月とすっぽん その日は、今にも雨が降りそうな曇天。見ているだけで憂鬱になる雲で青空は覆われていた。 「あっ、傘持ってきてない」 「今日曇りだけど、降水確率20％くらいじゃなかった？」 「だけれどこの雲の色、今にも降り出しそうだよ」 私は、幼なじみの薫と昇降口にいた。月曜日は部活も補講も課外授業も追試もない、１週間で唯一早く帰れる日。 生徒の多くはこの１週間で１度の特別な日と、この天気のせいでもう学校に残っていない。いくらもうじき夏服に衣替えといっても、誰も制服を雨で汚したくはない。そんな日なのに、私達は係の仕事をやっていたら、遅れてしまった。 「傘、これ使う？」 後ろから聞いたことのある男子の声がして振り向くと、そこには同じクラスの明智君が立っていた。 薫は私より早く声の正体に気づいたに違いない。片手には透明のビニール傘を持っている。 「いいの？」 「良かったね、薫」 薫は思った通り、真っ赤になって俯いていたので、私がわざとオーバーに喜ぶ。薫は普段、明るくてボーイッシュなのに、片思い相手の前だと抱きしめたくなるくらい可憐な乙女になる。 薫が明智君にお礼を言う前に、外から濁音の轟音が聞こえた。私達は思わず耳を抑えた。 「雷？」 「しかも大きい」 「どうしよ」 「とりあえず、教室にいよう」 薫がお礼を言えなくて、何てタイミングの悪い雷だとは思っていたけれど、明智君と長く一緒にいられるなんて滅多なチャンスだ。これは、邪魔者は早く退散するに限る。図書館にでも行こうかな。 なんて暢気に考えていられたのは、ここまでだった。 教室に皆様も着く前に、私から言い訳をさせてほしい。本人が望まない形で薫を置いていったのは、先に述べたように、薫の恋を応援していたからチャンスを作ろうとしただけだった。だけれど、私はこの純粋乙女を侮っていた。 『何も話せないからそしたら嫌われちゃうかも。だから一緒にいて』 なぜ、全世界の男はこんな可愛いことを言う女の子を野放しにしておくのだろう。知っていたら、絶対に、放っておかないだろう。 ということで、あとは雷に助けてもらうことにしよう。あと立ち去る言い訳。トイレなのも仮病使っても嫌だし、というか後で変な噂を立てられる。ということで、私は『何か物音がするから調べてくる』と言って、教室に２人を残した。この言い訳はその時は薫をよりか弱く見せるための嘘だったけれど、後から真実のようになってしまう。 私は、図書室へ向かって廊下を歩いていた。雨はまだ降っていなかった。だけれど雷は元気だ。しばらく止みそうにないだろう。 図書室は特別棟の３階の突き当たりだから教室から遠い。廊下には、演劇部のポスターが貼ってある。「月とすっぽん」と黒の背景にそう書かれている。ふむふむ、変な題名だけれど気になるから後で見に行こう。公開は来週の土曜日。ラッキーなことに予定は入っていない。ここの演劇部のレベルは高校生にしてはなかなか高いからずっと見に行きたいと思っていた。 そこで事件は始まった。タイミングとしては、まあまあ。状況としては、なかなか。鼻歌歌いながらなんて情けないけれど、事実だからそう書くしかない。 まず、急に停電した。私ははじめ、喜んでいた。外はまだ本が読めないほどの暗闇ではないし、薫を自然にさらに可愛くしてくれるだろう。 「何？」 思わず声を潜めて口に出していた。だってそこには私の中だけの嘘だったはずなのに、雷鳴の隙間から、本当に廊下からうめき声が廊下に響いている。 ガシャンッ！ 廊下の突き当たりの方から、何かが倒れる音がした。その音は止むことはない。私がその場から動けずにいると、大きな陰が見えた。それはまるで……。 「キャァァァ!!」 私が叫び声を上げたのと、声が聞こえた辺りの教室のドアのガラスが割れて、ドアが外れるのは同時。 逃げなくちゃ!! 本能で私は駆けた。階段を転ばないように駆け下りて、教室棟へのドアを抜けて通称、連絡通路と呼ばれている廊下を駆ける。そのまま真っ直ぐ教室へ向かう。もしもアイツが本物ならば、薫たちも危ない。 「狼男？」 明智君は疑いの目を向けた。薫は教室の隅で震えていたので、その傍に座って私の話を聞いている。 「それ本当に見たのか？」 「本当よ！ だって、狼の形した大きい影が見えたんだから！ それにあれは人間と狼を混ぜたような……とにかく狼男の叫び声だった！」 「俺、見てくる」 明智君は立ち上がる前に、振り返って薫を見る。 「もう河野いるから大丈夫だよな。何かあったら、逃げるんだぞ」 心配そうに明智君を見ていた薫だけれど、ゆっくりと立ち上がった。 「私も、行く」 「でも……」 「明智君に何かあったら、私心配だもの」 口ごもる明智君に、薫はしっかりした声で言った。誰か、早く、この可憐な乙女を連れ出して欲しい。じゃないと私が泣いてしまいそうだ。 「河野、何してるんだ。行くぞ」 この鈍感男は何も思わなかったみたいで、というか逆に少し困った声で私の名を呼んだ。薫のこの姿を見てテンション上がらないなんて、どうなってるんだこの男は！ とか何とか叫びたかったけれど、私は狼男のことを思い出して気を引き締めた。 「それで見たのは、特別棟の３階だったんだな」 私がどうしてそこに行ったのかは聞かず、明智君は用心して前を歩く。どうやら、女子を守ろうとする心構えはあるらしい。なかなかいい男だ。でも、やっぱり薫にはもったいない。 私達は連絡通路を通って連絡棟に向かった。用心していたが、教室棟には雷以外何の音もしなかった。連絡通路にも何もいなかった。だけれど……。 「私、さっき、ドア閉めないで来たのに……」 そう、連絡通路の先には、閉ざされた特別棟へのドアがあった。 「何で？ まさか、狼男が？」 「落ち付けって。狼男は人を襲うのに、何でドアなんか閉めたりするんだ？ もう学校に残っているのは俺たちくらいなんだから、俺たちを……」 明智君はそれ以上言わなかった。でも彼の言いたいことは分かる。狼男がいて、まだ学校にいるとしたら、私達を襲ってくるに違いない。 「とりあえず、あそこのドアが閉まってるかだけ見てくるか。閉まってたら、狼男はまだ特別棟にいるってことだから安心できるだろ」 そう、特別棟の鍵は特別棟からしか閉めることはできない。だから、このドアが閉まっているとなれば、狼男は特別棟にいることになる。もし開いていたら……。その時のことは、その時考えよう。明智君が確認すると、ドアは閉まっていた。 「キャァァァ」 薫の叫び声に反応して、薫を見ると、薫は下を指していた。 「キャァァァァ」 今度は私が悲鳴を上げた。 特別棟の１階をよろよろと男の先生が歩いている。後ろ姿で分からないけれど、あれは、高橋先生？ そこまではよくあるかもしれないけれど、白シャツの肩から背中にかけて赤い物がくっついている。私達の悲鳴に押されたかのように、先生は倒れた。 「とりあえず、誰かに知らせないと！」 「職員室はまだ先生がいるはず！」 私の声に明智君が反応する。薫も窓から目を離して私達の後を駆け出した。明智君が言ったように、職員室へ走る。そこで私達は、真相を聞くこととなる。 「高橋先生は大丈夫だそうだ」 「だから１人で行かせたくなかったんだよ。頭直撃だっただろ」 「そういう問題じゃない！」 私達がたどり着くと、そこには教頭先生と男子数人が話していた。顔に見覚えがある。確か、演劇部だった気がする。 「それで、華原さんは？」 「大丈夫です。あいつはスカート汚しただけなんで」 「まったく、雷の日に練習などさせるんではなかった」 「俺たち、受験だから今回が最後なんです！ お願いします！」 「それはそうと……」 そこでようやく、教頭先生達は私達の姿を見つけた。 話をまとめると、こういうことらしい。 演劇部は開演が近いので部活がない日だが特別に練習をしていた。そこで雷が鳴って練習を中止しろと言われたが、３年生は受験前最後だから頼み込んだ。 私が聞いたうなり声は狼男役のもので、影も演目のセットの一部だった。教頭先生がおれて練習を続けていたら、停電に驚いた女子部員(名前は華原さん)が演目で使う赤いペンキを落としてしまい、それが顧問の高橋先生の背中に当たる。その時、華原さんが棚を倒してしまい、部室のドアを壊してしまった。 私が驚いたのは、全て演劇部の演目の練習だった。ただ、雷が魔法をかけただけだったのだ。 「これで、次の演目は成功間違いなしだ！」 狼男のことを話して、事実を一部始終聞いた後、３年生は嬉々として言った。その後すぐに教頭先生に怒られたけれど。怪我というか、制服はそれぞれ無事。雷も鳴り終わったし、私達は何事もなかったかのように帰路についた。 「そういえば、何で明智君は演劇部なのに練習してなかったの？」 駅まで送ってくれるという明智君に私は尋ねた。 「あぁ、俺担当シナリオなんだ。だから実験やってから行こうと思ってて」 「そうなんだ」 明智君、科学部にでも入ってたかな？ よく分からなかったけれど、恋する乙女のために私は頷く。 「じゃあ、明智君がシナリオ作ったら教えてね！ 私見に行きたい！」 「分かった、教えるよ」 それから半年後、私はこの事件とよく似た演劇を見ることになった。 prev/next |