15
日も落ちてエッジに明かりが灯り始めた頃、突然家の扉が強く叩かれてびくりと身体が飛び跳ねた。え、何?恐る恐る扉に近付いて、その向こうから聞こえてきた声に目を見開いた。慌てて鍵を回して扉を開ける。
「レノさん!?」
「ナマエ!おまえ身体は…!?」
「え?」
「え?じゃねーだろ!……、あ?」
見たこともないくらい狼狽えて焦っているレノさんをぽかんと見つめていたら、突然ぴたりと動きを止めてレノさんは私を凝視した。
「え、あの…?」
「倒れたんじゃなかったのかよ?」
「倒れた?誰がですか…?」
「…っはぁ……あいつ、謀りやがったな…」
盛大な溜息を漏らしながら、これでもかと寄せられた眉間。まったく話がわからないけれど、確実にレノさんは誰かに怒っていて。もしかして、任せろってまさかこれのことですか?ルードさん…。でも額に浮かぶ汗と切れた息に、急いでここまで来てくれたんだと単純にも嬉しくてどうしようもなくなる。何より、やっとレノさんに会えた。
「とにかく無事で良かった。急に悪かったな」
「待ってレノさん…!」
すぐに出ていこうとしたレノさんの腕を掴んで引き止める。やっと会えたのに、まだ何も話せてない。振り返ったレノさんが、小さく笑った。
「ふ…、そんな泣きそうな顔すんなよ。どうした?」
「少しでいいんです、話を聞いて下さい…」
縋るような言葉しか出て来なくて、自分が情けなくなってくる。これじゃ、子供っぽいって笑われても何も言い返せない。レノさんの目を見つめて、ただ答えを待つ。
「ん、わかった。入ってもいいのか?」
返ってきた答えに思わずほっと安堵して大きく頷く。良かった、話だけでも聞いてもらえる。レノさんを部屋の中に案内してソファに座ってもらって、私は少し距離を空けてその隣に座った。ああ、どうしよう。緊張で手に汗が浮かぶ。何から話せばいいんだろう。きっと何を言っても困らせてしまう。でも、ちゃんと気持ちを伝えないと先には進めない。大きく息を吸って、私は隣のレノさんに顔を向けた。
「この間、レノさんの様子がおかしかった気がして、それからずっとレノさんのこと考えてました」
「…覚えてねえな、そうだったか?」
「自意識過剰かもしれません、でも哀しそうに見えて、そのレノさんの顔がずっと忘れられなくて」
「はは、口説かれてんの、俺?」
「もう、ちゃんと聞いてください…!」
私が何か言う度に、誤魔化すように口を挟むレノさんに少しむっとする。悪かったって、と大して悪びれもせず言ったレノさんは、そのまま自分の手元に視線を落とした。
「…もうずっと、レノさんのことばっかり考えてます」
「……」
「今日も、ほんとはレノさんのこと待ってました」
「…それは、別件があったからな」
「レノさんに、会いたかった」
「っちょ、ナマエちゃん?」
「会って、言いたかったんです」
「ナマエ、待てって」
「私、レノさんのことがす、…んっ、!?」
気が付けば、一番伝えたかったその言葉を言い終わる前に、レノさんの唇でそれを塞がれていた。何が起きているのかすぐには理解が出来なくて、でも見開いた目の先には至近距離のエメラルド色があって。
「ま、…っれのさ、…っん、!」
離れようにも後頭部を抑えられていて、それは適わなかった。どうしてキスなんてするの、そう聞きたくて開いた唇の隙間から、まるで私に何も言わせないように入り込んできた舌。頭は混乱してパンク寸前なのに、初めて感じるレノさんの熱に心臓まで破裂しそう。舌を絡め取られて、吸われて、息継ぎもままならず酸欠でぼーっとする頭でエメラルドを見つめたら、いつものようにそれは優しく細められた。ぎゅうっと心臓を鷲掴みにされて、切なくてたまらない。
「ん、れの…さん、…っは」
しばらくして唇がゆっくりと離されて、くしゃりと頭を大きな手で撫でられる。呼吸を整えながらレノさんを見上げて、息を飲んだ。そこにあったのは、眉尻を下げて困惑したように笑った顔。どこか泣きそうにも見えて、レノさんがそんな表情をする意味がわからなくて、きっと私も今困った顔してる。
「レノさ…」
「ナマエ」
「…っ」
今日何度目かになる、呼び捨てにされた名前。困ったように笑った顔のまま、やけに真剣な瞳に嫌な予感が募る。何か言わないと、そう思っても喉が焼けたように声が出てくれない。
「…それは気のせいだぞ、と」
「気の、せい…?」
「そう思い込んでるだけ。勘違い。だから忘れろ」
「な、なんで…?なんでそんなこと言うんですか、レノさん!」
レノさんから飛び出る信じられない言葉の数々に愕然とする。どうしてそんなこと言うの。この気持ちが気のせい?好きだと勘違いしてる?そんなわけあるはずがないのに。
「何でも何も、そのまんまだよ。…しばらく会わない方がいいな、俺ら」
「まって、レノさん…!」
胸が抉られるように痛くて、ぼろぼろと涙が零れる。ソファから立ち上がって、部屋を出ていくレノさんに向かって手を伸ばすけれど、レノさんはそれをちらりと横目で見ただけで、その手を掴んでくれることは無かった。嫌だ、待って、行かないで。
「じゃあ、な」
「レノさんっ、お願い…待って…!レノさん!」
レノさんはもう振り向くことすらしてくれなかった。なりふり構わず叫ぶように呼んだ名前にも、返事が返ってくることはなくて、変わりに聞こえてきたのは玄関の扉が閉まる無情な音。追いかけなきゃと思うのに、力が抜けたように床にぺたりと座り込んで、もう動くことすらできない。ぽたぽたととめどなく落ちる涙がラグの色を変える。しばらく涙が止まることは無かった───。