ユウグレ、ダイダイ

 夕暮れ時に外出してはならない。
 夕方のぼんやりと熱を帯びた橙の光は眼球と眼窩の狭い狭い隙間から私の身体に侵入ってきて、身体の中から臓腑を焼いてしまうから。

 橙の斜陽による低温火傷。

 有名な死因だ。
 故に、逢う魔ヶ刻に出歩くものは少ない。第一、この時間帯は得体の知れない物が目を覚まし跋扈し始める頃だから、外出に適した時間でもない。もっと遅く、或いはもっと早く、用は済まさなければ。逢う魔ヶ刻に出歩く者は魔に逢う。運が悪ければ、食われてしまう。身体の輪郭からじわじわと。指先に取り付き、指と世界を分かつ線を食ってしまう。すると身体は橙に融けてゆく。するすると指先の小さな綻びから私という成分が融け出で、橙と混ざってしまう。そうしたら、もう、私が私で無くなってしまう。私は世界と全く同義になり(しかし、世界は私と同義ではないのだ)、私という存在は消えてしまう。
 これも(ある意味においては)一つの死であろう。
 だから。
 夕暮れの中を歩いてはならない。

 きっと、運が悪かったんだ。日が暮れてから帰ろうと思っていたのに。学校があんなにも簡単に崩壊してしまうなんて。まさか、あんな衝撃で壊れるとは思わないじゃない。ほんの悪ふざけだったのに。けれど、学校は壊れてしまった。どすん、と間抜けな音を立てて、がらがらと石塊になって、しまった。
 けれど、それだけならまだ良かったんだ。学校が壊れるなんて良くあることだし。この前は野球部の特大ホームランが当たって壊れてたんだ。暫くは学校崩壊問題が取沙汰されるだろうけど、そんなの素知らぬふりをすればいい。けど、時間帯が悪かった。手にはめた腕時計を見る。午後六時、少し前。見事に逢う魔ヶ刻だ。せめてもっと早く、或いはもっと遅かったなら。
 しかし、後悔しても仕方が無い。とりあえず、学校という、夕暮れ避けを失った今としては、早く家に帰らなければ。屋根のある家に。人口灯の灯る、我が家に。私は慌てて学校を飛び出し、家路に着いた。急がなきゃ、このままだと、死んじゃうかもしれないんだ。
 たたたっ。ローファーの硬質な音が橙の世界に響く。
 右を見ても左を見ても誰も居ない。橙で非生物的な世界。孤独な世界。
 そりゃそうだ。誰だって、夕暮れの中、出かけるなんて、そんな自殺行為はしたくないのだ。勿論、私だって。だのに。
 息が荒くなる。汗で視界が滲んだ。家までこんなに遠かったっけ。見慣れた筈の通学路が何故だかぐにゃぐにゃに曲がって見えた。汗の所為か。それとも、この薄暗い視界の所為か。
 兎に角、急ぐ。急いで、急いで、急ぐ。
必 死に前だけ見て走っていると、不意に曲がり角から男の人が飛び出してきた。一瞬、こちらを見る。
 視線がかち合う。
 驚。
 私は慌ててブレーキをかけ、男の人は慌てて方向を変える。なんとか、ぶつからずに済んだ。止まる。すいません、そう言おうと彼の顔をみて、更にぎょっとした。彼の顔はもう、真っ赤だった。身体が焼かれてるいんだ。内側から。きっと、もう随分と夕暮れを浴びて、侵食されているんだ。
「すいません、急いでいて」
彼が息を落ち着かせて、そう言った。夕暮れに侵食された彼の声はどこか郷愁を誘う匂いがした。このままだと、彼は行ってしまうんじゃないだろうか。私と彼と、それから沢山の人々の先祖が居るであろう場所へ。
私はぞっとした。
「あのっ、何処かでお休みになった方がいいと思います。このままだと……」
私は既に自分の向かうべき方向へ走ろうとする彼を引き止めた。幸い近くにコンビニエンスストアがある。あそこで日が暮れるまで休んでいれば、少しは橙が抜けるだろう。このまま走っていたら、彼は危ない。声を掛けられ、彼は足を止めたが、しかし、困ったようににっこりと笑った。
「日が暮れるまでに帰らなければならないんです。娘と約束したのですよ」
日が暮れるまでに帰るって。
今日は娘の誕生日なんですと笑う彼。でも、と引き下がろうとした私に、更に笑みを深めて、彼は首を振った。
解ってる。それ以上言わないで。行かなきゃならないから。
私はそれ以上喋ることは出来なかった。
彼には家に帰らなければならない理由があるのか。
そう思うと、何にも言えなくった。
私が言葉に詰まっていると、彼はぽんぽんと頭を軽くたたいて、それから、
「ありがとう。君も早くお帰り」
と、笑った。

家に帰る理由とはなんだろうかと思う。
夕暮れに身体を蕩かし、身体を内側から燻しながら、詰まるところ命を削りながら、それでも家に帰らなければならない理由など、果たして私にはあるのだろうかと思う。
彼は娘が待っていると言った。それが彼の理由だろう。彼はきっと家には愛すべき娘がいると、そう「信じて」いるからこそ家に帰るのだろう。
では、私は何だ。
この世界で焼身して死なないため?
否、それは今、この瞬間での理由だろう。毎日、毎日、私はどこにいても結局同じ場所に行き着き、そこで一晩を過ごす。その理由は果たしてあるのだろうか。
家族が心配するから? 一人暮らしだとどうなる。
家は外よりも安全だから? 何を根拠にそんな事を。
解らない。しかし、私の足は我が家への道を走り続け、私の意識は最早、我が家へ到着している。もしかしたら、理由など無いのか。しかし、その結論は逃げであるのか。
最早、身体は夕暮れに侵食され、まともな思考などとうに放られている。
私は世界という生物の走行する一細胞であるのみだ。腕を振りかぶる。手首の輪郭が曖昧だ。食われている。加速する。逃げるように。突き放すように。

しかし、果たして逃げ切ったその場に何が待っているかなど、もしかしたら私は解ってなどいないのやもしれぬ。



以下、あとがきですん。

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[2013.0905]




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