辞書にのらない
同じ春を踏む


春休み中の静かな学校で黙々と年度末の仕事を片付けて定時に上がる。
卒業式も終わり、学校には部活動に精を出す学生だけがちらほらと顔を出す程度で校舎の中は至って静かで、ため込んだ報告書や新年度のクラス編成、授業の予定表など事務作業にはちょうど良かった。ある程度成果も出たので達成感とともに自宅のドアをあけると玄関の脇にレジャーシートと保冷バックが置いてある。なんだろうかと思いながらもただいま、と声を掛けると七瀬がスリッパをぱたぱた言わせながらリビングから顔を覗かせる。

「おかえりなさい
ねね、煉獄さん疲れてる?」
「いや、大丈夫だが…どうした?」

お願い事があるときに彼女は組んだ指をもぞもぞと動かす癖がある。
ビール飲まない?と晩酌のお誘いだったり、一緒にこのポーズで写真を撮りたいだとか、3分間ぎゅっとしてほしいだとかそんな可愛らしいお願い事なのでこの仕草を見ると今日はなんだろうかとつい笑ってしまう。
「明日雨なんだって、だからお花見できるの今日だけかもって思って…
グランドのそばの桜並木、今月はライトアップしてるから夜桜見ながら軽く一杯どうかなぁって」
今年はお花見行けてないし、だめ?と首を傾げて聞いてくる七瀬にいいぞ、と答えるとぱっと顔が明るくなる。というかもう準備万端だったろうと笑えば、帰りの電車で思いついて帰ってすぐに用意したそうだ。荷物だけ置いてくるから少し待っていてくれと声を駆けて部屋に入る。ネクタイを外し、スラックスとシャツだけでは日が落ちるとまだ肌寒いのでアウターを羽織ってついでに七瀬用に彼女のストールも紙袋に入れて持って行っておこう。はしゃいでいる間はいいだろうが彼女の手足は放っておくと驚くほど冷たくなるのだ。

七瀬は仕事着のパンツスーツのままジャケットだけパーカーに変えて、既に玄関でいそいそとスニーカーを履き始めていた。
お弁当セットとビールが入っているという保冷バックとストールの入った紙袋を持ち、七瀬にはレジャーシートの入った紙袋を持ってもらう。行こうか、と二人で外に出ると日は沈んでいたがまだうっすら空の端が橙色であった。

橙と夜の闇がうまい具合に溶け合った空を見上げて春の少し冷たい風を頬に受けながら数ブロック先のグランドを目指す。桜のシーズンになると週末の日中は家族連れや町内の集会で大賑わいだが平日の夜となればほとんど人はいないだろう。
空いている手で七瀬の手を握るとやはり少し冷たい。俺の手が熱いのだと七瀬は言うが、それだけではないと思う。

「お弁当作ったって言っても、唐揚げは駅前のお肉屋さんのなんだけどね」
「平日だ、気にするな!
七瀬も仕事帰りで疲れているのに用意してくれてありがとう」
「ううん私が煉獄さんとお花見したかったから
先週は私が出張でいなかったし…
今週末だと散っちゃうって言うから」
「俺も花見はしたかったからちょうどいい」
誘ってくれて嬉しいと少し屈んで七瀬の耳元に唇を寄せると、お外だから、と頬を染めた七瀬に首を竦めて躱されてしまった。

「春の匂いがするな」
「ほんとだ…」
「なんだろう、空気が少し潤っていると言うか…」
「そうだね…そっかこれも春の匂いか
私はね土の中みたいなの
なんかこう…ふわふわの土の匂いがすると春だなぁって思う」
「チューリップを植えていたあの茶色いほやほやの土か?」
「そうそう、あんな感じ
なんかこう生命を感じる」
芽吹きの季節というだけあって、草木は新芽をつけ枝を伸ばし美しい花を咲かす。
その匂いが生命の匂いだというならそうなのかもしれないと思う。

「あ、でも桜餅のあの葉っぱの香りも春だなぁって思う」
「あぁ、あれはうまいな!
七瀬の作ってくれた山菜の天ぷらも、春の味だったな」
「山菜は旬ですからね
もうすぐ筍も美味しい季節だし…ってすぐ食べ物の話になっちゃうね」
お酒も美味しいものも好きな二人なので、食に関しては話題が尽きない。毎日食事をともにする相手なので好き嫌いのないもの同士で良かった。

そんなことを言っているうちに目的の桜並木が見えてきた。
街灯に照らされて夜の闇に白く浮かぶ桜の木は、陽射しの中で見るよりも幻想的で美しかった。
ちらほらと花弁が散って足元のアスファルトに斑に張り付いている上を歩きながらどこに座ろうかと探す。平日であっても皆考えることは同じようで、ベンチはカップルが、レジャーシートはグループ客が各々桜を楽しんでいた。
適度に他の花見客から距離を取って桜の下にシートを広げてふたり並んで座る。上を見上げれば枝を広げた桜の木が空を覆うように白い花弁が満開であった。

真ん中にお弁当を置いてとりあえずまずはこれだろうと、プシュッと缶ビールを開けてかつんと乾杯する。
「美味しい!」
「うまい!」
二人で頭上に広がる美しい桜を見上げて、ゴクゴクとビールを喉へ流し込むとこれこそ花見だなと思う。
そして外で飲むビールはなぜこうも美味いのか。
「お弁当は、だし巻きと枝豆と、あときんぴらごぼう
そしてこっちがお肉屋さんの唐揚げで…
煉獄さんお酒飲んでもご飯食べるからおにぎりも作っちゃった」
多すぎたかな?とはにかみながら手渡された割り箸を割って、美味しそうなおかずにどれから貰おうかと迷う。
「だし巻きからもらおうか!
…うまい!うまい!」
「よかった!私は唐揚げを…んんっ!最高!」
七瀬もぱくりと頬張って顔を綻ばせた。

もう一缶プシュッといい音を立てて開けるころにはすっかり食べ切ってしまったお弁当箱を片付けて七瀬の隣に移動すると彼女ももぞもぞと体を杏寿郎にぴたりと寄せてくれた。少し冷えてきたかと、持ってきておいたストールで七瀬をぐるぐる巻いてやると煉獄さん流石!、と七瀬がぱちぱちと拍手していた。ついでに頬を触ると冷え切っているといことはないので良かったと安心する。流石ではなく自分のことなのだからもう少し自分で管理しなさいと言いたいが、面倒を焼くのが苦ではないのも事実であった。

「桜きれいだねぇ…」
「うむ!
七瀬、花弁がついている」
顎を上げてうっとりと桜を愛でていた彼女の髪にひらひらと舞い降りた白い花弁を除ける。掌に乗った花弁は夜風でふわりと再度宙を舞い、飛んでいってしまった。
教員という仕事柄、春は出会いと別れの季節である。あっという間に巣立っていく若い生徒たちを見送るのはやはりどこか寂しく、春休みは少ししんみりとしてしまう。そんなありきたりな感傷に浸り、ビール缶を片手にぼんやりと目に映る景色を楽しむのも贅沢といえば贅沢なのだろう。
「ふふふ、煉獄さんもたくさん花弁がついてる
髪ふわふわだからだね」
「よもや、俺もか!」
体を伸ばして髪へ触れる七瀬に頭を傾けるも、いくら取ってもはらはらと散ってくる花弁はどうしようもないので二人して諦めてごろんとシートに背をつける。

視界いっぱいの白を程よくアルコールで緩んだ頭でぼんやり見ていると、ここはどこだったかなと非現実的な夢見心地になる。
「桜の木って、どのくらい寿命があるんですかね」
「さぁなぁ100年くらい咲くのだろうか」
「とりあえず私たちより長生きだろうし…
こうして何年も人の目を楽しませてくれているんだろうなぁ
来年も、お花見しましょうね」

アルコールで目元がうっすらと赤くなった七瀬が首だけこちらに向けて幸せそうに笑う。
七瀬越しに見る桜は一層美しく、そのせいか君までこの花弁のように風に揺られて飛んでいってしまうのではないかと思う。

「そうだな…」

桜はその儚さ故に美しいのだろう。
人の気持ちも移ろいやすく、強固に見えた関係も壊れやすい。
約束一つで縛り付けることもできないと知っているけれど、七瀬と出来るだけ長く来年と言わずもっと先、年老いるまで春には桜を見たい思う。



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