朝の玉響


不死川邸の朝は少し遅めだ。
日盛りの頃に実弥さんは自室から起きだしてきて、顔を洗うと厨に顔を出す。

「あっ、おはようございます、実弥さん!」
「おはよ。ちっとは慣れたかァ?」
「まだまだ修行が足りませんが、お米は焦げなくなりました!」
「っふは、そりゃ良かったなァ。怪我すんなよ」
「はい、気をつけます」

実弥さんはふわりと穏やかに笑って、手拭いを肩にかけ厨を後にした。日課となっている朝餉前の鍛錬のため庭先に出られるのだろう。
夜半は鬼狩りで屋敷を空け、東雲の頃に漸く戻ってきているらしいので、そのような生活様式になってしまうのは仕方が無い。むしろ昼中くらいまでゆっくりお休みになられては、と提言したこともあったけれど、慣れているから良いと言って聞かなかった。
まだ覚束無い手つきで朝餉の支度をしながら、こうして実弥さんと共に過ごすようになってもう早一月が流れるのだなぁと妙な感慨を覚える。廓にいた頃は手をつけたこともない炊事にはもの凄く苦戦したし、未だに実弥さんの腕を超えることができずにいる。ここへ来て数日の間は実弥さんが朝餉を用意してくれたのだけれど、その朝餉といったら美味しくて見目も良くて、この人に出来ないことはないのかと大層驚いたのをよく覚えている。

私に炊事をさせて下さいと実弥さんに申し出た時なんて───。

「炊事させろ、だァ…?」
「はい!ただ置いていただいているだけというのは忍びないので、せめて炊事や屋敷のことくらいは私にさせて下さいませんか」
「俺はおまえを女中として連れてきた覚えはねェぞ」
「ですが…!」
「駄目だ」
「えっ、どうしてですか…!?炊事は確かに経験がありませんが練習しますし、洗濯や掃除なら廓でもしていたので…」
「ハァ……。別におまえの腕を疑ってるわけじゃねェよ。…怪我させたくねェ」
「うぅ、でもでも…」
「気ィ遣うなっつってんだろォ?俺の傍にいてくれりゃそれで充分だァ」

そう言ってぎゅうっと抱き締めてくれたんだ。それから沢山、その、く、口吸いもして下さって…。つい思い出して顔に熱が集まってしまって、ぱたぱたと手で扇ぐ。口元がだらしなく緩んでしまうのはもう仕方がないことだと諦めた。
まあ結局のところ、その後も私が折れなかったので実弥さんは渋々頷いてくれたし、そうしてその日から実弥さん付き添いの元、炊事の稽古が始まったのだった。包丁を握るのすら初めての私に、厳しく指南してくださる鬼の形相の実弥さんは怖かったけれど、それもこれも怪我をさせたくないと私の身を案じてのことだとわかっていたので有難い他なかった。そのお陰で今や包丁で手を切ることも無くなったし、米や魚が炭と化すことも無くなったので万々歳なのである。

「あっ、いけない!物思いに耽っている場合ではないわ…!」

手を止めてしまえばその分朝餉は遅くなる。丁度湯に味噌を溶かしたところなので、具を切らなければと色も形も素晴らしい秋茄子を手にとって包丁を入れていく。とんとんと小気味良い音が厨に響いた。なかなか実弥さんのように手際よくはいかないけれど、これでもかなり成長したほうだ。
そういえば包丁の使い方を指南された時は、後ろから覆い被さるように手取り教えられたんだっけ。実弥さんのおおきな手が、私の手に重なって。耳元で実弥さんが話すから、息がかかって擽ったくて。恥ずかしくてどうにかなりそうだったけれどなんだか嬉しかったなぁ、なんて上の空になっていれば、ざくりと嫌な音と共に襲ってくる鋭い痛み。

「っい、…ったぁ…!」

ああ、やってしまった。左手の人差し指にじんわりと浮かんでくる鮮血に涙が浮かぶ。随分久しぶりに指を切ってしまった。流水で血を流そうと、じくじくと痛むのを堪え蛇口を捻ったところで、廊下から聞こえてきたおおきな足音に身体が強ばった。そしてその音は私の背後、厨の入口でぴたりと止まったので、壊れた絡繰人形のように首だけで背後を振り向けば、そこにいたのは般若のような顔の実弥さん。

「怪我すんなってあんだけ言ったよなァ…?」
「っさ、実弥さん…」

庭先にいたはずの実弥さんに聞こえるほど大きな声で叫んだかしら、とは思いつつ、それはもう恐ろしい顔でずかずかと厨に踏み込んでくる実弥さんに身体が縮こまる。思わずさっと左手を後ろに隠せば、こめかみに青筋をひとつ浮かべた実弥さんが私を上から見下ろした。今なら蛇に睨まれた蛙の気持ちがとてもよくわかる。

「ご、ごめんなさい…」
「名前、手出せ。見せろ」
「あの、そんなに深く切ってないので…すぐ治るかと…」
「…出せェ」

実弥さんの背後にどす黒いものが見えて、これ以上口答えをしたら良くないことが起きると直感しおずおずと隠していた左手を前に出せば、すかさずその手を取られ傷口をまじまじと見つめられる。

「結構深く切れてんじゃねぇかァ…」
「う……、っ、ひぁ!?さ、さささねみさん!?」

なにを思ったのか、私の人差し指をぱくりと咥えてしまった実弥さんにぎょっと目を見開いて手を引っ込めようとするけれど、掴まれた手首はびくともしない。

「暴れんな、大人しくしてろォ」
「あっ、あのあの、汚いですからやめてくださ…!んんっ」

血を吸い出すようにされて、傷がずきりと小さく痛む。それから指の腹、傷口に舌を這わせられればぴりぴりとした鈍痛が走る。肩を震わせてそれに耐えていたら、指を口に含んだままの実弥さんと目が合って、心臓が飛び跳ねた。だってなんだか、少し雰囲気が艶っぽいというか。

「っ、も、もういいですからぁ…!」

心臓も煩いし顔も熱いしでいたたまれなくなった私が泣き言を言うと、実弥さんは漸く小さな水音をたてて指を解放してくれた。形のいい唇と離された指の間に銀糸が伝って、いけないものを見たような気がして目を逸らせば、実弥さんはくつくつと笑って私の顔を覗き込んだ。

「真っ赤だなァ?これに懲りたら気ィつけろよォ」
「は、はいぃ…」
「おら、ちゃんと手当てすんぞ」
「えっ、後でいいですよ!朝餉が遅くなりますし…」
「あァ?どう考えてもこっちのが先だろうがァ」

そのまま有無を言わさずぐいぐいと腕を引かれ実弥さんの自室に連れられ、やっぱり手際よく手当てをして下さり、結局朝餉にありつけたのは昼中だった。
こうして廓にいた頃より随分過保護で、さらに甘さを増した実弥さんと過ごす不死川邸の朝は、とても穏やかでゆったりとした時間が流れるのである。


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