紙の月

誰が為に微笑む

  どんよりとした灰色の雲が空を覆う中、冬らしい刺すような冷たい空気を吸い込むと肺の中まで凍ったような心地がした。古さしか取り柄のない建物に張られた艶々とした滑らかな木目の床が、五条が歩く度にぎしり、ぎしりと軋む。底冷えする京都の寒さは東京のそれよりも、骨に直接沁みるような独特の冷たさがある。薄っぺらい来客用のスリッパなど、あってもなくても同じようなものだ。

「げっ、五条」

 向かいから歩いてきた歌姫の顔には不快だと言わんばかりの表情が浮かんでおり、五条も同じように顔を顰める。

「げっ、てなんだよ。こんなイケメンに会えて嬉しいの間違いだろ」
「自意識過剰」
「ひとり者の僻みか?」
「はぁぁぁ??」
 
 五条の煽りに分かりやすくキレる歌姫は、鼻息荒く睨んでくるが怖くも何ともない。犬が吠えているようなものだ。

「そういうあんたもイブに一人じゃない!」
「……イブに一人だとなんかあんの?」
「……あんたクリスマスイブ知らないの?」

 今度は憐れむような怪訝な顔つきで五条見上げる歌姫は、盛大なため息を吐く。
 
「クリスマスイブは恋人と過ごすもんなの。なぜかこの国ではそういうことになってんのよ」
「は? クリスマスは明日だろ? え、よく分かんないんだけど」
「本番は明日でも、イブの方が恋人たちには大事なの。まぁあんたには関係ないんじゃない」

 歌姫の言葉によってもたらされた衝撃とともに、透から珍しく今日の予定を聞かれていたことを思い出す。京都に行く、と言った後から挙動不審になり、ついには「無理」という強烈な拒絶の言葉を投げられた。段々と合点がいくとともに、凄まじい後悔の念が押し寄せる。京都なんかに来ている場合ではない。透からの誘い気付かず断ってしまった過去の俺を殴り飛ばしたい。

「帰る」
「は?」
「今から帰る」
「あんた今日五条家の会合に呼ばれてきたんじゃないの?」
「パス!歌姫代わりに謝っといて!」
「はぁ!?」

 背中にかかる歌姫からの静止の言葉を無視して走る。歩くだけでも軋む廊下を痛めつける様な足音を立てて京都校の外へと出ると、冷たい風が顔に吹き付ける。これから東京に戻ったとして、何時に寮に着けるだろうか。24時を回らなければなんでもいい、とにかく急いで透に会わなくてはいけない。俺が会いにいけば、喜んでくれるだろうか。許してくれるだろうか、そんなことを考えながら浮足だった人々で溢れる街をタクシーで走り抜けた。
  新幹線に飛び乗った頃には、携帯電話に着信履歴が山のように残っていたがどれも無視して透のアドレスにメッセージを打ち込む。送ろうとしたところで、ふと思いとどまる。どうせ透は今日は会えないと思っているのだから、驚かせるのもいいかもしれない。ぽかんとした間抜けな顔すらも可愛いだろう、と想像して打ち込んだメッセージを消去する。時速数百キロで移動しているはずなのに、もっと速く帰れないだろうかと思ってしまった。


 寮の玄関に帰った頃には、すっかりあたりは暗くなっていた。消灯時間にはまだ早いので透は談話室だろうか。硝子と女子会とやらをしているかもしれない、と予想したもののそこはしんとした静寂に包まれていた。もう部屋に戻っているのか、と一瞬だけ躊躇したものの勢いで女子寮の廊下を進む。誰かに見つかればまた夜蛾にどやされるだろうと、なるべく音を立てずに目的の部屋へと急ぐ。 木製のドアを開けようとして、ノックしろと傑に何度も言われたことを思い出しコンコン、とドアを叩く。しばらく静寂が続いていたが、かちゃりとドアが僅かに開くと透がそろりと顔を出した。

「五条くん!」

 こちらを見上げたまま大きな目を見開いた透が、ドアを大きく開けてくれた。

「どうしたの、今日は京都だって言ってたのに」
「まぁそうなんだけど。けど、透が俺に会いたそうだったから」

 もう風呂にも入った後なのだろう透は、もこもことした温かそうな部屋着姿で困ったような顔をする。その頬がどんどん赤くなることに気分を良くして、そっと指先で透の柔らかな唇を撫でる。
 
「……今日、俺に会いたかったんだよな?」

 透の黒い瞳が揺らめいた。恥ずかしいのか泣きそうな顔になってきた透は観念するように頷くと、遠慮がちに胸元へ擦り寄ってきた。その体を抱きしめると、後ろ手でドアを閉める。バタン、といやに大きく響いた音に当然の事ながら、二人きりだと言うことを強く意識する。珍しく甘えるように、大人しく抱きしめさせてくれる透の髪に鼻を寄せると甘いシャンプーの香りがする。

「クリスマスイブは、恋人に会うもんらしいな」
「……知らなかったの?」
「ちゃんと会いに来ただろ」

 胸元から顔をあげた透が嬉しそうに瞳を細める。はにかむような笑顔に胸の奥が掴まれたように苦しくなった。急いで帰って来たかいがあったと言うものだ。

「俺のことこんなふうに出来んのお前だけだって分かってる?」

 金だっていくらでもあるし、透が望むならなんだって買ってやれる。けれど彼女はそんなことは望んだことはないだろう。ただ俺に会いたいだけだ。それならば何処にいたって透のところに駆けつけて抱きしめてやりたいと思ってしまう。透のためならなんだって、してやりたいと思う。
 
「五条くんが、優しいことは知ってる」
 
 そう言って透は小さな手をこちらに伸ばす。甘えるようにその掌に頬を寄せると、背伸びをした透の唇が触れた。すぐに離れていった唇に驚いていると、透が得意げに微笑んだ。魅了の魔眼は俺には効果がないと言うのに、まるで女神に見つめられた怪物のように固まってしまう。

「すきだよ、五条くん」

 やっぱりサンタとやらはいるのかもしれない、そんなことを思いながら今度は自分から透の唇に口付けた。