辞書にのらない
君が傷口に沁みる


買い物という雰囲気でもなくなったので、杏寿郎は七瀬を送ろうと駅に向かい、二人で電車に乗り込んだ。休日の車両は家族連れや、恋人、友人とグループで乗っている人が多く、話し声で賑やかだった。そんな中、七瀬は白い顔で、じっと目線を床に落としたまま黙っていた。
人混みで抱いていた七瀬の肩から手を離すと、間をおかずに杏寿郎の上着の裾を七瀬の手が掴んだ。その手は電車に乗っても解かれることはなく、そばにいて欲しいという七瀬からの無言の訴えだった。こちらから触れることは躊躇われるような、傷を負った野生の獣のような雰囲気が痛々しく、どうしてここまで七瀬が傷つかねばならないのだろうかと歯痒く思う。

「七瀬、降りよう」

スピードを落としていく電車に揺られながら、ドアの前に並んで立つ。ガラスの窓に映る二人の姿には幸福などどこにもなく、下げられた七瀬の視線が上がることはなかった。
ホームに降りると、改札を目指す人の流れが出来ており、杏寿郎は一旦ホームの内側まで七瀬を連れて行くことにした。最後尾に並んで歩こうとすると、くん、と上着を強く引かれる。

「帰りたくない」

やっと顔をあげた七瀬は、無表情で一言だけ告げるとじっと杏寿郎の目の奥を覗く。試されているような気がしたが、杏寿郎は分かった、といつも通り朗らかに返すと、反対側のホームへと向かう階段に向かって歩き出す。


「すまないな、あまり片付いていないんだが」

朝家を出た時のまま、部屋着や朝食の食器が放置されたままのリビングに七瀬を通す。適当に座ってくれ、とソファの前に連れていき、ずっと握られたままだった手に触れるとゆっくりと強張った七瀬の指先を解いていく。されるがままの七瀬の指は氷のように冷たい。

「なにか温かい飲み物をいれよう、なんでもいいか?」

ソファに座らせた七瀬は一度杏寿郎を見ると、こくりと頷く。少し落ち着いたのかもしれない。
杏寿郎がキッチンにいくと、七瀬はぼんやりと窓から外を眺めていた。彼女がこの部屋にいることが嬉しいと、場違いなことを思ってしまう。この部屋にずっといればいいと言ってしまいたいとも思うが、傷ついた彼女に付け込むようで、どうにも性分と合わない。
お湯を沸かしながら千寿郎が家を出るときにくれたマグカップと、宇髄の海外土産のマグカップにインスタントのドリップコーヒーをセットする。ふつふつと音を立て始めた薬缶の持ち手を布巾で掴むとお湯を注ぐ。途端にふわりと広がるコーヒーのいい香りにほっとする。カフェの味にはもちろん敵わないが、家で飲むには十分だ。

ソファに座る七瀬の手にカップを持たせると、少し間を開けてその隣に座る。杏寿郎が3口程進んだころに、のろのろとした動きで七瀬もカップに唇をつけた。
帰りたくないとは言っているが、泊めるのは流石にまずい。お互い恋人もいないのだし、まずくないといえばまずくない。むしろ意中の相手が家に来ると言うことは、美味しい状況と言うのかもしれない。
だが杏寿郎はそんな風に七瀬と始まってしまうことは嫌だなと思った。

夕方の赤い光が、長い影を射す。無言で湯気の立つコーヒーの黒い水面を見ていると、ことりと七瀬がローテーブルにカップを置いた。そのまま杏寿郎の腕に顔を埋めるように縋り付く彼女の行動に胸が不整脈を訴えた。

「どうしたんだ、」
「煉獄さん、抱いてください」

答えに窮して七瀬のつむじを見つめていると、より一層強くぎゅうと七瀬が額を押し付けるように抱きついてくる。
彼女に乞われるがままにその体を味わいたいとも思う。腕の中で可愛らしく着飾った衣服を全部脱がして、柔らかそうな肌をくまなく撫でて自分のものだと印をつけたいような気もする。
それでも、そうやって始まって仕舞えば、それまでの関係になってしまうような気がした。

「七瀬、それは出来ない」
「どうしてですか?私いますぐ煉獄さんにめちゃくちゃにして欲しいです。なにもわからなくして、なにも感じなくして欲しいっ」

途中から喉の奥から絞り出すような細い声になった七瀬は泣いているのだろう。杏寿郎も片手に持ったカップをテーブルに置くと、そっとなるべく怖がらせないように七瀬の背中に手を回す。ぽんぽんと、その背中を優しく撫でながら、心の中にどうしようもないほどの愛おしさのような熱い塊があることに気づく。

「俺が今ここで君を抱いたら、君は俺をずっと信じられなくなるだろう。身体の関係からはじまるものもあるとは思う。でも俺は、君とはもっときちんと……大事にしたいんだ」
「やだ、今、いまがいい…。」

ぐすぐすと駄々をこねる七瀬の言葉に苦笑いが溢れる。彼女がこんな風に子供のように泣いたりすると知らなかった。けれど嫌な感じはしない、むしろ知らない彼女を知れたことが嬉しい。
だが自分を大切に出来ないことはよくないと、杏寿郎は腕の中の七瀬の肩を掴んでその顔を覗き込むように背を丸める。ぽろぽろと大粒の涙を零す七瀬は、目が合うとすん、と鼻を鳴らす。

「君は自分がどれほど俺に好かれているか分かってないんだな。だからその身体を簡単に俺に差し出して、俺を試しているんだろう?君が安心できるんなら、いくらでも試してくれていいんだが……抱くんだったらなにも感じなくて、わからなくなるんじゃなくて、一生忘れられないように抱きたい」

キスができそうな距離で目を合わせてそう伝えれば、七瀬は驚いたように目を大きく開くと、その長い睫毛に涙の粒を光らせて瞬いた。

「泣き止んだか?」

にこりと笑えば、七瀬の顔が真っ赤に染まる。耳の淵まで赤くなって俯いた彼女の肩から手を離して立ち上がると、七瀬はソファーの上で丸くなった。どうやらいつもの七瀬に戻ったらしい。

「もう大丈夫そうだな」
「……恥ずかしくて死にそうです」

両手で顔を覆ったまま蹲る七瀬の前にティッシュボックスを置いておく。目元の化粧が涙で滲んだままでは可哀想だろう。彼女のそばを離れて出しっぱなしになっていた食器を洗っていると、ちょうど水を止めたときに七瀬がまだ赤い顔で隣にやってきた。


「煉獄さん、ご迷惑をおかけしました…取り乱して、大人気なく泣いて、その、すみませんでした」
「泣きたい時は泣けばいい。できれば、俺の前だけにして欲しいがな!」

よほど恥ずかしかったのか、気まずそうにいじいじと指先を動かしていた。

「あの人のこと、……聞かないんですか?」
「気にならないわけではないが……そうだな、言いたいのならば聞くが、一生知らないままでもいい」

大人であれば、過去に恋愛の一つや二つ経験しているだろう。それらを知ることが、彼女を知ることにはならないと杏寿郎は思う。いま、この瞬間、自身の目の前に存在する七瀬のことが知りたいのだ。

「それから、もう俺の気持ちは伝えたからな。遠慮しないぞ」

俯いていた顔をぱっと上げた七瀬は、頬を茹で蛸のように真っ赤にして唇をきゅっと引結んでいた。

二人の間に引かれていた白線は、今日全て消し去られたのだ。二人を隔てるものは、一歩の距離しかない。愛おしいと思う心のままに、七瀬を大切にさせて欲しい、七瀬を守る役割を早く自分に与えて欲しい、そう強く願うのだった。


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