紙の月

雨を連れて

  大きくなったら何になりたいかなど、考えたこともなかった。
毎日生きていくことに必死だったのだ。高専で暮らす前は外に出れば気持ちの悪い異形のものに囲まれる。両親も、先生も、クラスメイトも人はすぐに好きだと言ってくる。可愛い、好き、愛してる、なんでもしてあげる、一緒に死んであげる。どうして人からも呪いからも好意や執着を向けられるのかと不思議で仕方がなかったし、なにかがおかしいと気づいてもどうしようもなかった。
できることは、誰も自分に気づかない様にとただただ願うことだけだった。

今もそれ以外の望みなど、私にはなにもないのだ。


 しとしとと静かに降り続ける雨によってこの週末は部屋に篭る他なかった。昼過ぎに読みかけの本を片手にやってきた硝子を部屋に招き入れると、電気ケトルでお湯を沸かして二人分の紅茶を作る。

「三人での任務なの?」
「そう。実戦経験皆無ってのもどうかって思ってたしそれはいいんだけど、あの馬鹿二人と2泊3日って地獄だよ」

硝子は五条くんと夏油くんのことを、馬鹿、クズ、とよく呼んでいた。一度理由を聞いてみたが、透にはまだ早い、というよく分からない言葉で濁されてしまった。

「そっか、じゃあ明日からみんないないんだね」

抽出の終わったティーバッグを取り出してゴミ箱に捨てる。赤褐色の水面からいい匂いが立ち上っている。家具は備え付けのものしかないので、食堂から拝借したお盆をテーブル代わりにベッドの上に置く。硝子はベッドに腰掛けてありがとう、言ってカップに口をつけた。

「そんな寂しそうな顔しないでよ。余計に行きたくなくる」
「…そんな顔していた? 寂しい、けど、3日で帰って来るし、大丈夫だよ」

 寂しいと、顔に出るほど思っていたのかと自分のことなのにどきりとした。
つい先日、五条くんに怒鳴られてしまったことがまた蘇る。どうしてそんなに怒っているのか、なにか気に触ることを言っただろうかと、あれから何度も考えていた。
呪霊に対する結界があり、呪術の関係者しかいないこの場所は今までのどこよりも生きやすい。この目のことを隠す必要もない。目を合わさない様にして、術式が発動しない様に、呪力をコントロールしていれば誰もおかしくならない。それで十分だと、思わなくてはいけない。だって私はそれだけのことをしてきたから。この目で見てしまったから、惑わせてしまったから、壊れてしまった関係がたくさんある。
そんな人間は呪物として閉じ込められても仕方がないのだ。
寂しく思うことや、何かを求めることは、許されない。

『マジで言ってんの?こんなとこに死ぬまでいてもいいって?』

五条くんの言葉が何度も問いかけてくる。
意地悪な五条くんも、大人びた夏油くんも、なんでも話せる硝子も、いずれは高専から出ていく人たちだ。彼らにはこれから先の人生がある。
ここは通過点であって、彼らの最後の家ではないのだ。

高専に来たばかりのころの方がまだ強くいられたのかもしれない。周りに人がいることに慣れ始めてしまったのだろう、今はそれを失うことがとても辛く感じる。一人でいいと言いながら、私は人を求めている。

何も持たなければ、失わない。
それを分かっているのに、私はもうすでにこの手にいくつかの失いたくないものを掴んでしまっている。

「どーした透、調子悪い?」

硝子の声で思考の海に沈んでいた意識が浮上する。

「…少し、頭痛がするだけ」
「大丈夫? 気圧のせいかな。部屋戻ろうか」
「ううん。ここに、いて欲しい」

ベッドに並んで座って壁を背もたれに二人でなんて事のないことを話す。硝子の声は少しハスキーで、梅雨のしっとりとした湿度を含んだ空気の中に溶けていく様で心地良かった。


 夜、まだ止まない雨をぼんやりと見ながら廊下に備え付けられた共用の手洗い場で歯を磨いていると、女子寮の入り口に見知ったシルエットが現れた。ずかずかとそのまま中に入ってきた背の高い男の姿に慌てて口を濯ぐと、こちらに向かって一直線にやってくる五条くんに向き合う。

「こ、ここ女子寮…」
「入っちゃダメって言われてない」
「え、ダメって先生言ってた」
「俺は聞いてないから知らね」

屁理屈を言う五条くんをなんとか入り口まで連れていくが、そういえば最後に会話した時に彼に怒られたのだったと思うと気まずい沈黙が続いてしまった。時折、カン、と雨粒が古い建物の雨樋を叩く音が聞こえる他は、しとしとと降り続ける雨音しかしない。スウェット生地の黒いパンツの先から伸びる真っ白な大きな足の上を走る筋をじっと見つめていると、徐ろに視界に大きな手が伸びてきて顎を掴むとそのまま上を向かされる。初めて出会った頃から高かった背はさらに伸びているようで、ほとんど真上を向く様に首を逸らすと空色の宝石のような瞳に捉われる。

「や、やめて。見ちゃだめ」
「嫌だ。こっち向け」

慌ててその青から視線を逸らすも、もう片方の手まで首に回されてがっちりと固定されてしまう。背を屈めたのだろう五条くんの顔が近づくと、もうどこに視線を向けても彼の青がちらついてしまう。瞳の虹彩まで見える距離で、目を合わせるとどくどくと心臓が逸る。この人まで呪いたくないと思うのに、五条くんは全く目を逸らす気配がない。

「…大丈夫じゃん。透の目はもう勝手に人を呪ったりしないだろ」
「それは、五条くんが六眼を持ってるから。暗示はかけられることが分かると、かからないものだから。呪力の動きが分かるから、かかる前にその目で破られているんだって」
「でも今の透の目は、何も術式を発動していない。お前がちゃんと制御してるからだろ」

 そうなのかもしれない。
だが自らこの目を使おうと思ったことがないから、なにがスイッチなのか分からないのだ。どうして抑えられているのか分からないということは、なにがきっかけでまた魅了の力が発動してしまうか分からないではないか。

「明日から、俺も傑も硝子もいないって知ってどう思った? なぁ、もし帰ってこなかったらどーする? お前はここで待ってるわけ?」
「帰って、くるでしょ」
「さぁな。もし帰って来なかったら? それでもお前はここにいて、ただ待ってるわけ?」

ぎゅっと寄せられた眉が、眉間に皺を作っている。どうしてこの人はこんな苦しそうな顔をするんだろう。

「お前からも手を伸ばせよ。探しに行こうとしてくれよ」

怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえたその言葉の終わりとともに、唇に柔らかな熱が触れる。視界を埋め尽くす青が焦点距離の内側でぼやける。キスされているということを理解しつつも、思考がうまく回らなくて固まってしまった。しばらくして離れた五条くんの唇をただただ見つめてしまう。

「なんで…」
「…っあーーー! もうさっさと寝ろ! 明日から俺がいない間によく考えとけ透!」

 大きな手で挟まれていた顔を解放されると、くるっと体の向きを変えられて部屋の方へ押しやられた。事態についていけないまま、え、と後ろを振り返りながら声を上げる私を無視して五条くんは右手で口元を覆う。怖い顔で「おやすみ!」と怒った様な声で言うなり、来た時と同じ様にさっさと男子寮の方へ帰ってしまった。

どくどくと脈打つ自分の心音の大きさで、いつの間にか雨の音はかき消されてしまっていた。