったので、問題ないです」
「そっか」
怪我をしたこと自体が問題なのだが、呪術師ではない名前が、「怪我をしないでほしい」と頼むのはお門違いな気がして、言えなかった。
「呪術師って……想像とは全然違ったから、私は伏黒くんが心配。昨日、悠仁の訃報を聞いた後、医務室で伏黒くんを見て正直すごく不安になった」
高専の事務員として働き始めて1ヶ月が経過したが、名前は呪術師という仕事を正確に理解できていなかった。
呪いを祓除する仕事には危険が伴うことは知っていた。ただ、まさか死ぬような目に合うとは思っていなかった。
消防士のように、危険を前提にしているがある程度の安全は保証される仕事だと思っていた。
「……虎杖は、最期まで呪術師としての務めを果たしました。俺もそれに報いなければならないと思っています。だから、心配されると分かっていても呪術師として有りたいとも思っています」
未だ現実感のない名前と違い、伏黒は目の前で虎杖が死んでいる。その心情と決意はとてもではないが推し量れなかった。
「同じ世界を共有できて嬉しい気持ちもありますが、名前さんには、呪いと関係無いところで平和に過ごして欲しいとも思っています」
伏黒は椅子に座る名前を立ったまま抱きしめた。伏黒の肩に顔を押し付ける形になった名前の視界は、制服によって真っ暗に染まった。
「私はただ、伏黒くんがいてくれればそれでいいかな」
自分にできることは何があるだろうか。その疑問はまるで帷のように名前の心に影を落とした。

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