37

それから数時間後、レイの姿が、先ほどの倉庫のある部屋にあった。
彼の者たちにとっては、惨劇となった空間。

ローの言ったとおり、レイの頭は平静を取り戻し、冷静に考えることができた。
ローの言葉の意味も、何もかも。そして今ここにいること。それが考えたすえに辿りついた、とある最初の一歩だった。
部屋にあった小さなランプと記憶を頼りに例の場所を探す。臭いの強さからまだ残っているだろう。
やがて見つけた、小さな血の海。見つけたと同時に込みあがってくる安堵と吐き気。
安堵の理由は、『やろうとしていたことができるから』。吐き気は生理的なものだ。

やろうとしていたことが目の前にあるにも関わらず、ただジッと乾きかけている血を見つめていた。
ぶり返してくる、思考の輪廻。

「(今日ここで、)」

人が死んだ。人によって、命を絶たれた。
そう思っただけで涙がこみ上げてくる。殺された命を思って、なんていえたらかっこよかったかもしれない。
けどきっと違う。この涙は…いつくるかわからない死への恐怖からくる涙。人の死というものを実感して、いつか自分もこうな

るんだと思う自分のための涙。
私が今ここに生きていること。それは当たり前とかそんなんじゃない。
みんなが居たから。そして…この人たちの死があったから。
私は間接的にこの人たちを踏み台にした。自分が生きるために。
自分が手を下したか否かは関係ないと思った。

「…っ…ごめん、なさい。多分…私は、あなた達を忘れて、また笑う…」

人の死を踏み越えたはずなのに、時間はいつかそれを頭の片隅へと追いやっていくだろう。
これからの未来、島に下りてから笑うことはもしかしたらないのかもしれない。
けれど島の生活が運よくうまくいけば、きっと私は笑う。
そうでなくても島までの航海でベポと共に一度は笑うだろう。

人の死の上に自分がいる。
そうでなかったなら自分は生きていない、絶対に。
『ただ平穏に、ちょっと幸せのある一生であればいい。』
控えめな願いにしたはずなのに、それがどれほど幸せな願いだったのか。
この世界を生き、海賊船に乗り、そんな小さな願いは極上の幸せだと知った。

これは海賊に、彼らに嫌悪感を抱かない私への戒めなのか。
絶対に背負いたくなかった人の死を、運命は私に投げかけた。
それはつぶれてしまいそうなくらい重くて、とてもこのままじゃ生きていけない。
ただ背負うだけじゃ生きていけない、どこかで償えというのだろう。

だから。私は私なりのけじめをつける。
向き合って、認めて、生きるために踏み越える。
戦えない私だからこそ、できることや任されたことをする必要がある。
私は船内の掃除で使ったいろいろな洗剤を手に血で汚れた床を見つめた。

「どれが、効くのかな…」

血は落ちにくいと聞く。けれどいつ戦いがあるかわからない海賊船とかだったら血に落とす洗剤もあるはずだ。
そう思っていろいろ持ってきたが…とりあえず、順に使ってみることにした。
ただただ手を動かした。
たまに流れてくる涙は拭い捨てながら無視をした。吐き気を感じたこともあった。
それでも手を休めたくはなかった。

「……く……っ…」

重たい。重たい重たい重たい。苦しい。
自分はいずれ忘れてしまうんだろう。そう思うと尚更今≠ェ辛かった。

私が直接手を下したわけじゃない。
きっと自分で他人の命をとることは何倍も何倍も重いこと。
今私が感じている思いなんて比ではないのだろう。
この船のみんなは、いや、この海で名を馳せる者たちはきっとその覚悟が胸にある。
人の死を背負う覚悟、自分の死に立ち向かう覚悟。
私が持つことができない、そんな覚悟。
そんな私は、私なりに人の死を踏み越えようと思った。いや踏み越えなければいけないと思った。
乗り越えるのではない。踏み越えるのだ。

生きるために。自分のために。

客観的に見ればただの掃除。
自己満足かもしれない。自己中心的な考えかもしれない。
それでも今の私にはこれが精一杯のことだった。
少しずつ落ちていく血痕は嬉しくも悲しくもあって。
もう自分の感情がどこにあるかすらもわからなかった。



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