かつてないほど憂鬱な気持ちで月曜日の出社を迎えた名前は、課長から指示された会議室で資料作成を行っていた。 9時から課長と部長と名前の退職についての話し合いが行われるはずが、9時30分を過ぎても2人は現れなかった。 会議室の外を通る人通りもなんだか多い気がした名前は扉を開けて外の様子を伺った。 「名字、あんたなんでこんな所にいるの。早く手伝って!」 「え?」 「臨検調査だって!労基署の監督官が来てるの!賃金台帳とかの資料を大会議室に持ってかなくちゃいけないらしくて……ほら、早く手伝って!」 興奮する同僚は捲し立てるように言った。 名前も一大事だと慌ててデスクスペースに戻った。
名前たち経理部のデスクの島の隣が人事部のデスクスペースであったが、その混乱は文字通りてんやわんやであった。 皆が大声を出すせいで酷く煩い。名前も思わず耳を塞いだ。 「これ、半分持ってくの手伝って」 同僚は分厚いバインダーを数冊名前に押し付けた。数年分の賃金関連の資料はずっしりと重い。 早く早くと急かされ、名前も同僚の後を追って大会議室へと向かった。 大会議室には役員だけでなく、各部の部長が揃っていた。上司にあたる経理部長も当然そこにおり、その顔は見たこともないほど悄然としていた。 「……何が起きてんのこれ?」 大会議室を出た名前は同僚の腕を引っ張った。 「ほら4月に辞めた人いたじゃん?あの人の退職金未払いで揉めてたらしいんだけど、それがきっかけで残業代とか残業時間とか諸々が労基署に露呈したらしいよ」 その結果、事前通告なしに労働基準署からの臨検調査が入ったらしい。人事部のデスクから漏れ聞いたというその話は真実味があった。 残業代の未払いどころか、そもそも残業記録さえつけることを許されていない。過労死ラインは80時間から100時間と言われているが、残業80時間を超えない月は滅多になかった。 正式な調査が入れば間違いなく問題になるだろうと名前は思った。 「そういえば名前、辞めるって噂本当?」 「あー、うん。まだ退職願正式に受理されてないんだけどね。ごめんちゃんと言ってなくて……正式に決まったら言おうと思ってたんだけど……」 「いいなあ。私も辞めようかな」 やめちゃえやめちゃえと相槌を打ちながら名前は自分のデスクに戻った。隣の島を見ると人事部の課長と深刻そうに話し込む課長の姿があった。 タイミングが良いのか悪いのか分からないが、名前は控えの退職願を持って課長の側に寄った。 「あの、課長、私の件なんですけど……」 「わかったわかった」 それどころではないだろう課長は名前から退職願を受け取り、人事部長の机に置いた。 呆気なく受理された退職願いに名前はこれ幸いと退職届も併せて人事部長の机に置いた。 労基署の監査官が来ている以上ことを荒立てたくないのだろう。 先週末、七海が意味深なことを言っていたが、臨検調査のことを指していたようだった。何故社員すら知らなかったことを把握していたのか、今度会ったときに確かめようと思った。 名前の希望通り木曜日を最終出社日として退職することが確定した。 労基署からの調査結果を受け取るために再来週、社長が労働基準監督署に出向くらしい。それまでの間、定時帰りを徹底するよう指示が出ていたため、名前の送別会も木曜日の定時後に開かれることになった。 翌日は会社指定休日であることから一次会で事足らず二次会まで開かれ、時刻は21時を過ぎていた。流石に三次会は辞退した名前であったが、大半の社員は臨検調査の話題と職場への愚痴が止まらずそのまま3軒目へと向かった。 「あ……財布忘れたかも……」 デスク周りの荷物や送別の品は名前の両手を塞いでおり、そこそこの重さもあったため、タクシーで帰ろうと思っていた名前であったが、財布が鞄の中に見当たらないことに気がついた。 思い返せば、夕方にオフィスの置き菓子を購入した際に財布を出した。いつもの習慣でデスクに入れてきてしまったようだ。 「最後の最後までなにやってるんだろ私……」 自身のうっかりさ加減に嫌気が差した名前であったが、取りに戻らなければならない。 同僚がついてくると申し出たが、泥酔する先輩を寮に送ることを優先してもらった。 「もしもし、伏黒くん?」 会社へと向かう道すがら、飲み会が終わったら連絡するようにとメッセージを送ってきていた伏黒に、名前は電話をかけた。 「今終わったんだけど、私忘れ物しちゃったから一度会社に戻るね」 「わかりました。俺も後20分くらいで新宿に着くのでまた連絡します」 伏黒は電車の中なのか、その背後からは、東小金井駅への到着を知らせる車内アナウンスの音声が聞こえた。 名前はほろ酔いの足取りで繁華街を抜け、高架下を越え、オフィスの入っているビルへと戻った。
最後になるだろうセキュリティカードを使い、オフィスに入る。自身のデスクの引き出しを開けるとそこには昼間買ったチョコレートと財布があった。
開放感からか、それとも無駄に歩いたからら、また酔いが身体を回るのを感じた。どこかで水を買いたい。自販機の明かりに吸い寄せられるように名前は新宿中央公園に足を踏み入れた。 一番初めに目についたベンチに腰掛け、自販機で購入したミネラウォーターを飲みながら肺の空気を押し出すようにため息をこぼす。自身の息があまりにも酒臭くて辟易した。 「……名前さん、こんなところで何してるんですか。電話にも出ないし」 どのくらいぼーっとしていたのか、いつの間にか目の前には伏黒が立っていた。その足元には白色と黒色の2匹の大型犬がいた。 「ンフフフッ」 「あんた大分酔ってますね」 近寄ってきた伏黒に、名前はベンチの隣を叩いて座るよう促した。 伏黒は仕方なく名前の隣に腰を下ろした。 「ここ、どこだかわかる?」 「新宿中央公園でしょ。知ってますよ」 伏黒の言葉に名前は違うと首を振った。 「やだなあ。ここは、私と伏黒くんが初めて会った場所なのに」 名前は何が楽しいのかケラケラと笑った。酒が入ると陽気になるタイプらしい。 「私ね、伏黒くんと会えて本当によかった。伏黒くんと会えたおかげで会社も辞めれたし!人生変えられちゃったなあ〜」 鼻に抜けるような声で笑う名前に伏黒は2ヶ月前のことを思い出した。2ヶ月間で名前は大きく変わった。環境もそうだが、中身も外見も健康的になったと思う。名前を変えた自覚のある伏黒は少しだけ誇らしい気持ちになった。 「大好きだよ、伏黒くん。本当にありがとう」 名前が伏黒の頬に小鳥のようなキスを落とした。お返しに伏黒も名前の唇を優しく塞いだ。 「俺もですよ。今度は素面の時に言ってください」 口外に酒臭いと言われた名前は慌ててミネラルウォーターの残りを飲み干した。水よりジュースの方が良かったかもしれない。 「ほら、帰りましょう。明日の朝、早いんですから」 明日、名前は高専に引っ越してくる。文字通り昼夜問わず同じ敷地内で生活ができるのを伏黒は心待ちにしていた。
名前が持つ花束の入った紙袋を代わりに持った伏黒は名前の空いた手をしっかりと握り、この年上の可愛い人を絶対に幸せにすると誓った。
END
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