紙の月

呪いと恩寵

  こっちを見て、いつもみたいに。ねぇ、透。

 早鐘を打つ心臓に急かされ、まるで水に溺れかけたかのように急速に空気を肺へと吸い込む。冷たい汗が背中を伝う感覚が気持ち悪かった。飛び起きた拍子に跳ね除けたのだろう、掛け布団代わりのブランケットがカーペットの上に落ちてる。見慣れた寮の板張りの床とは違う落ち着いた色合いのカーペットが、昨日から滞在しているホテルであることを透に思い出させた。
 夢だ。今のは過去の夢。そうだと分かっても、体はまだ震えていた。意識的にゆっくりと深呼吸をしてから、落としてしまったブランケットを拾い上げた。枕元の電子時計には「02:47」と表示されており、まだ真夜中であることがさらに透をげんなりさせる。
 一人で寝るには少し大きいベッドに戻り、柔らかな化繊の中に顔を埋めてもう一度眠ろうと目を閉じる。今度は夢など見なくていいように、深く眠ってしまいたい。シーツが肌に触れると冷たく感じる。いつでもそばにあった彼の香りや高い体温が急に恋しくなった。五条くんの腕の中はいつだって温かく、少し硬い胸元に頬を寄せれどんなに怖い目に合った任務の後でも安心して息ができた。
 どうしてなのだろう。呪われた目と共に一人で生きていくと決めていた頃はこんな夢など見なかった。自分以外に怖いものなどなかったのに。呪いを祓えるような強さを手に入れたはずなのに、どんどん弱くなっているような気がする。夜に考え事をするとどうしてかよくない事ばかりが頭に浮かぶ。透はもぞりともう一度姿勢を変えて、見えるはずのない青色を瞼の裏に描く。透けるような、美しい空の色を思い描いている間に睡魔が来ることを願った。


「大丈夫か?眠れなかったのか?」
「少し、嫌な夢を見てしまって」

 翌朝顔を合わした夜蛾の怪訝そうな視線を長く伸びた前髪を整えるふりをして遮る。一睡も出来なかったわけではないが、いつもより体が重かった。いつものコックコートと黒いボトムに着替えて呪具を背負っても、自身の周りに膜がはっているような違和感を感じる。無理はしないようにと、保護者としても指導者としても至極真っ当な言葉を夜蛾にかけられ、小さく頷く。

「呪詛師って、たくさんいるんですね」
「そうだな。どんな組織であれ体制側に付く者ばかりではない。ましてや呪いを扱う連中だ。一筋縄でどうにかなる者の方が少ないだろう」

 今回のターゲットの潜伏先として先に情報をもらっているビルの中を夜蛾と歩きながら、ここのところ透の任務対象となっている呪詛師と言われる人間たちを思い返す。
 彼らは呪力を持ちながら、一般人を守るどころか危険に陥れ、さらには搾取している。呪詛師として通報のあった怪しげな聖典や儀式を用いる団体についての調書を読んでも、透にはどんなものか想像がつかなかった。しかし、実際に目の当たりにした現場の惨状はひどいものだった。意図的に非術師を呪霊や術式の犠牲にしていた。呪いに苛まれる人々の様子に息が詰まるとともに体の奥底でカッと火が付くように怒りが生まれた。自らを蝕む元凶である呪詛師に救いを求める姿はひどく哀れで、そしてどこか既視感のあるものだった。

「主犯格の捕縛が今日の最終目的だ。頼んだぞ」

 夜蛾の言葉に頷いた透は、ピリッとした緊張感が満ちた最上階のドアを潜る。魔眼という術式の性質上、狭い空間での共闘はあまり得意ではない。邪魔にならないようにしなくてはお荷物になってしまう。昼日中だというのに薄暗い室内には人気はない。しかし息を潜めるような呪力の気配を僅かに感じる。陽動の可能性も考えられたが、透には先に進む以外には術はない。カタン、と物音に振り向いた瞬間目に飛び込んできたのは、真っ赤に染まった自身の瞳だった。鏡面に反射した自分自身の術式が跳ね返ってきた衝撃で視界が瞬間的にブラックアウトする。しまった、と思った時には強烈な打撃が腹部に入る。両眼を庇うように右腕を上げたことで、ガラ空きになったボディへの一撃に息が詰まる。むせるように息を吐くと同時に背後からも追撃を受けなす術もなく膝をつかされた。

「噂の魔女が本当に来た」

 若い、男の声だった。乱反射した強い光を見た時のようにくらくらする頭をなんとか持ち上げ、声の方に向かって呪具を構える。鞘を放り投げて刀身を威嚇するように振るう。空を切る感触に小さく舌打ちして、目が眩んだままどうにか状況を確認しようと焦点を合わせようと試みる。目を開けているつもりでも、辺り一面真っ赤に染まったようにしか見えなかった。

「透!」

 夜蛾の声とともに襟元を後ろから引っ張られた。彼のぬいぐるみの呪骸のように後ろへ放り投げられ、どすんと尻餅をついてしまった。

「先生、すみません」
「反省は後だ。そこを動くな」

 はい、と返事をしたものの、夜蛾に届いていただろうか。間髪入れずに打撃音が聞こえ、びくりと体を震わせる。
 
 魔眼と呼ばれるものは、透の持つ魅了の性質以外にもいくつか存在するらしい。透視であったり、未来視であったりと、異なる性質の目を持つ呪術師がいたという。彼らの持つ目を封じるための対抗策はいくつも講じられてきた。その中で鏡は古来より使われてきた最も原始的で効果的な封じ手だ。それを知っていたというのに、自分がそれを受けるとなると全く対応出来なかった。
 明滅する光の中で透はそれを抑えるように強く目を閉じる。次第に光が収まっていき、そっと瞼を持ち上げる。まだ少し焦点が合わないが大凡の視力は回復していた。大柄な男のシルエットが振り向き、「大丈夫か」と声をかけてきた。その男の足元で地面に蹲り呻き声を上げるもう一人の男の様子に、ふっと体の力を抜く。

「先生…」
「見えるか?」
「輪郭ぐらいは分かります。もう少しで、戻りそうです」
「そうか…いけるか?」

 夜蛾の声に頷いた透は、しばらく目を閉じてから何度かぱちぱちと瞬いた。ぼやけていた視界が次第に明瞭になっていき、夜蛾の足元で拘束具を付けられた男に視線を合わせる。こちらを憎々しげに睨むと舌打ちした男の前に膝をつくと、男は目線を合わせるのを拒むように顔を背けた。夜蛾に殴られたのだろう、赤く腫れた頬に手を添えてぐいと目線を合わせる。魅了、その術式が男の瞳にかかるのを眺めながら、透は無意識に口角を上がっていた。

「私の言うこときけますか?」

 透が見つめると、徐々に虚ろな目をしはじめた男に向かって尋ねる。こくりと首を振った男に用意されていた質問を問いかけると、あっさりと男は口を割った。呪詛師たちの繋がりや、潜伏先など洗いざらい聞き出す間ずっと透は男に向かって笑いかけていた。
 夜蛾からはうっすらと微笑を浮かべた透の様子がよく見えた。それは十代の少女が浮かべるにはあまりに妖艶で、どこか恐ろしく見えるほどに美しいものだった。



「おかえり」

  男の身柄を呪術界の人間に引き渡しに行く夜蛾と別れ、補助監督の車に揺られて帰り着いた寮の玄関で不機嫌を顕にした声が降ってきた。靴紐を解く手を止めて透が声の主へ振り返ると、黒のスウェットパンツに白いTシャツ姿の五条が、ぶすっとした顔で仁王立ちしていた。

「ただいま、五条くん」
「……俺に言うことは?」
「えっと、ひさしぶり?」
「なめてんのか?」
「な、めてないです。ごめんなさい」

 透はなにを求められているか分からないまま、眉間に皺を刻む機嫌の悪い五条に謝った。それすらも今の五条を苛立たせたようで、鋭い舌打ちが飛んでくる。日頃から口が悪く、機嫌がそのまま態度に出る五条であったが透にその矛先が向けられるのは珍しいことだった。特に恋人と呼ばれる関係になってからの彼は、こちらが困惑するくらいいつも大事にしてくれた。その温度差に萎縮してしまった透は、数日ぶりに会えた五条にどう接していいのか分からなくなってしまった。
 会いたかった、と素直に言葉にできるほどの愛嬌もなければ、その腕に縋り付くだけの大胆さも持ち合わせていない透は叱られるのを待つ幼子のように俯くことしか出来なかった。

「ちょっと来い」

 こちらの返事も待たずに背を向けて歩き出した五条の後ろを小走りで追いかける。大きな背中を覆うTシャツの生地から肩甲骨が浮かび上がってはまた消えていく様子を見つめながら、男子寮へと続く角を曲がる。どの扉も夜に相応しい、しんとした静寂を湛えていた。その合間をギシギシと音を立てて歩く透と五条だけが夜の闇に取り残された迷子のようだ。

「入って」

 五条は部屋の扉を開けると、先に入るように促した。言われるがまま足を踏み入れた部屋は、嗅ぎ慣れた五条の匂いがした。バタン、と後ろでドアが閉まると同時に、洗剤と香水と彼自身の匂いがより一層強くなる。覆い被さるように後ろから抱き竦められた透は、その衝撃で前につんのめりそうになった。後ろに立った五条が透一人の体重など軽く抱きとめてくれているので、実際に転けることはなかったが不安定な体勢に慌てて回された腕を掴む。

「五条くん?」

 透の呼びかけに返ってきたのはほんの少し強くなった抱擁だけだった。無言のまましばらくぼんやりと月の光に浮かび上がった部屋の様子を見つめていると、少しづつ目が慣れくる。透の首筋に顔を埋めた五条の頭に恐る恐る手を伸ばす。指先に柔らかな髪質を感じて、そのままそっと髪に沿って頭を撫でてみた。ピクリと反応した五条の方にゆっくりと顔を向けると、拘束するように回されていた腕が緩んだ。それを許しだと捉えた透は五条の髪から耳を辿って頬に手を添える。ゆるりと顔を上げた五条は透を睨むように見つめるも、口を開こうとしない。

 怒っているのか、何かに耐えているのか、それとも悲しんでいるのか。透は何も言わない五条の反応に不安になっていく。もしかして飽きたのだろうか。嫌になったのだろうか。何かしてしまったのか。次々に浮かぶ悪い予想にどんどん体が冷たくなっていく。
 付き合うということは、別れるということが起こるはずだ。透に愛想を尽かした五条を繋ぎ止めることなどできるわけがない。この人の温もりやぶっきらぼうな優しさを知ってしまった私は、知らなかった頃の孤独に戻ったとき耐えられるのだろうか。否、きっとそうなったら透はもう前のようには生きられない。
 五条の隣という居場所を失いたくない。

「…すき」

 すき、という二文字が音になって静かな夜の部屋に浮かんだ。それが暗闇に吸い込まれるまでの刹那、目の前の青い瞳が大きく見開いた。透けるような青に煌めく虹彩がわずかな光を反射してガラスのように輝いている。

「は。えっ、ちょっと待って」

 珍しく慌てたような調子の外れた声。五条を先ほどまで取り巻いていた刺々しい雰囲気は瞬時に消え去り、代わりにぽかんとした間の抜けた表情が浮かぶ。その様子に透は彼に言うべきことが好意ではなかったのかもしれないと気付く。しかし一度口から零れ落ちてしまった音は意味をもってこの空間に響いてしまった。途端に羞恥が襲ってきて顔中が長風呂したときのように熱を持つ。五条に触れていた掌に汗をかいてしまい、慌てて距離を取ろうと手を離すも彼の長い腕の中に囲われた体勢では大して離れることなどできなかった。

「もっかい。もっかい言え」
「き、聞こえてたんでしょ、も、いい、離して」
「よくないよくない。ちゃんと、聞きたい」
「五条くんの言って欲しかった話は、こういうのじゃ、ないんでしょ」
「もうそれは、どうでもいい。いやあとでそれも話すけど! 今は! そっちじゃねーの! もっかい言って、おねがい」

 どんどん声のボリュームが上がっていく五条に対し、透はどんどん消え入りそうな声になっていた。場違いな告白に逃げ出したくて堪らないというのに、五条がそれを許すはずもなくせっかく空いた隙間を無くすように抱き寄せられた。長身を屈めて透の顔を覗き込む五条は、口元を緩めてにやけた顔で透にお願い、と何度も言う。こうなったら透が折れるしかないことは経験上知っている。諦めた透は小さく息を吸う。もう一度同じ言葉を音にして吐き出した。

「五条くん、すき」

 熱い。顔も耳も手も、全部熱かった。身体中が心臓になったみたいにどくどくと脈打っている。人に好意を伝えると言うことが、こんなにもエネルギーのいることだったとは知らなかった。自分の想いをこんなふうに喜んでくれる人がいるなんて、知らなかった。

「俺も。透がすき」

 五条がくしゃりと笑う。いつもの澄ました微笑みでも、人を揶揄うような笑みでもない、透と同い年の16才の男の子の笑い方だった。