赤色ラブフレーバーはとろけたばかり
ひょっとしなくても、これは恋だったのかもしれない。
おれがそれに気づいたのは、ウインターカップの決勝を見ているときだった。
おれは遠くに、あの子の姿を見つけてしまったのだ。
ひとりぼっちで、涙を流して、両手で顔を隠して、それなのにひとみだけはまっすぐにコートを見つめていて、ああ、綺麗だなあ、と、柄にもなく見惚れてしまったことを覚えている。
ずっとずっと、ただひとりのかれのことがすきで。すきですきですきで、追いかけて。かれを殺したおれを、責めず、手を握ってくれたおんなのこ。自分とどうなんて考えたこともない。考える余裕もなかったし、だってあのコの隣にいるのは赤ちんしかいないって、とっくに気づいていたから。
まぶしすぎる一途さを握って、おれに笑いかけてくれる。彼女にとっておれは親しい異性ではあると思うけれど、絶対に交わらない人間であることも理解しているのだと思う。
恋愛感情で刺したことなんてない。嘘だ。でも、かけがえのない本当。
……結局、何十メートルも先にいた彼女はおれのことに気づくわけもなく、一方のおれはポテチの油まみれの手を差し出すわけにもいかず、つまるところ、すれ違いのままウインターカップの会場をあとにした。
あだなちんは、赤ちんに対して、どんな感情を見つけたのだろう。
次に会うときは、笑っていられるだろうか。
心の整理はついただろうか。
おれが好きだと言ったら、どんな反応をするだろうか。
赤司さま、赤司さまって。わんころみたいに赤ちんの後ろをついていく。おれが好きなのはそんなあのコだから、好きだなんて、きっと一生伝えなくても後悔はしないな。
……そんなことを、ぼんやり。考えてみたり。
そうしてやっと気づいた恋心を胸に秘めながら、今年も10月はやってきた。外国人とのバスケとか、インターハイとか。ウインターカップ予選を手前にしつつ、いつものように練習したり勉強したり何気なく過ごして、それでも時間だけは駆け足で。本当にあっという間、瞬きなんてしてられないくらいの猛ダッシュで。
「ねえ、敦、わたしと付き合ってくれないかな」
去年おれがそうしていたように、10月9日、彼女は校門の前に座っていた。
室ちんは状況を察したようで(去年部活をサボる口実をつくってくれたのだから、当然といえば当然だけれども)、もう真っ暗な夜空を案じるように、「遅くならないうちにな」と言い残して、ひとり先に寮に戻った。
ふたりきりになったとたんにこぼされたのは、きっと告白じゃない。ウインターカップであだなちんが見つけた、たったひとつの感情の形だ。
「……赤ちんに会いたくねーの?」
「…………」
「会わせる顔がないだけだよねー。だからおれを使って忘れようとしてんでしょ。おれ知ってるよ」
知ってる、というより、わかってる、と言うべきか。
あのとき泣いていたあだなちんは、大丈夫、まだずっと赤ちんのことが好きな、きれいなあだなちんのままだ。
「とりあえずどっか行こうよ。アイスはなしね。ファミレスでいい?」
部活が終わったばかりで尋常ではなくお腹をすかせているおれだけれど、あだなちんの手前、お菓子を食べることは我慢する。ポテチ食べたいけど。
「うん、いいよ……お願いします」
「そんな顔しないでよー。おれがいじめてるみたいじゃん。大丈夫だよ。怒ってねーよ」
「……ありがとう」
1年に1回しか会えないだけで。もっというと、半年以上前に、たった1度見たきりだった彼女は、この10か月で、驚くほどきれいになっていた。
どこまでも一途だから、きっと、苦しむこともひと一倍で、だからこそ誰にも言えず、感情を殺すばかりだったのだろう。女子高の空気が、あだなちんに何を与えたのかはわからない。プラスになったのか、マイナスになってしまったのか。
ただ肺に冷たい空気をぐっと吸い込むと、どうしようもなく生きている心地がした。
ファミレスに着き、ふたりで適当な席に座ると、メニューをぱらっとめくる。お財布の中身はゴセンエン。……どんだけ食べられるかなあ。量ではなくお財布と相談。親から借りてるカードはあるけど、変に使ったら怒られるしなあ。
「敦、わたしが付き合ってもらってるんだから、好きなだけ食べていいよ。今日おかねあるから……」
「いーよべつに。自分のぶんは自分で払う。赤ちんだったら甘えるけどー」
「……そっか」
あだなちんはドリアを注文した。そんだけで足りるのかなーと思いつつ、おれはひとまずハンバーグとサイコロステーキとしょうが焼きのセットを注文する。テーブルに乗りきらないと思うのでひとまずこれだけだけど、またあとで追加するからよろしくね。店員さんは真っ青。なんで。
「んじゃーあだなちんの話を聞こっかー。おれと付き合うって? あだなちんがー?」
「……うん。敦なら、許してくれる気がして」
「黄瀬ちんなら許さないって? 距離的には黄瀬ちんのが近いから、薬になると思うよ」
「薬……うん、そうなのかもしれないけど……頼めないよ」
「おれには頼めるのに?」
「敦じゃないと頼めない、ってこと。ごめんね、ひどいこと言ってるよね、わたし。でも」
「もうそうでもしないと、赤ちんを忘れられないんだよねー」
あだなちんの気持ちなら痛いほどわかる。だってずっと見てきたのだ。赤司さま、赤司さまって。赤ちんの背中だけ追いかけていく姿。
赤ちんはいつも王者としてリーダーとしておれたちの前を歩いていくけれど、あだなちんに対してだけは違ったことを、おれは知っている。ちゃんと守ってた。自分の背中で守っていたくて、赤ちんはあだなちんの前に立っていたのに。
「……赤ちんのこと、殺しちゃってごめんね」
「敦」
「でも、赤ちんさ、また会えるから。笑ってたから。だから大丈夫だよ。あだなちんがどうして会いたがらなくて、何を怖がってるのか、おれにはわかんないけどさ」
「…………」
ウエイトレスがテーブルに料理を並べていく。おれの注文したおかずでいっぱいになっても、まだ、おれたちは食事に手をつけない。
「でも赤ちんが、誰よりあだなちんを必要としてんのは、ほんとだと思うんだよね」
ダメだよ、とあだなちんは首を振る。
「わたしは赤司さまを見捨てたんだよ。いっしょにいるのが怖くて逃げたんだよ。なのに忘れられないの。あのときの、赤司さまは」
「うん」
去年揃ったとき、赤ちんは一度もあだなちんを見なかった。あだなちんはものすごく気にしていたけど、きっと、だから、なんだと思う。
みんなで同じようなアイスを注文して、ならんで食べて。日が暮れると、あだなちんを送って、それぞれバラバラになって帰った。
東京駅で、またね、じゃあねって手を振ったら、赤ちんはすぐに見えなくなる。その背中はなぜか去年よりも小さく見えて、おれにはそれが不思議で不思議でたまらなかったのだ。
「赤司さまは、わたしを責めないんだ」
そりゃあ、責めるもんかよ。おれのことだって責めないんだから。
赤ちんの細い心に手を添えていたあだなちんを、どうして責められるだろう。
「本当に赤司さまが大切なら、わたしはあのときに、何を捨てても赤司さまを追いかけなきゃいけなかったのに。逃げちゃ、いけなかったのに……!」
まだ17に足をかけたばかりのおれたちに、たったひとりのためにすべてを捨てる覚悟はいらない。おれはそう思っているし、あだなちんがべつの高校を選んだと知ったときも、おれは特に何も思わなかった。
おれたちがばらけているのに、どうしてあだなちんだけが縛られなければいけなければならないのか。道理はない。ただあの日の傷跡だけが、今もかさぶたになって残っているだけ。
「あだなちんがどう思ってるかしんねーけど、おれたち、あだなちんのこと、……大好きだからんね、みんな。じゃなきゃばらばらになったのに10月16日に集まってどうこうとか、しねーよ」
おれは遠慮せずに、料理をいただく。うまい。
「ただあだなちんといっしょにいるのが楽しかったから、いっしょにいたかったから集まっただけー。あだなちんがどう思ったまではわかんねーけど、あのときの赤ちんだって、それでいいって感じたから、東京行くこと選んだんじゃん?」
すき、という言葉が、一瞬歪んだ。おれはそれには気づかないふりをして、もごもごと頬張ったままのお肉だとかを、ぐしゃっと噛み潰して飲み込む。
「……ごめんね、敦。私、なに言ってたんだろう」
「だから、おれはべつに怒ってねーよ。あだなちんがどうとか考えてない。ただ、おれは違うんじゃねーのって思ったことを言っただけ。だってあれ、元々赤ちんの問題だよ? おれが引き金になっただけで、べつにおれのせいでもなんでもねーよ」
「敦」
「って、赤ちんに言ってやったおれであった。まる」
「言ったの!?」
あーなにも聞こえなーい。
おれだって今までずっとあだなちんへのごめんねを抱えていたわけで、ちょっとくらい愚痴りたかったんですう。まあ、もう本人には伝えたけれど。今年の春前くらいに。
赤ちんの問題でしょ、と言ったとき、かれはどんな顔をしていただろうか。おれはふと思い出す。
……笑って、いた。ような、気がする。
「なにを言っている。そんなことはあたりまえだろう」なんて格好つけてたかな。
「敦のおかげで、ちょっと軽くなった気がするな」
「ちょっとだけー?」
「……ううん、実はだいぶ。少しずつ晴れてきたのかも。本当にありがとうね」
「気にしなくていいよ。あだなちんがとか、おれもあんま考えてないし。ただ、16日の行事がなくなったら、おれはやだなあって。せっかくタダでアイス食べられるのにー?」
「ふふ、なんだか敦らしいや。……会えてよかった。ありがとう。私って、自分で思ってたよりずっと弱かったのかな」
少しだけ眉を下げて、あだなちんはドリアを食べはじめる。
そうかもね、とわざとらしく笑いながら、ふたりで食事すること1時間。正直満腹にはまだちょっと物足りないけれど、一応の腹ごしらえをすませて、おれはあだなちんとファミレスを出た。
「今日どうすんの? どっかホテルある?」
「……ううん、ない。さすがにこの時間から新幹線飛び乗るのは……ありかなあ」
「なしっしょ。1週間こっちいるってんならおれがトーキョー行くとき一緒に連れてってやれるけどさー」
「いっしゅうかん」
「あだなちんだって学校あるもんね」
「それはたまらず飛び出した私の責任だと思うんだ……けど……」
うわー、サボりだー、フリョーだー、とくだらなく笑いながら、おれたちは冬の足音が聞こえる、階段をのぼる。目的地は駅だった。
「じゃあどーせなんだから、このままおれと京都まで行っちゃう?」
「え?」
「赤ちんに会いたいでしょ」
「え、でも、」
「はいけってー」
「敦、明日学校は!?」
「あるけど問題なし。部活は休みだし」
「そういう問題……!?」
「黄瀬ちんにも連絡しとこ。拾えるなら拾うし」
「ええええ!?」
そしておれは本当に、腕にすがりつくあだなちんを引っ張って、東京行きの新幹線の普通席に飛び乗ったのであった。
あ、やべ。親のカードこそあれど、泊まり用の荷物なんも持ってきてねえ。
まあいっか。
*
「あのねえ! 呼ぶなら呼ぶで、もっと時間にヨユー持ってやってくださいよ! ほぼほぼ終電じゃないっスか!」
文句を言いながらもちゃっかりと、黄瀬ちんは東京駅の乗り換えに合流してきた。「ウワー普通席セッマー」などと文句を垂れ、おれとあだなちんを交互に見て、サングラスをずらし、ほうっとため息をつく。
「久しぶりっス」
「……うん、涼太。……久しぶり」
泣きそうに笑う黄瀬ちんは、おれたちが確保していた3人席ににっこり笑顔で腰掛けた。
「お菓子いろいろ持ってきたんスよー、食べる?」
「食べるー」
「紫原っちは食べ過ぎるから最後。ナマエっちはどうする?」
「……ううん。私は大丈夫。ふたりで食べて」
新幹線に乗ってこっち、あだなちんはずっと、窓の外を見つめていた。鉄の塊は定刻になるとゆっくりと走り出して、おれたちの故郷を置き去りにする。
「存外素直についてきたねー」
あだなちんの顔を覗き込むと、あだなちんは「へ?」と間の抜けた声を出した。自分が声を掛けられるなんて思ってもみなかったらしい。
「つーかそもそも、俺からしたらなんでふたりが一緒なワケーってとこからなんスけど。俺の方が紫原っちよりも近いじゃんさー」
「えっと……ごめん」
「謝らなくていーっスよ。ただちょっと気になっただけ」
それって謝らなきゃいけないやつじゃーん。ふたりがおれ越しに会話をするので、おれは心でツッコミを入れておくだけにしよう。
黄瀬ちんのカバンからジャガビーを引っこ抜く。いただきます。
「……涼太はきっと、私がこんなでも、優しくしてくれるから」
は? と納得行かない顔をして、黄瀬ちんはおれを見る。
「紫原っち、なんも意地悪してないでしょうね」
「さあー」
おれはあだなちんに優しくしなかっただけで、べつに意地悪をしたわけじゃない。黄瀬ちんの身内限定のいっそ毒になるくらいの優しさは、このこが今望んでたものじゃなかった。それだけの話。
「さあじゃなくってー。まあナマエっちがいいならそれでいいや。……ところで、今回はなんで1週間も前倒しで旅行なんスか?」
状況を何も知らない黄瀬ちんからすると当然の疑問だろう。あ、右隣から、あだなちんからの冷たい視線が来てる。無視しとこ。
「敦があれこれそれって勝手にね」
「勝手にぃ? まあやりそうだけど……あ、そういや紫原っち今日誕生日じゃん。おめでとおめでと。前言撤回で好きなだけお菓子食べていーっスよ。お姉さーん!」
丁度やってきた車内販売のおねーさんを呼び止めて、黄瀬ちんは何やら好き勝手に諸々お菓子を買いはじめる。
「お弁当いる?」
「おれ肉」
「私はお腹いっぱいだから、大丈夫」
「じゃあ焼き肉いっことのり弁いっこで」
お金をちゃっちゃと払って、おれの膝の上やら自分の折りたたみテーブルやらの上に遠慮なく買ったものを置いていく。おれジャガビー食ってんだけど。
「はい、これ紫原っちのね」
「どーもー」
おれが両手を上げて手の置き場を探している横で、あだなちんがお菓子を避けている。空いたスペースにどっかりと焼肉弁当と割り箸が置かれた。
「そーいや慌てて出てきちゃったからいろいろ聞き逃してんスけど」
黄瀬ちんはあだなちんに片手で謝ると、きょろっと目を瞬いた。
「俺たちなんで京都行ってんスか?」
今更すぎる。
おれは今日も上手く割れなかった割り箸にしかめっ面をしながら、黄瀬ちんの横顔に、過ぎるほどわざとらしいため息をついてみせたのだった。
京都に着いたころには、夜もすっかり更けていた。いっそ更け過ぎなくらいに。
「いや正直思うんスけど、俺」
「なあに〜?」
「俺はともかくそこふたりジャージと制服ってこの時間絶対やばいっスよね」
駅を出て、大きく深呼吸。まあやばいといえばやばい。警察のご厄介間違いなし。
「23時半っスよ23時半。やばいって。下手したら駅員さんに呼ばれてるっスよ警察」
「大丈夫だよ。なんとかなるから」
「いや何がどうやって──」
俺と黄瀬ちんが揉めてる横で、ぼうっとしていたあだなちんの目が、そのとき微かに見開かれた。
「……あかしさま」
その小さな声を、おれはきっと、一生忘れない。
やってきた黒い車から、赤い髪が揺らめいて飛び出す。迷うことなくおれたちの方に走ってくるその人を、おれはよく知っている。遅れて、黄瀬ちんが悲鳴を上げそうになりながら、寸で堪えたようだった。
「──ナマエ!!」
おれが呼んだヒーローは、明らかに一番目立つおれでもなく。電灯に光る金色の髪の毛の黄瀬ちんでもなく。
迷うことなく、たったひとりの女の子の名前を、呼んだ。
*
でかい黒いリムジンの中で、おれたち4人は向かい合って座っていた。赤ちんの横には、あだなちんではなく、おれでもなく、黄瀬ちんが座っている。
赤ちんに「座れ」と言われたおれたちが自然と並んで赤ちんと向かいあう形で座って、一番最後に乗った黄瀬ちんが「嘘でしょ!?」と言わんばかりの顔でこっちを見てきたけれどまぁ関係ない。ざまあみろとでも笑っておく。なんて嘘。ごめんね黄瀬ちん。
「……今日はうちに泊まれるように手配しておいから……それにしたって、なんなんだおまえたちは揃いも揃って。敦から急に連絡が来たものだから、飛び上がったぞ」
「え〜、赤ちんが驚くとこなんて、おれまったく想像できないんですけどー」
けらけらと笑いながら、自分でもたまに邪魔になるくらい長い足を投げ出すと、黄瀬ちんのそれとぶつかった。言ってバスケ部一同は皆負けず劣らず背が高いのでよくある現象。黄瀬ちんもさして気にしていない様子だ。
「…………」
誰よりも赤ちんに会いたかったはずのあだなちんは、先程からひとことも発すことはなく、ただじいっと俯いている。それはまるで、赤ちんを殺したあとの惨状を見ているようで、少しだけ、おれの心にもひっかき傷をつける。
「それにしても、紫原っちってちゃっかりしているっスよね、案外」
沈黙に耐えかねたのか、黄瀬ちんがしゃべりはじめる。こんなとき、黄瀬ちんっていいやつだなーって思う。
「べつにー。だってこんな時間になるのわかっててアポなしで訪問しても赤ちんち開けてくれないでしょ」
「そもそもタクシーの時点でNGっスよ。いや本当助かりました、迎え来てくれてありがとうございましたっス」
いや……と赤ちんは視線を泳がせて、しかし目の前にいるあだなちんとは、どうやら目を合わせられないようで。
やがて車は赤ちんちについたけれど、荷物を運び入れてもらってもまだ、ふたりが言葉を交わすことはなかった。
赤ちんがベッドに腰掛ける横で、あだなちんは何も言えずに立ち尽くしている。
「ねえ、黄瀬ちん。いっこお願いあるんだけどいい?」
「え? 珍しいっスね。紫原っちが俺に何かお願いなんて。なんスか?」
「うるさいなー。あのね、あだなちんをちょっと部屋の外に連れ出してやってほしくてー」
話してるとなんだか腹が立ってきた。
「ちょっと赤ちん一発ぶん殴ってやんなきゃ気がすまない」
「はあ!? ちょ、物騒なことはやめてくださいよ!? 喧嘩沙汰なんてバレたらそれこそウインターカップ予選出られなくなっちゃいますよ!」
「喧嘩じゃねーよべつに。ただ、見てらんないじゃん。この状況」
おれがそう言うと、黄瀬ちんはなぜか少し驚いた顔をした。虚を突かれた、っていうか。
そしてどこか感心したように頷きながら、未だふたりで沈黙をつづける赤ちんとあだなちんの方へ走っていった。
「すみません、ちょっとナマエっち借りていいっスか?」
「……ああ」
もうどうあっても気まずいらしいふたりは、むしろ有り難いとでも言うふうに、黄瀬ちんの提案を承諾する。明らか不審にも関わらず、理由も聞かない。こうして、大変情けないことに、あだなちんは赤ちんの眼の前で黄瀬ちんに拉致されてしまった。
そうしてしまうと、部屋に残るのは、おれと赤ちんだけ。
出ていった足音が遠ざかるのを確認して、おれは無遠慮に赤ちんに近づいた。
「ねえ、赤ちん、どういうつもり」
「……どういうつもり、とは?」
赤ちんの声はどこか冷徹さを孕んで、おれの鼓膜に絡みついてくる。いつもと変わらないその態度に、やっぱり、めちゃくちゃに腹が立つ。
「なーんで、あだなちんと話をしないのかって聞いてんのー」
「…………誕生日おめでとう」
「いやごまかすなよ。というかそんなんでごまかせると思ったのかよ。さすがに雑すぎるだろ」
ごまかせると思ったのならふざけてんだろ。おれが声を荒げると、赤ちんは、なぜだか笑った。
「おかしいだろう。おまえにはこうして、普段と何も変わらずに、当然のように口にすることができる。だがもし1週間後、あいつに同じことが言えるのかと言われると、俺は答えることができない」
普段よりずっと低い位置の赤ちんは、同じだけ小さく見えるけれど、それは果たして、視覚だけの問題なのか。
「……言ってやれよ」
悔しい気持ちが、ぐるぐると溢れ出して、止まらなくなる。赤ちんの横っ面を、ぶん殴ってやりたい。
一体今まで、弱っちいあんたが帰ってくるまで、あのこがどれだけ傷ついてきたのか。どんなに傷ついても、傷つけられても、あんたのことしか好きになれなかったあのこは、あんたよりよっぽど強い女の子なのに。
「他の誰が言えなくても、あんただけは、言わなきゃダメだろ」
ちょこんと、赤ちんの前に座って、目を合わせる。赤ちんちっちぇえな。しゃがみこんでるおれと目線が同じなんて。でもあだなちんは、もっとちっちゃい。
「あいつと離れて、いくつか、気づいたことがある」
赤ちんは遠い目をした。ぼんやり笑った表情のまま、殴り飛ばしてほしいと言わんばかりに。
「俺はきっと、ナマエのことが好きなんだろうな」
予想していたよりも、遥かに素直にこぼれ落ちてきた言葉に、おれの口は半開きで固まってしまう。
「好きなんだ。どうしようもないくらい、愛しいと思ってしまう。抱きしめたいと思う。だけど俺は、償いきれないほど、彼女を傷つけてしまった。伝える資格なんか、残ってない」
うっそだろ。思わず口に出しそうになった。
赤ちんって、バカなの? 問いかけそうになった。この場に黄瀬ちんがいなくてよかった。きっと空気を読まず騒ぎ出していた。
「……………………ねえ、赤ちん」
たった数秒で、ここまでの冷静さを取り戻したことを、いっそのこと褒めてほしいと思う。おれはよくやったよ。
自分で自分を褒めながら、おれが心に思うのは、今頃黄瀬ちんと話してるあの子のこと。一体どんな話してるんだろう。黄瀬ちんのことだから、なんだかんだと気の利いた言葉をかけてくれるであろうことは知っている。
「殴っていー?」
努めて穏やかな声音で言う。赤ちんはぎょっと目を剥いた。
「なんであやすように言うんだ。おまえはもっと感情的になるタイプだろう」
「バカにすんなし。おれ赤ちんよりも大人だし。17歳だし」
「たった2か月しか変わらんだろう」
赤ちんはなぜか少し身を引いた。本当に殴られるとでも思ったんだろうか。
「変わりますう。おれとあだなちんの方が誕生日早いんですう」
「その理論で行くと一番大人なのは黄瀬ということになるが」
「それはねーな」
「撤回が早かったな……」
赤ちんはごろりとベッドに転がった。こんな行儀の悪い赤ちんなんて見たの初めてだった。しかも外行った服で。いいのかな。怒られないのかな。
「あのさー、おれはね、赤ちん。正直、赤ちんがあだなちんを幸せにできるなんて、これっっっぽっちも思ってないよ。本当。おれのほうが幸せにできるって思ってる。赤ちんほど金持ちじゃねーし、家族多いから大変だと思うけど、一生懸命働いて、楽さしてあげて、美味しいものいっしょに食べたい」
「…………敦」
「でもね。それじゃダメなんだよ。なんでかわかる?」
鈍感な赤ちんに、どうすればおれの思いの欠片が届くだろう。あの日だって本当は、赤ちんを殺したくなんかなかった。ちょっとした反発心。赤ちんに、自分のことを認めてほしかっただけなのに。
なんであんなことになっちゃったんだろう。赤ちんのことが好きだった。どんな嫌なことがあっても、表に出すことなく、おれたちの背中を押してくれたひと。
ざまあみろって思った。怒りに歪んだ顔を見て。
だけど赤ちんは、赤ちんじゃなくなっても、おれに優しくって、いつもの赤司征十郎として、おれのそばに立っていることを選んでくれた。嬉しくなかったわけじゃない。ぶっちゃけおれは、今の赤ちんも、もうひとりの赤ちんも、どっちも同じくらい好きだ。それでも、おれが今の赤ちんを選ぶ、たったひとつの理由。
「おれが赤ちんじゃないから。ミョウジナマエは、赤ちんのことしか選ばない」
悲しいほどの一途さ。その一途さに、恋をした。
「本当に殴ってやりてーよ。おれがどんなに願っても一生手に入れられないもん、全部手のひらに持ってるくせに、それを手放そうとするなんて」
言葉にして、ああ、あの日の室ちんはこんな気持ちだったんだ、と後悔が芽吹いてきた。同じこと言ってんじゃん。そりゃ殴るよ、気が変になるよ。ごめんね、室ちん。傷つけたかったわけじゃないんだ。あんたのこと。あんたのバスケに対する一途さが、おれにはなかったから。おれを殴ってくれたのが、室ちんでよかったと、おれはなぜか今、ここにいない人のことを思い浮かべている。
「おれが、あだなちんの王子様だったらよかったのになー」
赤ちんを真似て横に寝っ転がって、高すぎる天井を見つめる。視界がやがて滲んでいく。知ってる。知ってるよ。バカなのはおれだってことくらい。伝えなかったのはおれだって同じだ。
付き合ってって、折角言ってくれたのに。おれはそれを不意にしてしまった。
一生伝えなくても後悔しないなんて、とんだ大嘘つきだ。現在進行形で後悔しまくっている。
でも、伝える資格がないのは、おれの方。だっておれはもう、あだなちんと赤ちんを応援するって決めてしまった。だってやっぱり、どう考えたって、おれの横で笑ってるあだなちんと、赤ちんの横で笑ってるあだなちんは、べつの表情をしている。おれは、いつまで経っても片思い。片思いでいい。そう決めた。
赤ちんは、ゆっくりと、起き上がった。
ドアの向こうを見つめて、立ち上がる。
「いいんだぞ。おまえが行っても」
おれは、鼻で笑った。
「ばかじゃねーの」
その答えに、赤ちんが満足したのかはわからない。
ただ、一度もおれのことを振り返ることはなく。
赤ちんは、部屋の扉に手を掛ける。
「敦」
最後の呼びかけに、返事はしない。せめてもの仕返しだ。ここまで手を掛けさせてくれやがって、こんちくしょう。
「ありがとう」
赤ちんは、部屋を出ていった。
おれの言葉が、赤ちんの心にどんな作用をもたらしたのかはわからない。
けれど、赤ちんが出ていってからすぐ、黄瀬ちんが帰ってきたことを考えると、悪い方向には向かなかったのだろう。そのはずだ。
「なんだかよくわかんないっスけど、赤司っち、吹っ切れたみたいっスね。ナマエっちも泣き出しちゃってもー俺お邪魔虫にしか思えな……ってなんで紫原っちまで大泣きしてんスか!?」
ベッドの上のおれを見つけた黄瀬ちんが悲鳴をあげる。あーもーうるさいなー。やっぱ置いてくればよかったかなー、なんて考える。
「泣いてねーし」
「いやもうなんか大洪水っスけど……」
「黄瀬ちん、洪水なんて言葉知ってたんだ」
「バカにしてますよねそれ!?」
けどやっぱ、そんなとこが黄瀬ちんの綺麗なとこだ。一度内側に入れてしまえば、でろでろに甘やかして、もう可愛がるしか道がない。だからおれのことも甘やかしてしまう。調子に乗るだけだってのに。
「おれさ、好きだったんだよ」
何が、とは言わない。
黄瀬ちんも、聞かなかった。
「ほんとうに、すきだったんだよ」
ぐしゃりと顔が歪んだ。ダメだな、本当に大洪水じゃん。どうしてくれんの、これ。
そう思っていたら、ポケットティッシュが差し出される。天井のシャンデリアをバックにして、黄瀬ちんが今まで見たこともないほど優しい顔で、笑っていた。
「知ってたよ」
嘯くものだから、笑ってしまう。知ってたよじゃねーだろ。絶対気づいてなかっただろ。ほっぺた引きつってんじゃん。内心「うっそだー!!」って思ってるやつじゃん、これ。その必死な様子があまりにもおかしくて、おれは泣いた顔のまま、ゲラゲラと笑いだしてしまう。
「え、ちょ、なんで笑うんスか!? これ今俺最高にかっこいいトコじゃなかったっスか!?」
「え〜? 気のせいじゃない?」
ティッシュを受け取って、ちーんと洟を噛む。
「残念だったね、黄瀬ちん。おれたちはこれから、もうあだなちんの誕生日にかこつけて、赤ちんにアイスを奢ってもらうことができなくなったのだ」
「いやまあアイスはさして残念でもないっスけどね。残念なのはナマエっちの誕生日が赤司っちのものになってしまうあたりですかね。つーかそれくらいなら、俺奢るっスよ。来週どう?」
はあ? とおれは眉をひそめた。
「黄瀬ちんに奢ってもらう理由なんてなくない?」
「あるっスよ。だって紫原っち、頑張ったじゃん。好きな子のためにそこまで頑張れるって、もう愛っスよ愛。だからお祝い」
黄瀬ちんがあまりにもさらりと格好つけたことを言うので、やっぱりおれは笑ってしまった。なんかすべてがどーでもよくなってくるような。じゃあお言葉に甘えて、来週の黄瀬ちんにはわざわざ秋田までやってきてもらおう。
きみはともだち。
おれは内側の恋心に、そっと鍵を掛けて。
あのこのハッピーエンドを、心から祈った。
20151016
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