紙の月

望みの行方

 「は? 言いたいことだけ言って合意も得ずにキスするとか…お前はレイプ犯か」

 目的地までの移動中、ワゴン車の後部座席で悟が口にした昨晩の出来事をにため息を吐く。硝子が地の底を這う様な恐ろしい声で悟を叱るのを聞きながら、昨夜の自らの提案を後ろめたく思い返す。三人での泊まりがけの任務の準備を進めずに、イライラと物に当たる悟に対して女子寮の透の元に行くのを勧めたのは紛れもない自分だ。「言いたいことがあるなら本人と話して来い」と言ったが、まさかそのままチューしたのか、ときっと雰囲気もなにもないそれだったんだろうと透に同情する他ない。

「…だってよー」
「だってじゃねぇ、カス」
「近くで唇見てたら、なんかこう、勢いで?」
「……悟が今まで遊んできた女の子は君のこと好きだっただろうけど、透は違うだろ?」

純白の睫毛が青い瞳を覆う。何度かゆっくりと瞬きした悟は、はじめて知ったというような顔でこちらを見る。

「キスしても怒られなかったのは、みんな悟のことが好きだったからだよ。そうじゃない人にはキスしちゃダメだよ」
「まじか」
「オメーの常識はどうなってんだ」

 硝子の言う通りどうしてこんなことを同級生の男に教えねばならないのだろうかと思うが、入学してからもう何度も悟に常識なるものを説いている。甘やかされて育ってきただろうに、案外素直に聞き入れる悟が少し可愛く思えてきているくらいだ。そんなことを言えば硝子はきっと、綺麗な顔を思いっきり顰めるだろけど。
 結局水をかけたことも謝れず、お土産を渡すこともできず、最後は急に怒ってキスをした悟のことを、あの少し浮世離れした美少女はどう思ったのだろう。悟のことを嫌っている様子はないが、好いている様子も見られない。そもそも恋愛感情や男女のあれこれに疎そうな透は、悟のキスにかなり混乱しているのではないかと思う。
何度目かの深いため息を吐いて、これ以上考えるのは止めようと車の揺れで弾む外の景色に視線を移した。



「術式を使ってみればいい」

 二人きりの道場で、夜蛾は淡々とした口調で透の相談に答えてくれた。五条くんに言われたことをいろいろと自分なりに考えていたのだ。魔眼が本当に抑えられているのか不安ならば使ってみればいいと答えた夜蛾に、透は固まってしまった。夜蛾は平時と変わらない淡々とした口調で、低級呪霊を集めておくから祓ってみなさいという。体術の訓練と呪力の訓練はずっとやってきたが、呪霊を祓うのは初めてだ。幼い頃からじっとこちらを伺う呪いの視線を浴びてきたことを思い出し、不安が胸の中に渦巻いていく。

「ちゃんと使えなかったら?」
「暴走した場合は拘束具を使う。だが透なら大丈夫だと思ったから提案した。不安か?」
「…先生の迷惑にはなりたくありません」

夜蛾はサングラスの奥で目を細める。

「術式は透のものだ。使い方はおのずと分かるだろう。嫌な思い出しかない魔眼だろうが、使いこなせることを証明できれば、外出も出来る。透をここに死ぬまで閉じ込めておくつもりは私もなかったが、悟の言う通りだな……もっと早く次のステップに進めば良かったな」

すまない、と謝る夜蛾に透は慌てて首をぶんぶんと左右に振る。

「先生は、私に居場所をくれました。ここに、高専に来て、私がどれだけ救われたか感謝してもしきれません」
「そうか。だが透、望みをもつことは悪いことではない。したいことはしたいと言っていい。師としても、保護者としても、少しも我を通さない弟子は心配だ」

そう言って立ち上がった夜蛾は、透頭をぽんと撫でてから道場から出て行った。それは初めて会った日の不器用な触れ方ではなく、子どもの相手に慣れた父親の手だった。


 その日の晩、食堂の手伝いを終えた透は夜蛾に連れられて高専の外れにある建物に足を踏み入れた。自分もここに閉じ込められたことがある場所だと、中を進むに連れて思い出した透は感慨深く建物を見回す。もしも夜蛾が上層部を説得してくれなかったら、私は今もこの日本家屋の地下牢に繋がれていただろう。日の光の入らない土間で誰にも合わず、誰とも話さず、人形の様にひっそりと命が尽きるのを待っていただろう。
 自分の為に望みを持ってもいいのだろうか。まだ不安はあるが、この目を使うことで手に入る自由があると知った今では、それを試してみたいという気持ちが少なからずある。もし使えたら、私はもう人を惑わせることはないのだろうか。普通の人間と同じ様に、外に出て世界を見てもいいのだろうか。

「祓えるまで外にいる。呪具はこれを使いなさい。体術の訓練で透に一番合っていた」

 一つの牢の前で夜蛾に手渡されたのは日本刀だった。手に馴染む重さに軽く振ってみると薄暗い室内でも刀身がぬるりと白く光る。弓術や槍術も教えてもらったし、どれも合格点を貰えたはずだが、夜蛾の目にはこの武器が一番合っているということだろう。師は自分よりも自分をよく知っている。透は両手で軽く柄を握る。
 扉を開けて中に入るとすぐに奇怪な生き物が飛び出してくる。呪霊を久しぶりに見たことで、ぎゅっと体に力が入る。本能的な嫌悪感が背筋から指先にぞわりと伝わっていく。透がすうと息を吐いたところで呪霊の体から木の枝の様な手足が次々に飛んでくる。呪具でそれらを斬りながら、呪霊の等級を見極めようとこちらからも攻撃を仕掛ける。体術だけで祓えるレベルではないだろうと予想していたが、やはり踏み込んで斬りつけた攻撃も、細い枝葉で遮られてしまい本体には刃が掠ってもいない。
 魔眼を使って戦う方法など、全く思いつかない。透にとってこの目は人を惑わし、呪霊を集めてしまう、忌まわしいものだった。この目で何が出来るのだろうか。幻惑・魅了といった性質があるということが最初に夜蛾に聞いていたがそれを意識して相手にかけることなど出来るのだろうか。

「透、術式はお前のものだ。使えば分かる。怖がるな」

 呪霊から距離を取らされる状態が続くと、外に控えたままの夜蛾からぴしゃりと叱られた。本当に使えるのだろうかと半信半疑であったが、呪力を目に集めて強く念じる。
 抑えていたものを取り払う様に、封じられたものを紐解く様に、瞼をゆっくりと開くと見え方が変わった。魔眼を通してものを見るといつもよりも細部までよく見えすぎるようだ。度が強すぎるメガネを無理やり覗き込んだようで平衡感覚が分からなくなる。
 それでも私はこの目の使い方を知っていた。

「おいで」

 呪霊に向かってそう言いながら小首をかしげる。自然と口角が上がって微笑みを作っていた。不思議だ、どうして笑っているのだろう、と思うもう一人の自分がいる。呪霊の意識がこちらを向いた。目があった瞬間にびたりと体が固まって、ゆらゆらと揺れる様な動きで近づいてくる。先ほどまでの攻撃はピタリと止んでおり、無防備な呪霊を呪具の刀で薙ぎ払う。痛みすらも感じないのかぼんやりとした視線を向けてくる呪霊は、崩れ落ちる様に消えていく。祓えたのだと理解すると、かくんと膝が抜けた。座り込んだままじっと目を瞑る。さっき解いたものをもう一度仕舞い込むように、誰も呪ってしまわない様にと意識してから目を開くと、いつもの見え方に戻っていた。

「よくやった」
「先生…、私でも呪いを祓えるんですね」
「これから呪術師を目指すか? 正直、いくらその目の力を抑えられたといっても、呪物の登録をされてしまった以上は今の待遇が上限だ。だが呪術師になれば外出の許可は簡単に下りるだろう…少し制約は付けさせられるだろうが」

 まだ迷いが完全に消えたわけではない。けれど夜蛾が言う通り、私はこの目の使い方を誰に習わずとも理解した。それはこの術式が私のものだということだ。呪われていたのではない。これは生まれ持った呪いを祓う術なのだ。

「やってみてもいいですか」

 小さく呟いた言葉はちゃんと彼の耳に届いていた。夜蛾が珍しく笑ってくれたことが嬉しくて、私も気づけば口元に笑みを浮かべていた。